第12話
「……」
誠司と柚美は依然として抱きしめあったまま。知らない女性と父がハグをしているのは、どこか気まずいものだと海威は考えていた。二人だけにしよう、そう思って、海威はゆっくりと静かに席を立ったその時。誠司はがっしりと海威の手首を掴み止めた。
「柚美の紹介がまだだろ」
そう言った父の表情は、普段の厳しい、あの父の顔だった。
海威はスッと、また席につく。そして、ふたりも長く熱いハグを終えて、ダイニングテーブルに席についた。二人だけのときとはまた違った、気まずさを海威は肌に感じる。
「――それで……」
「悪かったな、まずは柚美の紹介だ。海威が帰ってきたら話そうと思ったけど……寝過ごしちゃってね」
誠司は軽く申し訳ないような表情をする。すると、柚美はそんな誠司も良いと言わんばかりに、輝かせた目を誠司に向けた。
「……」
「よし。柚美は、まぁ私の妻で、海威のお母さんだ」
「柚美さんが生みの親って……本当なの?」
海威は怪訝そうな顔つきで父を見るが、父の顔は真面目な顔で頷いた。とても冗談を言う時の表情ではなかった。
「そして、こっちが息子の海威だ。今年高校生になったばかりで、今は寮生活をしている」
「本当に、あのちっちゃかった海威がね……」
柚美は少し物思いに耽るように海威をうっとりと見る。そして、海威が彼女の方をそっと見ると、彼女はにこりと海威に微笑みかけた。
「あと、本当はもうひとり――海威の妹も来る予定なんだけど……」
誠司は部屋の周りをキョロキョロと見渡すが、もちろん誰かがいるわけではない。すると、柚美は思い出したように、呟いた。
「そういえば
「なんだ、そうだったか」
誠司は少し寂しそうな表情で俯く。柚美にとって海威と会うのが十数年ぶりだっただけあって、誠司と海威の妹も同じだった。すぐに会えると思っていた誠司の淡い期待は儚く砕けたのだ。
しかし、海威は誠司の喜怒哀楽以上に、妹の存在について驚いていた。
「えぇ、お父さん! 妹って……さちって?」
「覚えてないかもしれないが、妹がいたじゃないか」
「そんなわけ……」
「ちゃんと幸彩の小さい頃の写真が残ってるはずだぞ」
海威はまだ信じられないと言わんばかりに、席を立って部屋を駆ける。着いたのは昔のアルバムが保管されている物置だ。物置の奥深くにある、埃の被った一番古いアルバムを海威は引っ張り出す。そのアルバムには、海威が今まで見るのを避けてきた、母がまだいた頃の写真が残っている。
海威はそっと一ページ、一ページとページをめくる。まだ、赤ん坊の自分に違和感を感じながらも、そこには若々しい誠司の姿と柚美の姿があった。驚くことに、柚美の姿があまり変わっていなかった。
「柚美さん――まったく老けてないじゃん……」
海威はつい声に出して呟いていた。そして、だんだんと写真の中の海威も成長していく。すると、誠司の言ったとおり、柚美に抱き抱えられる赤ちゃんの姿が収められていた。ページをめくっていくと、中には海威があやしている写真も残っている。海威は、妹がいたことでさえ、忘れていたのであった。
「その様子だと、やっぱり忘れてたな」
「あぁ、うん……」
リビングにそっと戻ってきた海威は静かに席につく。まだ妹の存在を受け止めきれない海威がいた。しかし、海威には、もう一点気になっていることがある。それは、彼女の名前である。
確かに、誠司と柚美は『さち』と言ったのだ。しかし、『さち』と聞くと海威の脳裏に思い浮かんだのはただ一人、『
「仲良くしてあげてね」
「……」
柚美は優しくそう言うと、また微笑んだ。妹もそうだが、海威はまだ彼女が母であることに既成事実に混乱していた。さらには、実の母というのだ。海威はテーブルに頭を強く打ち付けると、痛みに耐えながら大きくため息を着く。
そうしても何も変わらない。なにがなになのか、まったく理解が追いつかないまま、海威は迫られている気がした。二人とどう接してあげればいいのか。そんなことを考えながら、そのまま二度目のため息を大きくついた。
