~12~ エクトルとフランク

 エクトルとフランクが出会ったのは今から6年前。フランクが32歳の時だった。それまで小企業のマーケティングの職場に勤めていたのだが、妻と結婚したのをきっかけに将来のことを見据えフランクは転職を考えていた。自分が手にしている資格を活かせる企業を探していると、ネットに掲載されていたある求人広告に目を止めた。それが現在も勤めているエルスという会社だった。当時のエルスは販売業などの流通に力をいれていたため、フランクのマーケティング経験とそれに役立つウェブ資格が大いに活かされる場所だった。エルス側にとっても願ってもない人材だったはずだ。面接時もそのことをアピールし、フランクは早々に採用が決定された。


『今度の企画書見たか? あれもエクトルさんが提案したものだろう?』

 またエクトル……。

 入職してからほどなくして、フランクはよくこの名を耳にした。

 フランクよりも先にエルスに勤めていたエクトルは先見の明があり、既に数々の事業を成功へと導いていた。若者ならではの発想やひらめきに加え、上司さえも納得させるプレゼン力とそれを実現させる実行力に、度肝を抜かれた幹部や社員たちは少なくない。その手腕を買われたエクトルのために上級職の中で枠を設け、特別な役職をエクトルに与えたくらいだ。

 それでも早くから頭角を現していたエクトルに対し、やはり嫉妬する者たちは現れた。エクトルの企画を姑息な手を遣って妨害する者も多々いたが、その妨害が当時進めていた事業を断念するほどの大事にならなかったのは、その度にエクトルが見事な返り討ちをしていたからだろう。その上、エクトルは禍根を残すようなやり方をしなかった。そのお陰でエクトルに対する嫉妬心を上手に浄化させた者たちは、今、エクトルの部下となって真摯に仕えている。人心を掌握する術もエクトルは早くから備えていた。

 そんなエクトルの類稀なる才幹もあり、エルスは事業をどんどん拡大していき、ついには海外進出まで成し遂げた。その次の進出先として日本を選んだエクトルは、補佐兼通訳士としてフランクを指名したのだった。

『補佐と……通訳?』

 突然の辞令にフランクは驚きを隠せなかったのを憶えている。何故ならフランクとエクトルは全く面識がなかったからだ。幹部からも一目置かれているエクトルほどの人物が、平社員の自分を知っていたことが信じられなかった。

『君が一番適任だと思ったんだ。こちらの意図を正確に伝えてくれる通訳士が欲しいんでね』

 理由を訊ねた時、不遜にも見える笑みを浮かべエクトルはそう言った。

『君の経歴を調べさせてもらった。マーケティング能力が高いことと、日本語に精通していることは今の私には重要なポイントだ。過去の業績を見ても申し分ない功績を上げている。君を指名するのは筋が通っていると思うが?』

 ということはフランクが日本文化好きで、大学で日本語学を専攻していたことも知っているということになる。そして経歴書には記載していないが、日本人の妻がいることも恐らく知っているだろう。確かに日本進出という今回に限っては、日本語が堪能というだけで選ぶ理由にはなったはずだ。

 だがフランクはそれを聞きたいわけではなかった。

『いえ。そこに疑問は持っていません。少し考えれば分かりますから。そうではなく、高職であるあなたが何故自分のことを知っていたのかが不思議なのです』

 今のエルスは幹部勢を除いても従業員数400人強、傘下の会社も含めれば約10000人ほどを雇用している、それなりに成長した大きな企業である。部署も違うエクトルが、その中からフランクを見つけ出すのは相当骨が折れたはずだ。

 そう思ったが、エクトルは意味深に笑みを深めた。

『私は今の役に就任した後にあった面接を、別室で全て見ているんだ。新入社員の適性も見られるし、資格や才能を見てどこに配属すれば会社にとって良い功績を残してくれるかもイメージしやすいからね。もちろん君の面接も別室で見させてもらった。本音を言うと、今回の日本進出は君の面接を見て決めたんだ。君がいなかったら日本という発想は出なかった。良いアイディアをもらったと感謝していたんだ』

 それは暗に人事にも口を出せる立場にいることを示していた。しかもフランクが入社する前からだ。そうなるとフランクが採用されたのも、もしかしたらエクトルの口添えがあったからかもしれない。

