~47~ 恋人としての心得

 以前感じた以上に心が舞い上がっていた。呑んでもいないのにふらふらした心地で、エクトルはホテルの部屋に向かう。

「……何があったか訊かなくても分かりますね」

 戻ってきたエクトルのいつにない浮ついた様子に、聡いメンターはすぐに察しがついた。

「良い返事が頂けましたか?」

「私と会えなくなるのは淋しいと言ってくれた。ハルは論理的に答えを出そうとしていたみたいだけど、最後は自分の感情に素直になってくれたようだ。私としては嬉しい限りだね」

 エクトルから詳細を訊かずとも、フランクは「なるほど」と肯く。

「小田桐さんは柔軟な思考をお持ちのようですね。そこまで突き詰めて考えなくても結構簡単に答えは出るものです。もしこうだったらと仮説を立て、それによって自分がどう思うかだけでエクトルに対する答えとしては十分でしょう。ただ仮説を立てる上で重要なことはエクトルの人柄を知ってもらうことです。それによって答えが導かれます。今回エクトルの望む答えを小田桐さんが導き出したということは、エクトルの人柄に少なからず好意を持ったという表れでしょうね」

 フランクの筋の通った解釈にエクトルは苦笑した。

「同性同士という壁は最初の時点で越えていたみたいだしね」

「そこについては私の中で疑問が生じています。あまり世間体を気にしない方なのでしょうか?」

「いや。フランクの言う通り、日本人であるハルにとっては、かなりハードルが高かったと思うよ。でもハルは一般常識に捉われたり、それによって本質を見失うことはなかった。愛に境界はないという私の言葉に意味を見い出してくれたんだ」

 脳裏に浮かぶ愛しい恋人を慈しむように目を細め、寛容で情の深い羽琉に心底感謝する。

「何にしてもエクトルの初恋が成就したことは喜ばしいことです。おめでとうございます」

 照れつつも、「ありがとう」とエクトルも返す。

「まだギリギリのような気がするがな。恋人という期間もハルにとっては模索する期間なのかもしれない」

「ならば嫌われないよう努力しなければなりませんね」

「恋人のために努力することは当然だ。だが私はもっと好かれる努力をする」

 同じような意味合いに取れるが、エクトルがどこに重きを置いているのかを思わせる言葉だ。

「ですが、小田桐さんにはまだハードルがあります」

 打って変わって神妙な面持ちでフランクが忠告する。

 その意味を理解するエクトルも同様の表情で肯いた。

「ハルのことを心身共に守れるのが恋人である私の役割であり特権だ。どんなに時間が掛かろうが、ハルが私といて幸せだと常に感じられるような居場所を、私は作らなければならない」

 エクトルは自戒するように自身の心に刻む。

 忘れることは難しいかもしれない。今回のように、ふとしたきっかけで思い出してしまう可能性だってある。だがもし思い出したとしても、エクトルがそばにいることで羽琉の心の傷を癒せたらと強く思う。

「仕事との両立は大丈夫そうですか?」

 フランクの問いに、エクトルはニッと口角を上げた。

「どちらも手を抜くつもりはない。今まで以上に充実した日々が送れるだろうね」

 自信に満ちた不遜とも取れるような笑みだ。

 羽琉に断られた場合の慰め方まで考えていたフランクは、それが杞憂に終わったことに安堵する。羽琉の寛大さには敬服するものがあると思った。

「今日早く戻られたのは、小田桐さんの精神的な負担を考えてのことですか?」

 エクトルは無言で肯く。

「会話の途中、やはり呼吸が乱れるんだ。それが私に対する緊張からくるものなら良いが、それ以外の理由なら精神的のみならず、身体的な苦痛まで強いることになる。ハルを苦しめることは絶対にしたくない」

