第二章|ふたりの歩みは長春色
第11話
「お父さん、ただいま〜」
土曜日の昼過ぎの何気ない挨拶。しかし、三ヶ月父の元から離れていた
海威の声が家中に響いただけだった。
「お父さん?」
手洗いとうがいを洗面で済ませた海威は、リビングへと入っていく。すると、案の定、海威の父『
「久しぶりの息子との再会に居眠りかよ……」
海威は寂しそうにぼやきながらも、ブランケットをそっと父にかけた。母がいれば、こんなことをするのかなと、海威は幻想の母親像をイメージする。
「やっぱりおかしいよな」
海威はボソッと呟く。そうして、海威はようやくリビングに感じる違和感をわけを理解する。久しぶり過ぎて思い違いかと思っていた海威だったが、やはりリビングは以前とは違うものになっていた。
まずは、新しいソファの存在だ。二人掛けのソファはひとつだけだったはずが、今はもうひとつ、それも全く同じ種類と色のソファがそこにはあった。内装としては違和感がないのだが、確かに以前まではなかっただろうと海威は思い出す。
つぎに、段ボール箱がいくつも壁の淵にまとめられている。父が通販で買い物することは多々あった。しかし、異様に段ボールの数も多く、箱も大きい。まるで誰かが引っ越してくるような荷物の量なのだ。海威はこの異変に不信感を持つが、詳細を聞こうにも父は眠っていた。
海威はふぅとため息をつくと、新しく設置されたソファにゆっくりと腰をかけた。同じ種類のソファだけあって、しっかりと身体に馴染む感覚を得る。ただ、ソファはどこか甘い香りがしていた。そうして、海威も夢見心地に、いつの間にか眠りについてしまう。
「海威、海威!」
海威は重たい目蓋をなんとか持ち上げると、誠司が肩を激しく揺らしているのを見る。海威はぼんやりとしか見えていないが、誠司は焦った様子でお構いなしに話し始めた。
「これから急いで予約しておいた夕食をとりにいく。だから、海威。あとは任せたよ!」
「任せたって?」
まだ半目の海威は目を擦りながら、誠司に聞いた。しかし、答える間も無く、誠司は慌ただしく家を後にした。海威は大きく欠伸をすると、一筋の涙が頬を伝う。朦朧とする意識のなか、海威はそっと目蓋を閉じた。
「ピンポーン、ピンポーン」
家のインターフォンが海威の頭に煩く響く。海威は不機嫌そうに目を覚ますと、そこは真っ赤に染まった夕方のリビングだった。寝てしまったのかとまだ脱力している海威は、そのままゆっくりと玄関へと向かう。
海威はぐったりと玄関の扉を開けた。すると、扉の前には一人の美しい女性が立っていたのだった。年齢は三十代ほどに見え、目を吸い寄せるグラマラスな身体の持ち主だ。溢れ出る彼女の大人の色気に、海威の頭をとっさに覚める。そして、しばらく海威はその恐ろしくも美しすぎる女性に見惚れてしまう。
「……」
「あなたが海威、よね?」
どこか上品な優しい彼女の声は、海威の心を揺さぶった。しかし、自分の名前を知る女性がいるとも思えなかった。海威はこくりと頷く。
すると、彼女は突然、海威をギュッと抱きしめた。彼女の身体が苦しいほどに海威を締め付ける。身体に当たる柔らかい感触に、海威の身体は火照り始めた。彼女からはどこかで知っている甘い薔薇のような香りがした。海威の顔は赤くなり、どうしたら良いのかわからない身体は、小刻みにぶるぶると震え始める。
彼女はお構いなしに抱きしめていたものの、海威の戸惑った様子に気づくなり、慌てて海威との距離をとる。そして、やってしまったと言わんばかりに、大きなため息をついた。彼女はまっすぐと海威に向き合った。
「急にごめんね。もう海威に会えて嬉しくって! だけど、その様子だと誠司から何も聞いてみたいね?」
「誠司……」
誠司と聞き慣れない父の呼び方に違和感を覚える海威。しかし、その呼び方からすると父の知り合いなのは確かそうだった。
「もしかして、お父さんの……」
「そうよ、わたしがあなたのお母さんよ」
「――お母さん……」
お母さんという表現は、やはり海威にはピンとこない。しかし、彼女がおそらく再婚相手なのだろう。ただ、その事実に気がつくと、一瞬でも欲情してしまった自分を、海威は悔やみ始めた。
しかし、まだ納得できない気持ちが海威にはあった。なぜ父が再婚なのだろうと。というのも、海威が物心ついてからというもの、この家に父が女性を連れ込んだことは一度もなかったのだ。毎晩遅くともしっかりと帰宅し、海威と食事をする。休日に女性からの連絡を受けている様子もない。父からはまったくと言っていいほど、女性がいるような気配が感じられなかったのだ。
「で、でも、お母さんにしても若すぎるのでは……」
海威は小さな猜疑心からつい呟いてしまった。確かにもう五十代を見据え始めた誠司に比べると、三十代半ばに見えるその女性は、少々若い気がする。すると、その女性はとても嬉しそうに、パッと笑顔になった。
「まぁ嬉しい! わたし今年で四十五歳なのよ。あなたを産んだのは、ずいぶん昔に感じるわね」
「――産んだ……?」
海威は衝撃を受ける。三十代前半とも思っていた女性が、まさかの四十五歳。しかし、それ以上に、彼女はたしかに『あなたを産んだ』と言ったのだ。海威はあまりのことに焦り、後ずさると、ドタッと後ろへと転ぶ。
「い、今産んだって……」
「そうよ、まさか勘違いしてる? わたしは海威の本当のお母さんよ」
海威の思考は追いついていなかった。再婚だけでも驚きなのに、再婚相手が実の母親だというのである。シングルファザーの家庭を狙った新手の結婚詐欺のようにも思えるその発言、とても信じられることではない。
とは言え、このまま玄関に立たせておくわけにはいかないため、海威は彼女を家にあげた。
「と、と、とりあえず上がってください」
「えぇ、ありがと」
女性はにこりと微笑む。海威はおどおどしながらもリビングのダイニングテーブルに案内して、彼女にお茶を出す。二人の座り方としては異常にも、海威は四人席のダイニングテーブルの対角線上に座った。そして、海威は何も話し出せないまま、自分の不甲斐なさを実感する。女性はそんな海威の様子を見ると、無理に話そうとはせず、あくまで海威が話し始めるのを待つように、姿勢よく静かに席に座っていた。
たまに海威が彼女を伺うようにちらっと見ると、彼女は決まって蔓延の笑みで微笑んだ。
「あ、あの!」
「ただいま〜」
海威はようやく勇気を出して話そうとしたとき、誠司の挨拶が海威の弱々しい声をかき消した。誠司の低い声が家中に響く。誠司の陽気な足音が近づいてくる。手洗いの音、うがいの音が、一音残さず聞こえていた。
そして、ようやくリビングの扉がゆっくりと開いた。
「ただいま、
「おかえり、誠司!」
強く抱きしめ合う誠司と柚美。静けさを印象付ける、リビングに入り込む夕日の日差しは、たちまちロマンチックな照明へと変貌した。普段は厳しいあの父の珍しくも嬉しそうな笑顔を、少し不気味に感じながらも、一人取り残された気分でテーブルに頬杖をついた。
そして、海威は考える。彼女が言った『本当のお母さん』の意味を。
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