 あからさまに立場の差を見せつけられたような気がしたが、不思議と嫌悪感はなかった。自分の才能を認められていると感じたからかもしれないが、何よりエクトルの纏う空気が反感を抱かせなかったからかもしれない。もしここで変な謙遜などされていたら、多分フランクも厭味として受け取っていただろう。

 エクトルは自分自身の腕もちゃんと認めていた。そのための努力も怠らなかったはずだ。そういう冥々之志がなければ今の地位に留任出来ていないだろう。人よりも多く努力している証拠だ。

『君の返事待ちなんだが、どのくらい待てばいい? 君の答え次第では方向修正しなければならないから、早めに返事をもらいたいところだが……』

 フランクは再び驚かされ、目を丸くした。

『まさか、今回の件は私の返事次第、ということですか?』

『その通りだ。君が拒否すればこの企画自体がなくなるか、日本という場所を断念することになる』

 責任重大な立場に立たされていると知り、フランクは動揺した。

『しかし辞令が下っているので、断るという選択肢は自分にないと思われますが?』

『確かに業務命令ではあるが、私としては君の意思を尊重したいと思っている。君と組むのは私だ。補佐役の君が嫌々なら、私の仕事効率もそれだけ落ちる。気が進まないならはっきり断ってもらって構わない。それによって君の立場が悪くなるようなことにはならないから安心して欲しい』

 エクトルは笑みを浮かべたまま事も無げに言う。

『返事はウィかノンだけで良い。もし今回の企画が流れても次を用意しているから、君が気に病むことは全くないことも伝えておこう。安心して検討してくれ』

『……』

 フランクは唖然とし、今度こそ驚きに絶句した。

 フランクに行為の是非を委ねていることにも、エクトルの持つ職権にも驚かされたが、あらゆる可能性を考え、先手を打っているエクトルの手腕にもひどく驚かされた。どんなことにもフレキシブルに対応出来る思考も、エクトルの能力の高さを物語っていた。

『長く待つことは出来ないので、出来れば期限を設けたい。そうだな……2週間、でどうだろう? もう少し猶予が欲しければ、言ってもらえたら多少期限を延ばそう。家庭のこともあるだろうから、よく話し合って決めてくれ』

『……』

 エクトルを真正面から見つめたまま、フランクは微動だに出来なかった。悠然とした態度と自信に満ちた表情からは、相手に自ら従いたいと思わせるほどのカリスマ性を感じる。エクトルに嫉妬していた者が寝返るのも分かる気がした。

『良い返事を待っているよ』

 そう言って話を終えようとしたエクトルに、フランクはやっと笑みを返した。

『私の答えは決まっています。いえ、正確には今、決まりました』

『……それで?』

『ウィ ムッシュ』

 決心するのに躊躇など微塵もなかった。むしろ優秀なエクトルの下で働きたいと強く思った。

 フランクの答えに、エクトルは目を細め、口角をゆっくりと上げて微笑む。

『良い返事をもらえて嬉しいよ』

『!』

 その微笑を見たフランクは、エクトルに見事にしてやられたと瞬時に悟った。これは快諾することを予測していた笑みだ。

 エクトルはフランクの性格を分析し、どう言えばウィの返事をもらえるのか計算した上で言葉を選んで話していたのだろう。確かにこの件を断ったとしてもフランクの立場が悪くなることはないだろうし次策も考えていただろうが、日本進出より力は入れていなかったはずだ。どうやらまんまとエクトルの思惑に誘導されてしまったらしい。

 本当に怖いのは

 目の前のエクトルを見ていて、以前どこかで聞いたその言葉をフランクは思い出した。

『あなたにはどのくらい先の事が見えているんですか?』

 溜息混じりに訊ねると、『さぁ?』と笑ってはぐらかされた。

 フランクも苦笑する。

『でも嫌な気はしませんね。エクトル様の補佐兼通訳、精一杯務めさせて頂きます』

 深く低頭すると、くすくすと忍び笑いが聴こえた。

 怪訝に思い、フランクはすぐ頭を上げる。

『呼び捨てで良いし敬語もいらない。年は君の方が上だろう?』

『ここでのキャリアと実績はあなたの方が上です。敬うのは当然だと思います』

 それは当然のようにエクトルを認めていることを示唆した言葉だった。

 エクトルはきょとんとした後、思わずフッと吹き出した。

『君が隣にいるのは楽しそうだ。だが名前だけは呼び捨てにしてくれ。これは上司命令だ』

 こうしてエルスの日本進出に向け、エクトルとフランクは動き出したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る