わたしはわたしではなくだれかでもない

ドント in カクヨム

わたしはわたしではなくだれかでもない



 加奈子がそのことを秀介に告げたのは、付き合って一年目、七月の夜、加奈子のマンションでのことだった。

 彼女は「自分は、自分ではない」と言った。

「自分が自分じゃない、ってどういうこと?」

 コーヒーを飲みながら秀介が聞くと、

「ちょっと……言葉じゃ伝えられそうにもないんだよね」 

 と彼女は答えた。



 入学初め頃の大学の講義で知り合い、数度の飲み会を経て、恋仲になった。お互いのマンションには幾度となく訪問済みだったし、明け方まで共にベッドの中で過ごした夜も両手で数えてまだ余るほどあった。

 秀介は細身で長身、中学からサッカーをやっていて、その頃からかなりモテた。自分では並よりちょっと上くらいの見た目だと考えていたが、さっぱりした性格に惚れる女の子は多かった。

 一方の加奈子はスタイルのよくなさに劣等感を持っているらしかったが、秀介には全然気にならなかった。美人と言うよりはかわいらしく、顔にも性格にも生まれつきのような愛嬌と明るさがあった。目元のホクロと、笑うと顔がくしゃっと潰れるのが秀介は好きだった。

 秀介は恋愛にはドライな方だったが、加奈子はそうではなかった。熱烈に秀介を愛しているようだった。盲目というほどではなかったが、とにかく抱きついたり触ったりが多かった。ことあるごとにスキンシップやボディタッチを求めてくる加奈子に秀介は時折困ることがあった。

「すっごい触ってくるけど、アメリカ生まれとかなの?」

 秀介は冗談半分で言ったことがある。

「違うよぉ」加奈子は笑いながら返事をした。「ただこうしてるとさ、すっごく安心するんだよね。あぁ秀介の体って、あったかいんだな、って……」

 そう言って、彼女は彼の体にまた抱きつくのだった。

 秀介は愛されていることが肌身でわかり悪い気はしなかったが、加奈子の肌がいつもひやり、と冷たいことはいつも気になっていた。



「言葉じゃ言い表せない……そうなんだ……」

 秀介は彼女を傷つけないよう気を使いながら応じた。本筋はまだ見えてこなかったものの、加奈子の眼差しからこれはとても真面目な、一種深刻な話であるとわかっていた。 

 加奈子は意を決した目付きで秀介を見た。

「だからね、今夜、全部、見てもらおうと思ったの」

「全部?」

「そう、だから、悪かったんだけど」

 そこまで聞いた秀介の意識が歪んで視界が揺れた。

「あ……あれ……? ちょっとゴメン………… ちょっとなんか、めまい…………」

「心配しなくていいよ」

 加奈子は無表情で言った。

「速効性の睡眠薬だから。1時間もすると目覚めるよ」

 あぐらをかいていた秀介は座っていられなくなり、体が傾いて右手を床についた。その手を加奈子は両手で包み込む。

「ゴメンね。ゴメンね秀介くん。無茶なやり方だってことはわかってるけど……でもこうでもしないと……驚かれるかと思って、私……」

 秀介は自分の体が横になるのがわかった。カーペットの感触を頬に感じた瞬間に、彼は眠りに落ちた。



 目が覚めた時、彼は寝室のベッドに縛りつけられていた。

 重いベッドの足に結んだ縄が、手足に食い込んでいる。口にもハンカチを詰めこまれていた。

 このような状況にもかかわらず部屋は暗くなく、むしろ煌々と明かりがついていた。天井のライトが最大光量となっているのに加え、わざわざ居間から持ってきたらしい電気スタンドすらついている。部屋の中には影の部分がなかった。


 ベッドの脇には、加奈子が立っていた。

 いつものおだやかな、周りの人みんなを優しくさせるような雰囲気が微塵もなかった。

 目つきが鋭く、秀介を試しているようでもあった。


「ゴメンね秀介くん。でも私、本当に秀介くんのこと好きだから、ちゃんと見ててほしくて…………」

 すまなそうな口調に反して彼女の表情は硬く、怒りの形相にすら見えるのだった。


「じゃあ、自分が自分じゃない、っていうの、どういうことだか教えるね」

 加奈子は両手の指を顎の下に添えた。そして言った。

「この顔ね、借り物なの」

 指先に軽く力を込めた。ぷつっ、と肉が切れる音がした。

 指が皮膚の中に入っていく。それを加奈子が持ち上げると、いとも簡単に皮膚がぺろりと剥けた。血は一滴も出なかった。

 動けない秀介は声も出せず、恐怖でまばたきすらできないまま、その様を見続けることしかできなかった。

 明るい室内灯が余すところなく、その出来事を秀介に見せつけていた。

 皮の下から出てきた顔面は、まるで別人だった。

「加奈子」にあった丸く優しげな雰囲気は微塵もなかった。目は吊り上がり面長で、シャープな美人という印象があった。

 彼女は「加奈子」の顔を脇に軽く投げ捨てた。新しい顔の頬に手を当てた。

「この人はね、メグミさん」

 そう言って今度は、面長な顔の脇に指をやった。先程と同じように指先を突っこみ、今度は前に引っ張った。

 加奈子ともメグミとも違う、下ぶくれ気味の顔が現れた。鼻が丸く、目が大きい。

 彼女は自身の鼻のあたりを指さして、こう言う。

「これはアキさん」

 また顔の端に指を入れ、皮膚をゆっくり引き剥がす。

「これはサクラさん」

 ぺりぺりと言わせながら、次から次へと顔面を剥いでいく。

「これはメイさん」

「これはサトミさん」

「これはカオリさん」

「これはハナヨさん」

 一枚ずつめくられていく顔はひとつとして同じ顔がなく、違った種類の美しさや可愛らしさがあった。

 取った顔の皮が、彼女の両脇にうず高く積まれていく。その最中だった。

「……あのね、ちゃんと全部、なにもかも知っておいてほしいんだ。私の、全部……」

 彼女はブラウスのボタンを外して脱ぎ捨て、ブラジャーを外し、スカートとストッキングを脱いでパンツも取り、完全な裸になった。秀介が幾度か見たゆるやかな曲線を描く肢体が現れた。

