~71~ エクトルの懺悔と母の是認

「……」

 取り残された佐知恵と羽琉は半ば呆然としつつ、フランクの去ったドアを見つめていた。

 そこで見計らったように、大きく息を吐いたエクトルがようやく顔を上げる。

「……本当はユリのことも頭に浮かびました」

 エクトルは白状するように溜息を吐いた。

 ぽつりと話し出したエクトルに、羽琉も佐知恵も視線を向ける。

「でも私は、同じ失敗を繰り返したくなかったので、誰の手も借りずに羽琉と共にあらゆる問題を乗り越えていこうと思っていました。乗り越える度に、羽琉との絆も深くなるような気もしていたので、逆に楽しみにしていたくらいです」

 自嘲気味に笑ったエクトルは、次いで懺悔するように表情を歪めた。

「フランクの言った通り、ユリに頼めば全てが解決します。それはすなわち、羽琉の精神的負担を減らすことに繋がります。なのに私は羽琉にとってプラスになることさえも、自分のエゴのために選択しなかった。いつでも最優先に考えるべきは羽琉のことなのに変な意地を張ってしまいました」

 羽琉がフランスでの生活や就職に不安を抱くことは明白だった。エクトルに借金をしている身ならば、なおさら焦燥感に駆られてしまうだろう。だからこそ精神的な負担や不安を減らすためにエクトルから友莉に相談し承諾を得、そのことを羽琉に話さなければならなかった。

 エクトルは今回も選択を誤ってしまった。

 そんな心底後悔している様子のエクトルを見つめたまま、佐知恵が「なるほど」と声を上げた。

「羽琉の言った通りね」

 佐知恵の言葉の意味が分からず、エクトルは小首を傾げる。

「エクトルさんの考えが間違いかどうかは決められないけど、そういう考え方、私は嫌いじゃないわ。自分が失敗したと正直に打ち明けたその潔さも好印象ね。それに……何となく、羽琉があなたを好きになった理由も少し分かった気がする」

 思わぬ佐知恵の言葉にエクトルは目を丸くした。聞き間違いかとも思ったが佐知恵の表情を見るにそうではなさそうだ。

「さっきの話は羽琉も知らなかったみたいだし、だったら、あなたと乗り越えることを羽琉も最初から選んでいたってことじゃない? 羽琉だって誰かに頼ることなんて考えてなかったってことでしょ?」

 佐知恵の問い掛けに羽琉はコクリと肯く。

「確かに不安はたくさんあると思うし、私としてもまだまだ心配な点は多いんだけど……」

 佐知恵の不安要素を完全に払拭させることは、羽琉にもエクトルにも無理なことだ。しかしそれでも佐知恵の表情に仕方ないという諦めと、2人の熱意に負けたという苦笑が浮かぶ。

「フランクさんの話を受けるかどうかは羽琉が決めることだと思うけど、今の2人の話と、これから起こり得る問題にちゃんと立ち向かう覚悟があることは理解出来たから、私はフランス行きを認めるし、2人のことを応援したいと思う」

 驚きを隠せない羽琉とエクトルは反射的に見つめ合う。そして羽琉が窺いつつ確認するように「ほん、とに?」と訊ね返した。

 佐知恵はしっかりと肯く。

「ほんとに、応援してる。でもね、1つだけ覚えていて欲しいことがあるの」

 佐知恵の言葉に、羽琉は小首を傾げて問い掛ける。

「あなたたちの周りには、ちゃんと支えてくれる人たちがいる。それを忘れて自分たちだけで何とかしようすれば、必ずどこかに無理が生じてしまう。それはあなたたち2人の関係性を壊してしまうものになるかもしれない。だから2人でどうにか出来そうにない時はちゃんと周りに頼りなさい。日本は遠いけど、私にも出来ることがあるかもしれないから、相談したいことがあったらいつでも連絡して」

「うん。ありがとう……」

 ホッとしたのと、どこか申し訳ない気持ちが混ざり、複雑になりながらも自分たちのことを理解してくれた佐知恵に羽琉は心から感謝した。

「エクトルさん」

 佐知恵から改めて名を呼ばれたエクトルは、羽琉に向けていた視線を佐知恵に流した。

「羽琉のことをよろしくお願いします。私の影響で海外には比較的慣れている子ですが、旅行することと外国に住むことは違います。羽琉にとっては未知の環境で、それ故に様々な壁にぶつかることがあると思います。その時は手を貸してあげて下さい」

