~24~ 自己紹介
背後からエクトルの声が聴こえ、羽琉は反射的に振り返った。
「あ、いえ」
立ち上がってぺこりと頭を下げる。
「何か描くんですか?」
手に持っているスケッチブックに目を止めたエクトルがにっこりと訊ねた。
その質問に羽琉は首を振る。
「いえ。何となく持ってきただけなので」
「何か描きたいものがあれば遠慮なく描いて下さいね。邪魔はしませんので安心して下さい」
エクトルの言葉に少し黙考した羽琉は、「いいえ」と首を振った。
「絵はいつでもどこでも描けますが、あなたと会う時間には期限があります」
だから優先すべきはエクトルの方だと言外に含める。
エクトルは一瞬真顔になった後、ふわりと笑みを深めた。
「ハルの最優先事項に選ばれるのは嬉しいですね」
その笑みは見ているだけでうつりそうになるが、羽琉にはまだそこまでの効力がなかった。
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「はい。私が出来る仕事は大抵終わっています。フランクが優秀なので」
「そう言えば……フランクさんは日本語がお上手ですよね。これまでにも来日されたことがあるのでしょうか?」
学生時代に日本語学を専攻していたことは知っているが、今回以外で日本に訪れたかどうかは知らないエクトルは「さぁ?」と小首を傾げた。
「でも日本の素晴らしさは私も分かりましたので、惹かれるのは理解出来ます。ハルにも出会えた場所ですしね」
そう言ってまた微笑む。
日本人と違って外国人は好意を表すのがダイレクトだと思ってはいたが、ここまで真正面から向けられると何だか面映ゆい。
羽琉は少し視線を逸らした。
「じゃあ、まずは軽く自己紹介からしましょうか」
確かにお互いのことを知るにはそこから始めるのが筋だろう。
視線を戻した羽琉はコクリと肯いた。
その肯きを見てから「私からしますね」とエクトルが話し始めた。
「改めまして、名前はエクトル・ド・ダンヴィエール。フランスのリヨンで生まれました。日本とは富岡製糸場と少し所縁がある場所ですね。年は34歳で独身。仕事はフランスにある流通企業のエルスという会社に勤めています。最初は企画に携わっていましたが、最近では企画以外に会社のマネージメント補佐としても働いています」
「リヨン……」
フランスと言えばパリと思っていた羽琉は、あまり聞き慣れない地名を聞き無意識に言葉が漏れていた。
「リヨンは首都のパリとは離れていて、どちらかというとスイスやイタリア寄りにある都市です。有名なもので言えば、ノートルダム大聖堂やインターポールの本部がありますね。旧市街はユネスコにも登録されているとても素敵な街です」
説明され、納得するように羽琉は肯く。
「私に何か聞きたいことはありますか?」
訊ねられ羽琉は黙考したが、何も思い浮かばず「今のところは何も」と短く答えた。
「では次はハルの番です」
にっこりと促され、羽琉は逡巡しつつもゆっくりと口を開いた。
「小田桐羽琉、19歳。去年高校を卒業しましたが、今は……」
そこで羽琉は口を閉ざしてしまう。
自分のことを話したくない性格と話せない事情が頭の中で渦巻き、上手くかわす言葉すら思いつかなかった。エクトルがした自己紹介の半分も出来ていないと思うと、どう続ければいいのか分からなくなり次第に表情が暗くなる。
「ハル。大丈夫です」
そう言って微笑むエクトルを、羽琉はジッと見つめた。
「軽い自己紹介で大丈夫ですよ。ハルのことは、これから会っていく中でいろいろ発見していきたい。その時間もきっと楽しいと思います」
ほんとに?
「楽しい、でしょうか?」
時間がないのに?
「はい。ハルと一緒ですから」
真っ直ぐに微笑み返すエクトルに、羽琉は目を伏せるように視線を逸らす。
羽琉が素直に自分のことを話せば、エクトルが自ら発見する煩わしい手間は必要ないはずだ。エクトルが羽琉のことをどこまで知りたいのかは分からないが、羽琉から情報が与えられない今、エクトルは期限までに羽琉のことをどれだけ知ることが出来るのだろうか? そして自分は?
「……」
会話しないと始まらない。羽琉にとっては、エクトルの真剣な想いに真摯に答えるための時間だ。
だが自分のことを話せない以上、何を話せば……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます