~8~ 悪夢と過去のオーバーラップ

 高校3年生の秋。

 羽琉が学校から帰ってくると、玄関に見知らぬ革靴があった。

 誰か客が来ているのかと思い挨拶をしようとリビングに行くと、そこには高級そうなスーツに身を包んだ、父親と同世代くらいの男性がソファーに座っていた。ネクタイのピンが金色に光っている。左腕にもゴールドの高級そうな腕時計をつけており、そこからも男性が裕福な生活を送っていることが窺えた。

「あぁ、羽琉。やっと帰ってきた。こっちに来て挨拶しなさい」

 もちろん羽琉もそのつもりだったので「うん」と一つ肯き、リビングへ入る。

「こんにちは。羽琉と言います」

「こんにちは」

 頭を下げた羽琉に、男性もにっこりと挨拶を返す。

「羽琉くんはいくつになるのかな?」

「今年18になります」

「もう高校も卒業だね」

 笑みを深める男性に、羽琉は取り合えず「はい」と返した。

「大学に進む気はないとお父さんから聞いたけど、何かしたいことでもあるの?」

「いえ、特にありません。ただ大学に行くよりは、早く就職して父の手助けが出来ればと思っています」

 さらに笑みを深めた男性に、何故か羽琉は不穏な気配を感じ取った。

「実に好ましいね。育て方が良かったのかな?」

「良かったな、羽琉。成瀬なるせさんに気に入ってもらえて」

 父親が誇らしげに言うが、羽琉は眉を顰める。

「今日からこの成瀬さんと一緒に暮らすことになるから、羽琉もそのつもりでな」

「え?」

 その経緯も聞かされないまま突然言われ、羽琉は困惑する。

「あぁ、でもね羽琉くん。一緒に暮らすと言っても毎日じゃないよ。僕は妻子持ちだから、週に1回泊まりに来るって感じになる。羽琉くんが寂しいなら、もっと都合をつけて泊まりに来るようにするから安心して」

 成瀬の言葉に、ますます意味が分からなくなった羽琉は絶句した。

 妻子持ち? 週1回? 寂しい?

 どういうことなのかと父親に視線を投げ説明を求めるが、満足そうに笑っているだけで一向に話そうとしない。

「もしかして小田桐さんから何も聞いてないのかな?」

「……は、い」

 様子のおかしい羽琉に、成瀬はやれやれと呆れ顔を作る。

「小田桐さん。ちゃんと説明してもらわないと困るよ。羽琉くんも戸惑っているじゃないか」

「いやぁ、すみません。でも羽琉が断ることはありませんし、成瀬さんに会えば羽琉もその気になるんじゃないかと……」

 まったくと溜息を吐くが、その顔は全然困っていない。

「そういう趣向も嫌いじゃないけど、抵抗されるのは傷つくんだよね」

 自分の存在を無視して交わされる会話の内容に、不安しか感じない羽琉は身を竦ませる。

「あの、一体どういう……」

 勇気を振り絞って怖々訊ねると、成瀬はゆっくりと羽琉の方を見やった。

「端的に言うと、羽琉くんは僕の愛人になるんだよ」

 そう言って成瀬は微笑む。

 その笑みは有無を言わさない高圧的なもので、羽琉はぞわりと悪寒がした。

「僕はこれまでいろいろと羽琉くんに援助をしていてね。学費や生活費以外にも、例えば……そうだね、海外旅行は楽しかったかい?」

「……え?」

 目を丸くする羽琉に、成瀬は「本当に何も知らないんだね」と楽しそうに笑った。

「じゃあ、小田桐さんがSをしていることは?」

「S?」

「この場合、シャブやスピードと言った方が分かりやすいのかな?」

「シャ、ブって……それ……」

 寝耳に水の羽琉は驚愕の眼差しで父親を見つめる。

「なぁに、覚せい剤はそんなに怖いものじゃないさ。脳内報酬系と言われるドーパミンを多く放出してくれる幸せな薬だ。外国では今だって軍に使われていたりする。疲労回復や士気を高める役目をしてくれるからね。日本だって今は禁止されているが、戦時中は多くの軍人が使用していた」

 悪びれなく説明する成瀬に、羽琉は自分がとんでもなく危険なことに巻き込まれているような気がしてきた。

「入手するには相当危ない橋を渡らなければならないし、モノによっては単価が高いモノもある。そして羽琉くんも知っていると思うが、小田桐さんの収入はそこまで高くはない。そこから導き出される答えに、君は辿り着くことが出来るはずだ」

