「ラスト‐ストラグル」

坂本梧朗

第1部

第1話 

  

   

 

 2011年1月3日。その日、ツムジがワラシに噛みついた。ワラシはシーズー犬で、ツムジはその子だ。ワラシの悲鳴を聞いて、カーツンは驚いた。見ると、ツムジがワラシの頭に二度三度と噛みついている。カーツンは慌ててツムジの頭を叩き、ワラシから引き離した。ワラシはボックスの中に伏している。目の上の辺りに血が出ている。ツムジがワラシに噛みつくのは久しぶりだ。カーツンはワラシが憐れで、「何で噛みつくかっ」と言いながら、ツムジの頭を二回、三回と叩いた。何度叩いてもこの子にはわからないと思いながら。ワラシは伏したまま動かない。何が原因か分からないが、ボックスの中で伏していたワラシにツムジが噛みつき、ツムジを引き離した後もワラシはそのまま動かないのだ。

 その時、カーツンにワラシの衰弱が急にはっきりと意識された。ワラシはこんなに弱っているのか。この子に残された時間はもう少なくなっているのだ。カーツンは愕然とした。ワラシを放っておいてきたような気がした。ツムジの圧迫下にあることを知っていながら、放置してきたような気がして、自責の念に胸が痛んだ。目の上の辺に出血を見せて、ボックスの中で伏したまま動かないワラシが憐れでならなかった。

「ワラシは弱ってしまったね」

 とカーツンはムーサンに言った。ムーサンはティッシュペーパーでワラシの血を拭きながら、

「ツムジは本当に鬼っ子だ」

 と怒りのこもった声で言った。

「ツムジを本当にどうかせんといけんね」

 とカーツンは言った。

「このままだとワラシが可哀想だ。せめて最後の時間は安らかに過ごさせてやりたいからね」

 カーツンは今度ばかりは本気でツムジを家から出すことを考えなければならないと思った。ツムジがワラシに初めて噛みついてから十年間、それは何度かカーツンとムーサンの間で話し合われてきた。しかし出すにしても適当な先が見つからなかった。情緒的に不安定で、人見知りが激しく、未知のものへの恐怖心が強いツムジは、不適当な環境に置けばストレスで寿命を縮めることが懸念された。罪作りなことはやめようという気持が結局ツムジを家から出すことを阻んできた。そうして年月が過ぎ、ツムジが年を取るにつれて、ツムジを家から出すことはますます困難になっていった。ここ四、五年は諦めて、そんなことは考えずにきたのだ。しかし、ワラシの衰弱に気づいた今、生涯の終末期を迎えているワラシに安らかな時間を与えたい、ワラシと安らかな時間を過ごしたいという思いは、カーツンの胸の中で大きく膨らんでいた。そのためにはツムジに犠牲を強いることもやむをえないことのように思われた。

 ツムジをどこかに預けなければならない。カーツンの気持ちでは本当は預けるのではなく、引き取ってもらいたいのだが、その当ては思い浮かばない。カーツンとムーサンはとりあえず預ける先を思案した。そして、中井さんの名が浮かんだ。中井さんはワラシが産んだ5匹の子のうちの1匹を飼っている。マックと名付けているその子はツムジの兄に当る。ツムジはワラシのお腹から最後に出てきた末っ子だ。ムーサンと中井の奥さんは、パッチワーク教室や整体の体操などを一緒にしているという繋がりがあった。ムーサンは奥さんに打診して承諾を得た。

 カーツンとムーサンはワラシとツムジを日常的にも隔離することにした。ツムジの圧迫下にワラシを放置していたという反省から取った措置だ。ただ、ムーサンはそれまでもワラシだけを時々自分の店に連れていき、そこで半日を過ごさせたりしていた。それで反省の言葉を述べるカーツンに自分はそれなりに配慮していたと反論した。日中、3匹の犬は大体リビングで過ごす。リビングにはワンちゃんたちの居場所として50センチ四方ほどの毛織のボックスが置いてある。底面にはクッションが入っている。ワラシの隔離を思い立った二人は、応接間にワラシの居場所を設え、ワラシを移動させた。暖房の入った応接間でワラシはおとなしく寝ていた。カーツンとムーサンが揃って不在の日は特に隔離が必要と思量された。

 1月の第4土曜日、その日、カーツンは勤務は休みだったが、所属している同人誌の合評会があり、ムーサンはサンバアが入院する病院に行く用事があった。日中、夫婦が共に不在の日となっていた。二人の目が届かない状態でワラシとツムジを家に置くことには不安があった。夫婦はツムジを中井さんに預かってもらうことにした。ツムジがどんな反応を示すか、実験の意味合いがあった。夫婦は車にツムジを乗せ、午前中に中井さんの家を訪れた。車を門扉の前に着けると、中井夫婦は迎え出てくれた。

 中井のご主人はバス会社を定年退職して四、五年になる。マックを胸に抱え、目を細めて、「来ましたねー」とツムジに声をかけた。カーツンはツムジを抱えて車を降り、中井夫婦に挨拶をした。そして「マック」と呼びかけ、その頭を撫でた。

 庭に入り、ご主人はマックを地面に下ろした。そしてツムジも下ろしていいと言った。ツムジは庭に下ろされると、あちこちを嗅ぎまわった。マックがそのツムジの尻を嗅ぐように後を追った。マックはしばらくつきまとっていたが、案の定、ツムジがうるさがって、ウォッと吠えてマックに噛みつきかかった。それは兄妹が再会する場面で何度か起きたことだった。マックは怯んでツムジから離れた。