隣でなんどもため息をつかれると、周りまで気が滅入ってくる。誠司がなんとか言ってやろうとしたとき、柚美は静かに誠司を諫める。私に任せてと、魅惑的なウインクを誠司に送った。
「海威くんは何部に入っているの?」
「……」
海威はゆっくりと頭をあげる。額は丸く赤い跡になっていた。
「あの……その海威くんっていう呼び方――どうにかなりませんか?」
海威は君付けされるのはどこか子供のように扱われているようで気に入ってなかった。尚更、家族になるのなら『くん』は不要だろう。海威がそんなことを考えていると、なぜか『海威くん』と唯一呼んでくる幸彩が思い出される。海威はまだ、呼び方を変えてくれと、彼女には言えていなかった。
「そうね。なら海威って呼ぶわね。私のこともお母さんって呼んでもらえると嬉しいわ」
「……お母さん」
海威のただ呟いたその言葉に、柚美はパッと明るい表情をする。そして、もっと呼んで、もっと呼んでと彼女の輝いた目が海威に向けられる。しかし、彼女の反応に気恥ずかしくなった海威は、目をそらして、部活動に話を戻した。
「……僕は帰宅部です」
「そうなのね――帰宅部なのね……」
とたんに気まずい空気感になる。
柚美も話を盛り上げていきたいようだが、帰宅部は想定外のようだった。帰宅部は帰宅部でしかない。無理に深入りするのも、野暮というものだろう。柚美はそんなことを考えながら、さっそく次の話題に移る。
「じ、じゃあ、海威はなにか趣味があるのかな?」
「……」
「……」
「――勉強ですかね」
海威はしばらく考えた結果、出てきた答えが勉強だった。確かにいま熱心に続けて、事実楽しんでいるのは、海威にとって勉強しかなかった。しかし、空気は依然として気まずいままだった。
柚美も勉強なのね、と頷きながらも、次に何を聞けばいいのかと頭を悩ませる。そして、今までどのように娘に話していたのかと柚美は疑問に思い始めたのであった。どこか他人行儀のままな二人は、まだ拙い会話を続けていく。
「そっか、海威は偉いね。勉強頑張っているのね。なら何か夢が決まってるのかな?」
「――特にな……」
海威は返答しかけて、柚美の目が灰色の絶望に変わる予感を感じとる。すると、言いかけた言葉を有耶無耶にして、別の回答を準備した。
「エンジニア、エンジニアになりたいです」
「そっか、エンジニアなのね! なら、お父さんと同じね」
柚美は嬉しそうに手を合わせて言う。目の色は、虹色に輝き始めた。そして、彼女はさりげなく誠司のことを『お父さん』と少し照れ臭そうに言った。
誠司も柚美の言葉におっと気づいた様子を示した。しかし、先からと同様に、今は二人に会話をさせようと、黙って二人の会話を頷きながら聞いていた。
「……」
「……」
やはり会話は続かない。トピックをあれこれ変えながらも、お互いを探り合っていく。何なら話していいのか、どこまで話していいのか。いくら血の繋がった家族とはいえ、やはり十数年のギャップは大きすぎたのだった。
「ピロリン」
沈黙のなかに、柚美のスマホの着信音が元気に鳴った。すると、スマホをスッと確認した柚美は、救われたような表情で海威の妹が駅に到着したと二人に伝えた。
「そうかそうか、楽しみだな」
誠司は嬉しそうな表情でニコニコと微笑んでいる。柚美はほっとしている。
しかし、海威は心配しかなかった。この気まずいダイニングテーブル。この状況が打開できるかどうかは、登場する妹の性格にかかっているのだ。どうか明るくて、馴染みやすい、そんな妹がだったら良いと海威は切実に願う。海威の手は自然に組まれており、海威の足は気づけば貧乏揺すりをしている。いつもは貧乏揺すりなんてしないのに、そんなことを思いながらも、海威の足はソワソワ、ソワソワと小刻みに上下に動いていたのだった。
「ピンポーン」
大きなインターフォンの音が静かな二条家に響いた。
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