「……」

 羽琉の体は小刻みに震えていた。その震えの理由が怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか、混乱している羽琉には分からなかった。ただただ自分の立場を把握することで頭が一杯になる。自分の父親が覚せい剤の常習者であったことも衝撃過ぎて、羽琉の頭は正常に働こうとしていなかった。

 頭を抱えて蹲る。動悸がして息がしづらくなった。

「僕が君を気に入っていたところも重要だね」

 成瀬がヒントを出すように付言する。

 羽琉は回らない頭を何とか動かし、逃げ出したいほど怖ろしい現実を理解しようとした。

「父さんは、あなたから……か、覚せい剤を買っていたということですか?」

 上擦った声で呟くと、「うん。そう」と肯きながら成瀬が答えた。

「使い続けて依存してしまった父さんは、その支払いが次第に難しくなった?」

 成瀬は嬉しそうに肯く。そして「格安で手に入れたい小田桐さんは、僕に相談してくれたんだ」と羽琉に教える。

「その代償が……僕……?」

「そう。正解だ」

 成瀬は覚せい剤を格安で売る代わりに、対価として羽琉を要求してきたのだ。

「僕は……う、売られたん、ですか?」

 混乱している中でも答えを導き出した羽琉に、成瀬は柔らかい微笑みを向ける。

「言い方は良くないけど、まぁそういうことになるね」

 蹲っていた羽琉は腰を抜かし、ヘタリと尻もちをついた。無意識に目から涙が溢れる。そのぼやける視界に、羽琉は父親の姿をとらえた。

「父さん、な、何で……」

「羽琉くん。これは決定事項だ。小田桐さんを責めても状況は何も変わらない」

 絶望的な言葉を成瀬から吐かれ、羽琉は呆然とした。

「心配はいらないよ。僕は羽琉くんを愛しているからね。痛いことはしない。そういう趣味もないし、僕は純粋に羽琉くんと愛し合いたいだけだから」

 愛し合いたい? 

 羽琉は軽蔑するように成瀬を睨んだ。

 そこにあるのは成瀬の一方的なエゴだけだ。羽琉の意思は微塵もない。

「もし羽琉くんが望むなら、ラブドラッグも良いかもね。お互いにこれ以上にない快楽を得ることが出来る」

 成瀬の言葉が羽琉の知らない異国語に聴こえる。理解など到底出来ない話をこれ以上したくなかった。

 羽琉は成瀬を睨み付けながらも、力の入らない足を何とか立たせようと踏ん張った。どうにかしてここから逃げ出さないといけない。

「反抗的な態度は頂けないな」

 羽琉はビクリと身を竦ませた。

「言ったよね。僕は羽琉くんにいろいろと援助をしていたって。羽琉くんは僕のお陰で充実した生活を送っていたはずだ。その恩は返さなきゃいけない。羽琉くんに拒否権はないよ」

「知っていたら、そんな援助は受けませんでした」

 相変わらず声は震えていたが、はっきりと言い放つ。

 実際、学費を払っていても、ささやかな生活なら父親の収入だけで2人暮らしは不便なく送れていた。贅沢な暮らしがしたいと言った覚えもないし、羽琉は望んでいない。確かに海外旅行は楽しかった。語学を学ぼうと思ったのも海外旅行がきっかけだし、羽琉の語学力がアップしたのもそのお陰だ。だがその度に家計が気になり、今後の生活に不安を抱いていたのも確かだった。その不安を何故もっと追求しなかったのか、今頃になって羽琉は激しい後悔に襲われた。