「マック、また怒られたね」

 と中井の奥さんが声をかけた。

「ツムちゃん、相変らずやね」

 とムーサンが苦笑を浮かべた。

 四人は居間に上がった。するとマックも上がってきた。足を拭いたりなどはしないという。マックは家の中と庭を自由に行き来できるのだ。飼い主の愛情を一身に受けて、伸び伸びと過ごしているマックの幸せを、ワラシに比してカーツンは思った。犬はやはり1匹で飼われるのが最上なのだ。なぜワラシに子どもなど産ませたのだろうという後悔がまた胸を過った。ツムジも居間に上がってきた。ツムジはやはり部屋のあちこちを嗅ぎまわる。マックはもうツムジには近づかないようだ。

 カーツンは中井夫婦に苦衷を語った。ワラシはもう長くないかもしれないから、生涯の最後の時間は安らかに過ごさせたい。それでツムジを外に出そうと決意した。ツムジには酷なことだが仕方がない。今日は実験的に預かってもらうつもりで連れてきた。というようなことをカーツンは夫婦に話した。カーツンは本当は中井さんにツムジを引き取ってもらいたかったが、相手の迷惑を考えるとそれを口に出すことは憚られた。ただ、状況が好ければ一、二泊させることもお願いできれば、とは言った。中井さんは快諾してくれた。

 カーツンとムーサンが立ち上がると、ツムジはすぐカーツンの足元に来た。そして前足でカーツンのズボンの裾をチョイチョイと掻いた。抱いてくれという要求だ。ツムジが異変を察知しているのは明らかだった。

「ツムちゃんはここに残るんだよ」

 とカーツンはツムジに言った。ツムジは後ろ足で起ちあがって、カーツンの脚に取り縋った。

「離れたくないんやね」

 と中井の奥さんが言った。

「キミ、大丈夫だよ」

 と中井のご主人が言った。

 二人はさすがにツムジが憐れで、中井夫婦に頭を下げるとそそくさと庭に下りた。ツムジも庭に下りてきた。中井のご主人がツムジを抱き上げた。二人は庭から出た。振り返ると、ご主人の胸に抱かれたツムジは食い入るような目でカーツン夫婦を見つめていた。

 ムーサンは夕方、病院から中井さん宅に回り、ツムジを受け取って帰った。二人が去った後、ツムジはしばらくは落ち着かない様子だったが、その後は家のあちこちを探検したりして、概しておとなしく過ごしたらしい。中井さんは「大丈夫ですよ」と言ってくれた。

 帰ってきたツムジは少し遠慮深くなったようにカーツンは感じた。一時ではあるが自分を置き去りにした飼い主に、今までとは違うものを感じ取っているのかもしれなかった。

 2月にも一度、ツムジを中井さんに預けた。その日、ムーサンは月に一度の整体の体操があり、家を空けなければならなかった。カーツンは仕事で不在だった。中井の奥さんはムーサンと一緒に体操に行くのだが、ご主人が家にいるので預かってもらったのだ。ご主人はその日、ツムジをマックと一緒に散歩に連れていった。ツムジは家の中では二階の奥さんの部屋でおとなしく寝ていたという。

 3月の第4土曜日、ツムジを中井さん宅に一泊させることになった。その日の昼間はカーツンは勤務で不在であり、ムーサンはサンジイを病院に連れて行く用事があった。夜は夫婦共に知人の家に招かれていた。昼夜不在なので、この際、ツムジを中井家に一泊させることを決断した。中井夫婦に申し出ると二つ返事で引き受けてくれた。ムーサンは昼前にツムジを中井さん宅に預けに行った。

 ツムジが生まれて初めてよその家で一夜を過ごすことはカーツン夫婦にとっても不安なことだった。もっとも既に3、4回、中井さんの家で半日を過ごしており、ツムジが中井家に慣れてきているのは確かだった。しかし、夜は長い。他人の家で初めて過ごす夜にツムジは不安を感じないだろうか。カーツンは夜中に中井さんから電話がかかってくることを想像した。ツムジが吠え騒いで手に負えないので迎えに来てくれという電話だ。ツムジは欲求を抱くとすぐそれを満たそうと行動する。前足でカーツンやムーサンの臑(すね)を掻く「チョイチョイ」がそうだし、閉まったフスマや戸を開けろと要求する吠え声もそうだ。そして欲求が満たされるまでその行動を続けるという執拗さを持つ。家に帰りたいと要求して吠え始めれば中井さんもお手上げだろう。そんな不安を抱きながらカーツン夫婦は一夜を過ごしたが、幸い電話はかかってこなかった。

 翌日、ムーサンが迎えに行くと、ツムジは尻尾と胴体を波のように揺すって喜びを表したが、中井の奥さんの話では昨夜は静かに寝ていたという。カーツンは肩すかしを食わされたように感じて、こいつは内弁慶の典型で、他人の家では借りてきた猫のようになるのだと思った。

 一泊した後のツムジにはまた変化が表れた。カーツンにはそう思われた。自己主張、つまり欲求をあからさまに表すことが少し減った。飼い主に一層遠慮するようになった。その分、飼い主に従順になった。ツムジは「忠犬」になっていくようだった。もう一つ表れた変化はワラシを避けるようになったことだ。ワラシがよろけてツムジにぶつかったり、側で鳴いたりすると、ツムジは嫌なものがいるというようにワラシを見て、離れるのだ。自分が他人の家に預けられるような羽目になった原因がワラシにあることを知っているからだとカーツンは思った。ワザワイの原因からは離れていようとするのだ。いずれにしてもツムジが苦労していることは確かだ。ツムジがワラシに与えてきた苦痛を思えばそれも当然のこととカーツンには思われた。ツムジも年相応の苦労をするべきなのだ。

 そんなツムジの変化もあり、引き取ってくれる先も見つからず、その後のワラシの状態の急速な悪化もあって、ツムジを家から出すプランはいつかカーツン夫婦の頭から消えてしまった。


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