~25~ バタフライ・エフェクト

 そこまで考えた時、ふと夢のことを思い出した。そしてそのまま「サ ヴァ アレ」と呟く。

「?」

 不意に呟いた羽琉の言葉に、エクトルは不思議そうな表情で羽琉を見つめた。

「夢だったので上手く思い出せないのですが、あなたの声で聴こえた言葉は、多分これだと思うんです。その時僕は……その、悪夢を見ていたので、その言葉で起こされてすごく助かりました」

 昨日、再会直後に話したことだと理解したエクトルは話の内容が分かり、なるほどと納得した。

「悪夢に苦しんでいたハルを、私は上手に助けてあげられましたか?」

 羽琉は肯定するように肯くと「ありがとうございました」と付け加えた。

「実際の私ではありませんが、私の声と言葉で悪夢の中のハルを助けてあげられたことはすごく光栄です。頼ってもらえたようで嬉しいです」

「その……エクトルさんに『大丈夫』というフランス語を教えてもらった時、夢の中の言葉と重なった気がしました」

 そう言った時、「……やっと呼んでもらえましたね」と安堵の息と共にエクトルの声が聴こえた。

 何のことかと小首を傾げると、さらに「名前です」と言葉が追加された。

「私の名前を初めて呼んでもらえました」

 そうだっただろうか? と怪訝な表情になる羽琉にエクトルは話を続けた。

「確かにハルは口数が少ないようですが、その代わりに表情だったり、仕草だったり、会話の間だったり、私を見つめ返してくれる真っ直ぐな目だったり……その全てがハルのことを私に教えてくれます。黙考し慎重に吟味して言葉にするところも、他人の気持ちを察し、その心に寄り添おうとする優しいところも私は愛おしいと思います」

 何か見透かされているような感覚に羽琉は恥ずかしくなったが、短い時間で多くの情報を得るために、エクトルは羽琉の全てを見ているのだと知った。

「エクトルさんは僕の言葉だけじゃなく、いろんなところに目を向けてるんですね」

 羽琉が感心したように言うと、エクトルは「仕事柄ですね」と苦笑した。

「人事を担当しているわけではありませんが、立場上、面接に立ち会うことがあるので人を見る目には自信がありますよ」

 はっきりと断言するエクトルに、それだけの自信を裏付ける実績があるのだと察すると、羽琉は感嘆の息を漏らした。

「フランクの面接も別室で見させてもらいました。彼が日本通で本当に良かったと心から思っています。こうしてハルに出会えた私にとっては、僥倖とも言えるバタフライエフェクトでした」

 聞いたことのない単語が出てきて、羽琉は小首を傾げる。

「バタフライ……? 蝶々?」

 不可解な表情の羽琉を見て、エクトルはクスクス笑った。

「蝶々は、これを考えた学者の講演題目からきてます。『ブラジルにいる1匹の蝶の羽ばたきは、テキサスで竜巻を引き起こすか?』」

 そう言ってエクトルは説明を始める。

「カオス理論の1つです。簡単に言うと、1つのほんの小さな出来事が、後に思い掛けないほど大きな出来事に変わる、といった意味です。それが良い方向なのか悪い方向なのかはその過程によって変わってきますが、私の場合、かなり良い方向へ繋がりました。彼の面接をしなければ、私は日本進出を考えませんでしたしね。もっと言えば、私が今の役職に就いていなければ面接を見ることも出来なかったし、そもそも今の会社に入らなければこの結果に繋がることは……絶対にないとは言い切れませんが、確率は相当低いでしょう。バタフライエフェクトとはそういうことです」

「……」

 羽琉は不思議だと思った。

 かなりな偏見だが、エクトルのような容姿の人ならば羽琉と出会えたことは運命だと一言で片付けてしまいそうな気がした。そこに理論を求めることが珍しいと思った。

「これは偶然に偶然が重なって繋がったものですが、出会えたことには意味があると私は思います。その意味となるものが、ハルに対するこの想いならば、私は大切にしたい」

 慈しむような眼差しを向けられる。

 このエクトルの考え方も共感出来ると羽琉は思った。そうかもしれないと思った。

 笹原や優月と出会えたことにも、きっと意味がある。人付き合いが苦手な上、過去にあんな事があった羽琉に、笹原たちは普通に接してくれる。今心穏やかな時間を作ることが出来ているのは笹原たちのお陰だ。

