~75~ 幸福な想見

 エクトルの朝はいつも早い。羽琉と会う日はいつもに輪をかけて早起きになる。それだけ羽琉と会うことを楽しみにしている証拠だろう。

 だが今日という日は羽琉と会えないと分かっていたので、いつもと同じ時間帯にエクトルは起床していた。

「エクトルと同便の航空チケットが取れました。花村さんにもお伝えしてよろしいですか?」

 エクトルが起床した数分後に部屋に訪れたフランクが問いかけると、エクトルは「あぁ」と短く返事をした。それからソファーに深く腰を下ろし、フランクが淹れてくれたコーヒーを啜る。目の前にある43インチのテレビの電源はついているが、エクトルの視線は手元にある数枚の書類に向いていた。ただテレビから流れる日本語を耳で拾える程度に日本語が上達していたエクトルは、気になるニュースが流れる度、視線を上げテレビに見入っていた。

「銃社会じゃないのは平和だと思っていたが、そうでもないのかもしれないな」

 突然ぽつりと言い出したエクトルの言葉に、テレビを見ていなかったフランクは「はい?」と眉間にしわを寄せて訊ね返す。

「いや……平和と言えば平和かもしれないが、なんと言うか、平和に浸っていて危機感が全くないように思える」

 何を見てそう思ったのかとフランクもテレビを見てみると、ニュースの特集コーナーで現在日本で流行っている詐欺を取り上げていた。言葉巧みに被害者の不安を煽る詐欺の手口を、元警察の男性がこれまでの経験を活かし深く掘って解説している。

「平和に浸っているのもあるかもしれませんが、どちらかというと国民性が起因しているような気がします」

「国民性?」

「日本人は良くも悪くも人が良いのですよ。少しでも同情してしまったり相手に親近感を感じれば、自然に信用してしまうのです。まぁ一概には言えませんが」

 大して興味があったわけでもなかったエクトルは、その話題を「なるほど」と短い返答をすることで切ることにした。

「ところで今日の予定はどういたしましょう」

 察したフランクも話を変える。

「当初フランクが予定していたことでもしようか」

「……観光、ですか?」

「観光というよりは、どちらかというと散策かな」

 書類から目を上げて言ったエクトルの言葉にフランクは小首を傾げた。

「観光地というのは場所柄、訪れている人が日本人じゃない可能性も十分あるだろう。確かに集客率を考慮している場所であるといえば、我々にも利になる情報収集は出来るだろうが、それよりは近辺を散策して日常の生活を目にすることで、地元のニーズを探る方が有益だと思っている」

 エクトルの答えにフランクは満足気に笑む。

 今日1日しかないことを考えると、そこまで多くの情報を仕入れることは出来ないだろうが、エクトルの眼識が高いことを知っているフランクは、要職であるエクトル目線でのプラスになる情報は得られると思っている。だからこそ、それに対して異論を唱えようとは思わなかった。

「ユヅキの退所は今日だったな」

「はい。お見送りに行かれますか?」

 フランクの問いに少し考え込んだエクトルだったが、「いや」と言って首を振った。

「ユヅキとの別れは私にも名残惜しいものがあるが、ハルとの別れに時間を割いて欲しい。それにハルは明日までにいろいろと準備があるだろうし、その邪魔をしたくはない」

 羽琉に会いたいという気持ちを押し殺して言っていることが、その哀調を帯びた表情から見て取れる。

「今日はフランクもゆっくりしてくれ。別件のこともあって、来日してからそんなに休んでないだろう? デパートにでも行ってユリへのプレゼントを選んでくるといい」

 エクトルの言う通り、来日してからあまり休んでいないのは確かだ。出発時間を考えると、明日も土産物を選んでいる余裕はない。

 日本土産は、フランクにとっては愛する友莉のための贈り物だ。時間に追われバタバタと粗雑に選んで失敗したくはない。何ヵ所も見て回り、品定めをし、妻が喜ぶ物を買いたいというのが愛妻家の心情だろう。

「では、お言葉に甘えてそうさせて頂きます。何かありましたら、連絡下さい」

「あぁ」

 来日してからというもの、時間があれば日本の流行雑誌をフランクが多読していたことをエクトルも知っている。今から何を買うか考え込んでいるフランクの嬉しそうな顔――あからさまな表情の変化はないが――を見て、エクトルもふっと微笑んだ。

 フランクの気持ちはエクトルにもよく分かる。

 エクトルが羽琉のことを考えている時と同じだからだ。

 相手が喜ぶことを考えている時間はとても幸せで、無意識ににやけてしまうのも無理はない。羽琉と出会わなければ、こんな幸せな時間を実感することは一生なかっただろう。

 そんなことを考えているだけでエクトルの表情も自然と変わっていた。

「明日が楽しみですね」

 フランクの言葉で自分の表情が緩んでいることに気付いたエクトルだったが、隠すことなく素直に「あぁ」と嬉しそうに答えた。

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