「そうかもね。でも君はもうその恩恵を受けてしまっている」

 成瀬の態度はどこまでも威圧的だった。

「小田桐さんに写真を見せてもらってから、羽琉くんのことをずっと気に入っていたんだ。こうして手に入ったことがすごく嬉しいよ」

 その言葉で、これが仕組まれていたことだったのだと羽琉は気付いた。こうなるように成瀬が誘導した。父親は見事にその思惑に嵌ってしまったのだ。

「僕の手で開花していく羽琉くんを見られると思うと、途轍もなく興奮するね」

 恍惚とした表情で言われ、羽琉の背にぞわぞわと戦慄が走る。

「羽琉。これだけ成瀬さんが気に入ってくれてるのに何が不満なんだ。成瀬さんのものになるのがどんなに幸せなことなのか、まだ分からないのか?」

 耳を疑うような父親の言葉に、ここに自分を救う者は誰もいないということを悟った。立ち上がる気力を奪われ、羽琉は再び床にへたり込む。

「泣き顔も嫌いではないな。羽琉くんはどんな表情をしていても可愛いし、私好みだ。でも出来ればベッドの上では快感に喘ぎ、私に泣いてせがむ羽琉くんを見たいね」

 そう言って力の入らない羽琉の腕を引き、無理やり立たせた。

「じゃあ、小田桐さん。これから羽琉くんの部屋を借ります。今日は初夜だから、小田桐さんは2~3時間ほど外出していて下さい。それ以上掛かる時は電話します」

「はい。分かりました。羽琉。しっかり奉仕するんだぞ」

 嬉々として見送る実の父親に、羽琉は絶望した。

「さぁ、行こう」

 そう言った成瀬は、力の入らない羽琉を引き摺るようにして歩き始めた。

「! ……や、嫌だ」

 その成瀬の拘束力の強い腕から逃れようと、羽琉は必死に抵抗する。

「いうことを聞いて。羽琉くん」

 困った表情で宥める成瀬に、羽琉が「嫌だ!!」と大声で叫んだ途端、左頬を思い切り叩かれた。

「い……っ」

「ごめんね、羽琉くん。でも少し大人しくしててくれるかな。羽琉くんの綺麗な顔にこれ以上傷を作りたくないんだ」

「…………」

 経験したことのない強い衝撃を頬に受け、羽琉の頭がグラグラ揺れる。

 それから強引に歩かされ、迷うことなく羽琉の部屋に着き中に入った成瀬は、羽琉の体を投げるようにベッドに横たえた。そして羽琉の腕を拘束したまま、手早く自分のジャケットを脱ぎネクタイを外す。

「さぁ、羽琉くん。これからゆっくりと僕の愛を君の体に教え込んであげる。初めてだから最初は痛いかもしれないけど、すぐに気持ちよくなるから怖くないよ」

 自分の上に覆いかぶさる成瀬に、羽琉は恐怖で声を出せなかった。それでも涙で濡れた眼差しで成瀬を睨む。

「抵抗するのはおすすめしない。また暴力的になってしまうからね。羽琉くんも何回も殴られるのは嫌だろう?」

 脅され、羽琉の身が竦む。

「可愛い、羽琉くん。愛しているよ」

 うっとりと微笑んだ成瀬の顔が近づき、羽琉は見ないように目をぎゅっと瞑った。

 ここに自分を助けてくれる人はいない。

 そう分かっていても、羽琉は叫んでいた。

 嫌だ! 怖い。怖い。怖い!! 誰か。誰か助けて!!

 どれだけ泣き叫んでも、羽琉の声はむなしく室内に響くだけだったが……。

『大丈夫ですよ。ハル』

 えっ? 何?

『大丈夫ですよ……』

「!」

 突然頭の中に響いた声に反応した羽琉はパチッと目を覚まし、勢いよく起き上がった。呼吸が荒く、手も震え、全身にしっとりと汗を掻いている。

「ゆ、め……夢だ」

 確認するように呟き部屋を見回した羽琉は、見慣れた部屋の景色にホッと安堵の息を吐いた。それでも動悸は治まらない。

「誰かの声……あれは?」

 目覚める直前に響いた声に羽琉は眉根を寄せる。

 言葉ははっきりとしなかったが、どこかで聴いたことがあるような、羽琉を気遣う優しい声音だった。その声に導かれなければ、羽琉は苦しい夢の中にまだ囚われていただろう。

 思い出したくない、おぞましい陰惨な過去の出来事と類似する悪夢。

 全てが同じではないのに、この悪夢を見る度に過去の出来事が更新されていくようで、羽琉は胸が張り裂けるような苦痛を感じていた。

 当時、羽琉は数週間、成瀬と父親に監禁させられ身体的暴行と性的暴行を受け続けた。だが何とか隙をつき、必死で家から逃げ出した羽琉はその足で警察署に駆け込み、その後帰宅した父親は捕まった。それから程なくして成瀬も捕まった。現在は刑務所に収容されているが、成瀬は余罪もあったりで刑期が長くなったらしい。

 あの衝撃的な事件から1年半経った。それでも忘れるなと言わんばかりに、こうして今でも鮮明に夢で見せつけられる。

 一体いつになれば解放されるのだろう。

 いつまで苦しみ続けなければいけないのだろう。

 ナイフで心臓を抉り取られるような痛みを抱えながら、羽琉は朝まで声を殺して泣いた。

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