~72~ 溢れるハルへの想い

 佐知恵が部屋を去り、改めて訪れた2人の空間にしばしの沈黙が流れたが、エクトルは気になっていたことを羽琉に訊ねることにした。

「……ハルは最初から私との関係を隠すことは考えていなかったんですか?」

 日本での世間一般からすれば、こういう内容のカミングアウトは相当な覚悟がいることだ。反対される可能性の方が遥かに高い。渡米歴のある佐知恵だからこそ、同性愛者に対して偏見はないだろうことはエクトルにも予想は出来たが、実際に自分の息子から言われるのとでは訳が違うし、衝撃も大きいはずだ。

「正直、隠すことも考えてはいました。でも隠し事はすごく疲れるし、僕には難しいんです。それに母さんに嘘を吐きたくありませんでした。でも唐突に明かしてしまったことは謝ります。すみませんでした」

 そう言って申し訳なさそうに頭を下げて詫びる羽琉に、「いいえ。謝ることは何もありません」とエクトルは慌てて顔を上げるよう促した。

「私たちの関係性を内緒にしたままでお母様を説得することは、私も難しいと思っていました。いえ。それを言ったところで渡仏行きを納得して頂くことは無理だと、半ば諦めてもいました。それに例え今日が無理だったとしても時間を掛けて私を知ってもらい、お母様の信頼を得てからでも良いのではないかと思い始めてもいました」

 正直な胸の内をポツポツと話すエクトルに、羽琉も静かに耳を傾ける。

「でも、とハルは言ってくれました。私に対するとも言ってくれました。その気持ちを知って本当に嬉しかった。だから私も正直にお母様に話そうと思いました。自分の気持ちを包み隠さず全て」

 そして先程の場景を脳裏で反芻させたエクトルはどこか悔し気に苦笑する。

「フランクが言っていたことも尤もです。ハル。私こそすみませんでした。ハルの負担を少しでも減らせる方法があったのにそれを伝えなかった」

 すみませんと頭を下げるエクトルに、羽琉はゆっくりと首を横に振った。

「そう言ってくれるエクトルさんが隣にいたから、母さんに正直に話そうと思ったんです。エクトルさんを知ってくれれば、母さんも絶対に気に入ってくれると確信がありましたから」

「すごい自信ですね」

 そう言ったエクトルに羽琉は「そうですか?」ときょとんとする。

「それに母さんが同性愛に偏見がないことは何となく分かっていました。だったら、僕の本気を分かってもらうだけで良い。そのためには正直に話した方が僕としては説得し易かったんです」

「ハルの、本気……」

 その本気はエクトルにとってとても嬉しいもので、大切なもので、そしてこれからも大事にしたいものだった。

 エクトルは下から掬うように羽琉の手を取ると、その上に自分の手を重ねた。

「やはり私にはハルが必要です。ハルを知るほどに、私の愛は深くなっていきます」

 綺麗な微笑で愛おし気に羽琉を見つめる。

「守ってあげたくなるか弱さがあるかと思えば、決して曲げない芯の強さを持っている。頼りなげに不安そうな表情をしている時もあれば、自信に満ちた優美な笑顔を見せる時もある。今日はいつもとはまた違ったハルを知ることが出来ました」

 羽琉の新たな一面を発見し、エクトルは嬉しそうだ。

「ハルから得られるものばかりで、今はハルと会える毎日が楽しみで待ち遠しいです。その毎日がこれから訪れるのだと思うと……とても感慨深くて、胸の中が幸せで溢れてしまいそうです」

「……そんなに毎日あげられるものなんて持ってないので、期待されると困ります」

「ハルと一緒にいられるだけで幸せをもらっているので十分ですよ」

 歯の浮くようなセリフでもエクトルが言うと、日常のありふれた言葉のように聴こえる上に全く違和感がないから不思議だ。

 そして突然思い出したように「あ、そうでした」とエクトルが声を上げる。

「ハルにはちゃんとプロポーズをしたいので、先程のは聞かなかったことにしておいて下さいね」

「!」

 その言葉で、急に意識させられた羽琉は頬を染めて瞬きを繰り返した。

 羽琉自身もエクトルとの先のことをぼんやりと考えてはいたが、あの場ではっきり言われるとは思ってもいなかったので、かなり衝撃的だった。

 それについての答えはまた改めて考えなければならないだろう。

「もうそろそろ食事の時間になりますね。フランクも待っているので、私もお暇しようと思います」

 そう指摘され羽琉が時計を確認すると、確かに12時になろうとしていた。微かに廊下からいつものように配膳車のキャスターの音も聞こえる。

 立ち上がりドアへと向かうエクトルの後を付いていくと、振り返ったエクトルに「ハル」と呼び掛けられた。

「私の帰国に合わせてくれてありがとうございます。でも急な出立になるので、明日は私と会う時間をユヅキやササハラサンたちに挨拶する時間にして下さい」

 そこについては羽琉も言おうと思っていた。もちろん出立の準備もあるのだが、明日1日しかないと思うと、エクトルの言うように優月や笹原との別れに時間をあてたかったし、自分の心の整理もつけたかった。

 それに明日は優月の退所日だ。羽琉は出来るだけ優月との別れに時間を充てたかった。

 そこを汲み取ってエクトルから提案してくれたことに感謝しつつ、羽琉はコクリと肯き返す。

「見送りはここで良いですよ。この時期のリヨン行きは空席があると思うので、同じ便は取れると思っています。取れ次第、お母様を通じてハルに伝えますね」

 もう一度肯き返した羽琉はエクトルを見つめ、「今日はありがとうございました」と頭を下げた。

 満面の笑みを向けたエクトルは、羽琉に小さく手を振るとそのまま部屋を後にした。

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