「……何となく、分かります。だから僕も大切にしたいと思いました。エクトルさんとの出会いを」

 一瞬真顔になったエクトルが、次第に満面の笑みを浮かべる。

「嬉しいです。ハル」

 あぁ。この笑顔は綺麗だな。

 羽琉は心の中で呟くように思った。

 描き止めておきたい――そう思ったのは初めてだった。

「おっと……今日はここまでですね」

 エクトルが名残惜しそうに言う。

 そう言われて羽琉も携帯電話で時間を確認すると、昼食時間の30分前になっていた。今日は優月との外出が遅くなったため、エクトルに割けた時間は1時間弱くらいだった。初日と考えれば、このくらいが精神的にも負担が少ないだろう。だが実りのあった1時間弱とは言い難いと羽琉は思った。多分、エクトルの方がそう思っているだろうと――。

「あまり自分のことが話せず、すみません」

 つまらなかったのではないだろうかと思い、羽琉はつい謝ってしまった。

「違いますよ。ハル」

「え?」

「これから私と会う時間は、ハルが答えを見つけるための時間です。私の性格などを知ってもらうことが目的でもあります。だから話せないからと言ってハルが謝ることは何もないのです。私は会えるだけで幸せですし」

「……」

 だが羽琉には申し訳ない気持ちの方が強かった。何故ならエクトルは羽琉のことについて何も聞いてこなかったからだ。話したくないのだと察しているのかもしれないが、エクトルが自分のことを話している以上、どこかフェアじゃないような気がする。

「ハルは自分の気持ちと向き合って下さい。私との会話は二の次で結構です。私の告白にちゃんとした答えを出したいと言ってくれた、その答えを導くためのヒントを私からたくさん見つけて下さい。提供は惜しみませんので」

 こんなにもエクトルから想われているのだと理解し、羽琉は少し恥ずかしくなったが、その言葉は確実に羽琉の心を軽くしてくれた。

 羽琉は微かに頬を緩め、「ありがとうございます」とエクトルに礼を言った。

「……笑ってくれましたね」

 エクトルに感慨深げに言われる。

「緊張させているのは分かっていたんですが、やっぱりハルの笑顔が見たかった。少しは解れましたか?」

 羽琉はきょとんとした。

 あれ? 笑ってなかったっけ?

 羽琉は全く気付いていなかった。

「私に向けて微笑んでくれた今日という日が宝物になりました」

 そう言って心底嬉しそうにエクトルは微笑む。

「僕もエクトルさんの笑顔は好きです」

 つい無意識にそんなことを呟いてしまった。

「……本当ですか?」

 エクトルが驚いた表情で羽琉を凝視する。

 何だろう? と不思議に思っていたが、よくよく自分が言った言葉を思い出した羽琉は急に恥ずかしくなって顔を赤らめてしまった。

 軽く言い過ぎた。好きだなんて……。

 どうしようかとグルグル考え込んでいた羽琉の耳に、エクトルの小さな笑い声が聴こえた。

「私も羽琉のはにかんだ笑顔が大好きですよ」

「!」

 そこで羽琉はハッとする。

 そうか……。もしかしたらこういうところかもしれない――。

 まだ少し赤く染まった頬でエクトルを見つめつつ、羽琉は思った。

 羽琉の内心の困惑を察し、エクトルも合わせるように「羽琉の笑顔が好きだ」と言ってくれた。「好き」の言葉を強調させないための、エクトルのさり気ないフォローだ。

 「人を見る目には自信がある」とエクトルは言った。内面を見抜く力が相当長けているのだろう。だから羽琉の小さな動揺も簡単に見抜いてしまう。だがその洞察力もこれまでの人生経験の中で培われたものかもしれないと思うと、目の前にいるエクトルに尊敬の念が生まれた。

「では、また明日、連絡を待っていますね」

 別れ際も潔い感じがする。

 羽琉は「はい」と肯くと、立ち上がりエクトルに軽く頭を下げた。

「ハル」

 急に真剣な眼差しで名を呼ばれ、頭を上げた羽琉も神妙な面持ちになる。

「もし私の気持ちに対する答えが見つかったら、期限を待たずに言って下さい。そうすればハルの精神的な負担も少しは軽減します」

「……」

 それがどちらの意味で言った言葉だったのか、羽琉には分からなかった。ただ真剣でありつつも柔らかなエクトルの表情を見ていると、羽琉に断られることを予想しての言葉のような気がした。

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