 そこを見極めるには、まだ羽琉との時間が足りない。今後、接していく中で的確に見極められるようにならなければならいないだろう。

「エクトルに対する小田桐さんの反応に変化などは見られましたか?」

 フランクの問いに、エクトルは「ん~」と間延びした声を出した。

「私からの『会わない』というメモを勘違いしてショックを受けたり、ハンドキスに赤面したり、ビズを受ける時どうすれば良いか分からず硬直してたり……。可愛い反応ばかりだった」

「…………何をしてるんですか?」

 日本にはない習慣に羽琉が戸惑うのは当然のことだ。最初のメモの件以外はエクトルが面白がっていただけだろう。フランクは咎めるように眉根を顰めた。

「ちゃんとハルの承諾は得ているよ。挨拶程度のスキンシップなら良いとね。それにこれはれっきとした挨拶だ。ハルにも覚えてもらいたいし、今後のために慣れて欲しい」

「ならば私がしても構わないのですね?」

 フランクの売り言葉に、エクトルは人差し指を立てると「チッチッチッ」と舌打ちをしながら横に振った。

「ビズは基本、男性同士はしないものだ。家族や恋人だったら構わないがね。もしフランクが『挨拶』としてハルにビズをするつもりならば、私からの刺すような冷たい視線を浴びる覚悟くらいはしておいて欲しいね」

 その情報を羽琉に与えていない時点で不誠実だとは思わないのだろうか? 

 勝ち誇ったようなエクトルに、フランクは呆れ果てるばかりだ。恋は盲目とはよく言ったものだと感心するように思った。

「嫉妬深い恋人は鬱陶しがられますよ」

 フランクをちらりと見やったエクトルは少々不満気ではあるが「確かに」と納得するように肯く。

「そこはセーブ出来るよう善処しよう」

 よほど羽琉に嫌われるのが嫌なようだ。

「これでようやくの話も出来ますね」

「……あぁ、そうだね。流れをみて話せるようなら早々に話してみよう」

「小田桐さんが日本から離れたくないと仰ったらどうされるんですか?」

 フランクの問いに「ハルの意思を尊重するさ」とエクトルは即答する。

「日本でデートっていうのも楽しそうだしね。ただ遠距離恋愛になるし、日本では婚姻関係になることが出来ない。ゆくゆくは渡仏して欲しい旨を伝えておこうとは思うけど焦らせることはしない」

 エクトルの答えにフランクも同意するように肯いた。

「ところでフランスの家の方は大丈夫なんですか?」

 フランクの指摘に「そう言えば」と思い出す。

「ハルから良い返事がもらえると思ってなかったから、サラにもナタリーにもまだ伝えていなかった」

 サラはエクトルが雇っているハウスキーパーだ。41歳で子供が2人。エクトルが仕事で外出している時間帯で2~3時間程家事をしてもらっている。

ナタリーは60代後半の主婦でエクトルの家の隣人だ。1人暮らしのエクトルの体調面を気遣い、ほぼ毎日食事を作って届けてくれる。さすがにただで食事をもらうのは気が引けたため、一度材料費など申し出てみたが、「子供がいないからこのくらいしか楽しみがないの。材料費の代わりに食事を作る楽しみをもらっているから何もいらないわ」と笑顔で断られた。

 遠慮とは、時に人との距離を必要以上に開けてしまう場合がある。もしかしたら素直に甘えるのも、ナタリーにとっては嬉しいものなのかもしれない。そう思ってからは家族のような付き合いをしている。とても優しい隣人だ。

「2人とも偏見はないと思うけど驚きはするだろうね。でも絶対にハルを気に入るはずだ」

 2人の性格を鑑みた上で羽琉の人柄を照らし合わせれば、その答えはすぐに出た。

「私もそう思います」

 そして2人を知るフランクも同じ答えに至る。

「いつになるかは分からないが、ハルとの生活を想像するのも幸せなものだね」

 そう言って今まで見せたこともない甘い表情をするエクトルが、どんな同棲生活を思い描いているのか、有能なメンターが想像するのはかなり容易なことだった。

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