~76~ 優月の旅立ち
羽琉の朝も早い。
念のため時計のアラーム機能をオンにしてはいるが、いつもアラームが鳴る前に目が覚めるので、羽琉は購入して1年程になる時計のアラーム音を設定時間に聴いたことがまだなかった。
そして今日という日は羽琉にとって感慨深い日になる。
優月の月の光、退所日。大切な優月の旅立ちを、羽琉は笑顔で見送ってあげたいと思っていた。
「羽琉くんも明日退所なのよね?」
朝の検温に来ていた笹原が少し寂しそうな表情で訊ねる。
「はい。症状的にも落ち着いてきたと思うので、これからは母の所で頑張ってみようと思ってます」
笑顔で言う羽琉の言葉に、笹原は柔らかく目を細めた。
「優月くんと羽琉くんがいなくなるのは寂しいけど、でも、こうやって笑顔になってくれたことが何より嬉しいわね」
いつでも優しく親身になって接してくれた笹原には感謝しかない。
愛のある笹原の言葉に羽琉は笑みを深めた。
「そう言えば、さっき優月くんの親戚の方が来られたから、今準備してるんじゃないかしら。もう少ししたら一緒にお見送りしましょうね」
「はい」
検温を終え、部屋を去る笹原の背中を見送った羽琉は、いつも以上に整理された自分の部屋を見回した。
明日、羽琉もここを退所する。
エクトルと共にフランスに行くことは、今更ながら一大決心だと思うが、それでも後悔は全くなかった。
最初は自分の感情に戸惑ってばかりだったが、その戸惑いを短期間で払拭出来たのは、それだけエクトルに惹かれていたということだ。それが羽琉にフランス行きという大胆な決断をさせた大きな理由だろう。
自分に対して真摯に接するエクトルの姿に胸を打たれてから、羽琉の中のエクトルの存在は日に日に大きくなっていったように感じる。
「人を好きになるっていうのはこういうことなのかな?」
自分の心なのにまだまだ分からないことだらけだ。
だが、どちらかというとワクワクしている期待感の方が大きい。自分の中にある未知な部分を知るのは怖くもあるが、少しずつ自分が成長しているような気がするから、どんなに小さな心の変化もこれからは見逃さないようにしようと思った。
「優月くんはもう準備終わったかな……」
時計を見やり、ポツリと呟く。
準備は前日までに終わらせているだろうし、退所に関する書類関係で時間が掛かっているのだろう。
月の光の退所は普通の病院とは違う。
心の病気の場合、本人の気持ちや関係性などの相性の他、本人の心身的な支援が出来るかどうか、本人に合った環境が整っているかなど調査する項目は細かい。
月の光だけがそうなのかもしれないが、心というのはそれだけ繊細なもので、再発のきっかけはどこにでも転がっている。退所にあたって、もしそうなった時、どれだけ本人を支えることが出来るのか見極めることも必要になってくるのだ。
そういうことも踏まえるのであれば、親戚である叔父たちが時間より早く月の光に迎えに来たことは優月と暮らすことを心待ちにしていた感が漂っており、諸々の項目はクリアしているように思える。
何だか羽琉も嬉しくなり無意識に笑みを浮かべていた。
そんな幸せな気持ちを胸に、優月が出てくるまで待合室で待とうと、羽琉は部屋を出た。
「あら、羽琉くん。もう来たの?」
「はい。ちょっと落ち着かなくて……」
受付のスタッフに訊ねられ、羽琉は苦笑しながら答える。
待合室にはまだ優月は来ていなかったが、事務室の奥に笹原の姿があった。どうやら優月を見送るまで待っているようだ。
3人掛けの椅子に腰を下ろした羽琉は、目の前にあるテレビをつけ、優月が来るのを待った。
それから5分くらい経った頃、優月が叔父たちと共に廊下に出てきた。
話声を察し、テレビを消した羽琉は立ち上がって優月たちを待ち受ける。同じように事務室の奥から笹原たちも待合室へ出てきた。
そして廊下から歩いてきた優月は、羽琉を見つけるとパッと目を輝かせ、走り寄ってきた。
『待っててくれたの?』
『うん。優月くんをお見送りしたくて待ってたよ』
そう言うと、優月が潤んだ目で羽琉を抱き締めた。
その温かさを忘れないよう、羽琉も同じ強さで優月を抱き締める。
優月と羽琉の様子を微笑ましく見つめつつ、叔父たちも2人に近寄ってきた。
「君が羽琉くんかな? これまで仲良くしてくれてありがとう。これからも優月くんと仲良くしてもらえるかな?」
「はい。もちろんです」
「いつでも遊びにいらっしゃいね」
叔父たちの温和な人柄が表情から窺え、嬉しくなった羽琉は「はい」と勢いよく肯いた。
『はるくん。また会おうね』
羽琉から少し体を離した優月が手話で伝えてくる。
羽琉もしっかり肯き、約束といわんばかりに小指を立てた。
その小指に優月も自分の小指を絡め、指切りげんまんをする。
『元気で頑張ってね』
『うん。はるくんもね』
名残惜しそうに小指を離すと、優月は涙を堪えるように息を大きく吸い込み、満面の笑みを作った。そしてお見送りしてくれているスタッフの方に体を向け、『今日までありがとうございました』と感謝を伝える。
「叔父さんたちと仲良くね。時々は遊びに来てくれると嬉しいな」
笹原が言う言葉を羽琉が手話で優月に伝えると、優月も嬉しそうに大きく肯いた。
「じゃあ、みなさん。本当に今までお世話になりました」
「はい。お気をつけて。何かありましたら、どんなことでもご相談下さい」
「ありがとうございます」と言って頭を下げた叔父たちは、正面玄関に停めていた車に乗り込んだ。
優月も羽琉やスタッフに向かって深く一礼した後、車の後部座席に乗り込んだ。そしてすぐさま車の窓を開ける。
『ありがとう。また会おうね』
泣きそうになりながらもそれでも笑顔を作る優月に、羽琉も笑顔を返し、『また会おうね』と繰り返し伝えた。
「またね。優月くん」
羽琉の隣で笹原も手を振る。
唇の動きで笹原の言葉を読み取った優月はコクリと肯く。
「それでは、また」
助手席に乗っていた叔母が挨拶し、それを合図にゆっくりと車が動き出した。
『またね。優月くん』
『またね。はるくん』
後部座席から手を振る優月を、月の光のスタッフと共に羽琉も見送る。それから大通りを左折して車が見えなくなるまで、羽琉たちは手を振り続けた。
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