 エクトルは神妙な面持ちで「はい」と肯く。

「それから恋愛において時には喧嘩することも必要だと思っています。いつでもお互いの素直な気持ちをぶつけあって下さい。ただ羽琉は恋愛に不慣れなので、その点を加味して、ある程度譲歩してもらえると助かります」

 「大人だから言う必要はないと思いますけど」と付け加えたが、なぜかエクトルから「私もです」と返事がきた。

 怪訝そうに「私も?」と佐知恵が聞き返すと、エクトルは照れたような苦笑を浮かべた。

「私も初恋なんです。これまでの恋愛において、自分から求めた相手はハルしかいません。こう言ってしまうと、今までが遊びだったのかととられてしまうかもしれませんが、ハルを好きになったことでこれまでの恋愛が間違っていたのだと気付きました。こんな気持ちになったのは初めてです」

「……そう」

 ふっと微笑んだ佐知恵は、お互いに良い影響を与え合っているのだと察した。

「それで? いつこっちを立つつもりなのかしら?」

 佐知恵がエクトルを見つめて訊ねるところを見ると、エクトルの中でその日時が決まっていると確信しての質問のようだ。

 エクトルは読まれていることに苦笑した。

「ハルにも、まだきちんと伝えてはいなかったのですが、私の日本での仕事が明後日に終了します。ハルの心の整理がつくまで待つつもりではいますが、もし叶うならば、私たちと一緒にフランスに来て欲しいというのが本音です。明後日の10時15分の便です」

 納得したように肯いた佐知恵は「羽琉は?」と羽琉にも確認してみる。

エクトルの希望は聞いてなかったが、フランス行きを決意した時、羽琉も同じように思っていたのでコクリと肯く。

「エクトルさんにも仕事の都合があると思うから、あんまり煩わせたくないんだ。だから明後日の便が空いていれば、エクトルさんの予定に合わせて明後日一緒に立つのが良いと僕も思ってる」

「分かった。それまでに費用を用意するわ」

「え?」

「お母様、費用は私が……」

 驚いた羽琉と同様、エクトルも慌てて口を開いたが、佐知恵は笑って首を横に振った。

「羽琉の新しい旅立ちだもの。母親としてこれぐらいはさせて」

 母親としての立場を主張されれば、これ以上口を挟めない。

「……分かりました。成田からリヨンへの直行便がありますので、その便でチケットが取れましたら、すぐにお伝えします。それと……」

 言葉を切ったエクトルが、用意していた連絡先を書いた紙を佐知恵に渡した。

「これは私の住所と連絡先です。一応、会社の方も書いておきました。よろしければお母様の連絡先も教えて頂けますでしょうか」

 肯いた佐知恵に羽琉がメモ帳とペンを差し出す。佐知恵は自分のスマホをバッグから取り出すと、差し出されたメモに花村家の住所と電話番号、自身のパソコンのメールアドレスを書いた。

 そのメモ帳をエクトルに渡した佐知恵は、羽琉にペンを返す。

「取り敢えず私の家に引き取るっていう形で退所手続きしておくわね。明後日は私が迎えに来るから、羽琉は退所の準備とお世話になった方々に挨拶を済ませておきなさい」

「うん。ありがとう」

 そう言って立ち上がった佐知恵が、同じように腰を上げた羽琉の右手を握る。

「母さん?」

「……急な旅立ちだから、本当は……寂しいわ。でも二度と会えないわけじゃない。時々は電話をしたり、長期の休みがあった時はエクトルさんと一緒に日本に帰ってきて欲しい」

 羽琉は当然だとばかりに勢いよく肯いた。

 自分を見つめる佐知恵の目が潤んでいるように見える。

「ここに来ればいつでも会えると思っていたから、それがなくなると思うと……」

 佐知恵にしてみれば全てが突然の話で、頭の中を整理する時間さえなく、ここまで話が進んだ。本当はフランス行きも、もっと時間を掛けて慎重に話し合いたかったというのが本音だった。

 羽琉との別れを惜しむ時間もないと思うと、これまで羽琉と接する時間を作ってこなかったことを後悔した。

「でも羽琉には幸せになって欲しいから……体調にだけは気を付けて。エクトルさんと仲良くね」

「……うん」

「じゃあ……今日は日本語教室の日だから、もう帰るわね」

 寂しさを振り切るように息を吐いた佐知恵は、「またね」といつもの軽い挨拶で羽琉の部屋を後にした。

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