「この体ね。この体も、借り物なの」

 そう言って首の下あたりを掴み、一気に引き破った

 細くしなやかな肉体が現れたが、休む間もなく剥ぎ取られた。その次の肉体もその次の肉体も、すぐさま左右の脇に捨てられていく。同時に彼女は顔面も剥き続けていく。速度が上がっていき、動きは雑になり、ほとんどむしるような手つきになった。

 彼女はそうしながら、滔々とこんなことを言い続けた。

「うそじゃない、ほんとうのわたしを知ってほしい」

「きょしょくをぜんぶ捨てたわたしをみてほしくて」

「こんなきもちになったのって初めてで、ごめんね」

「わたしそのものを見てほしいんだ」 

「秀介くんのことがほんとうにすきだから」 

 これらの言葉は秀介にあててではなく、半分は自分に言い聞かせているような響きがあった。


 皮膚を引き裂いて捨てていくたびに、彼女の体はわずかずつ細くなっていく。

 そのうちに彼女は、皮膚だけではなく体の一部も掴んでちぎり離すようになった。耳をつまんで引きちぎった。髪の毛をわし掴みにしてずるりと持ち上げた。鼻も唇も指で挟んで引くと、驚くほど簡単に取れてしまうのだった。

 両指を眼窩に挿入して、いとも簡単に眼球とそれに付随した神経の一式を抜いた。ぽっかり開いた二つの穴から手を突っ込み上を探り、桃色の白子めいた塊を引きずり出した。脳のようだった。

 肩も、胸と腹部も外した。脚と腕をたくし上げると、長袖をまくったかのように表皮はとれてしまった。


 それらの奥から出てきたのは筋肉でも白い骨でもなく、ただの黒い棒の骨組みだけだった。

 加奈子やメグミらの表皮の山の上に、肉体のパーツが乱雑に積み上げられていく。

 加奈子は最後に、顔の輪郭と喉元に手を伸ばした。

 

「これがほんとうのわたし」


 そう言って、その二つともをパキッ、という音と共に外してしまった。


 彼女の体は、今にも折れそうなくらい全てが細長かった。胴らしき部分も腕のような部位も足であろう箇所も、「首」から上の「頭」すら、女性の腕のように細く、長かった。そして先から先までが焦げたように真っ黒だった。

 その姿はおよそ人には見えず、生物にすら見えなかった。

 秀介はいつか見たことのある火事場の焼け跡を思い出した。炎に包まれて黒くなった柱が一本だけ、まっすぐに立って残っていた。加奈子だったものはあれに似ていた。

 顔とおぼしき部分の真ん中には大きくまんまるいものがひとつあった。瞳があり、虹彩がある。人間で言う目にあたる器官に違いなかった。


 彼女は、縛り上げられた秀介の腹の上にゆっくりと乗った。腕のような細く黒い何が伸び、秀介の胸から肩、それに頬を愛撫した。

 両方の「手」で、秀介の顔を挟んだ。乾いているように見えた体は湿っていて、ぬるついた体液が秀介の腹や顔を汚した。

 喉すら取り去ったというのにどこから声が出るのかわからない。だが彼女は息が漏れるような音と共に、こう呟いた。



 ああ やっと さわれた……



 それから大きな目で秀介を見つめた。彼を見つめる時の、あの熱のこもった潤んだ瞳だった。姿形こそ変われども、それだけはいつもと変わることがなかった。

 秀介は彼女の瞳の中に、自分自身の姿が写し出されているのを見た。手足を縛られ、震え、怯えきった青年がいた。顔をそらそうとしたが彼女の「手」は力強く、ぴくりとも動かすことができなかった。


 みて…… みて…… しゅうすけくん…………


「手」が、秀介の口に詰めてあったハンカチを取った。彼の頭の中では絶叫がこだましていたが、目前に展開される彼女の姿に圧倒され、息をするのもやっとだった。

 巨大な瞳の下あたりに空いた小さな穴から空気が抜けるような音がしたかと思うと、その風に乗って彼女の体の中から声がしぼり出された。

 


 ねぇ…… しゅうすけくん……

 これが…… ほんとうの……わたしなん だけど……

 わたしって…… なんだと…… おもう……?



 かつて加奈子であったそれは、秀介にそう問いかけた。



 わたしにも…… わからないの……

 わたしって…… なんなんだろう……?



 まぶたのない大きな瞳の下側に、透明な液体が溜まった。



 秀介は恐怖と共に、言葉にしがたい感情にとらわれた。

 だが彼女の問いには、どう答えていいのかわからなかった。



 二人はずっとそのままの体勢で、もう一言も発さないまま、いつまでも見つめ合い続けていた。





【終】

 

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