第9話

「――俺たち……別れよ」


 言いにくそうに両手をぐっと握りしめたまま、海威かいは感情を押し殺して別れを告げる。


「……」


 夏海なつみは目を点にして、パチクリと瞬きを素早く繰り返す。

 夏海はついさっき外から寮に帰ってきていた。彼女が帰ってきたと海威に連絡すると、海威から会いたいと、食堂へと呼び出しを受けたのだ。何があるかと心躍る思いで彼女は食堂へと向かうと、海威の横には行きたかったタピオカ店のタピオカを用意されていたのだ。そして、彼女はありがとうと、海威の胸元にダイブインしようとしていた、そのときだった。

 海威は言った。


「――俺たち……別れよ」


 夏海はまだ状況が理解できていないようだった。

 しかし、男に二言はない。これはもう決定事項だ。海威はそう必死に心に言い聞かせている。ぐっしょりと涙に濡れていた海威の顔を隠して、また言った。


「――俺たち……別れよ」

「ちょっと、海威? 突然、どうしたの?」


 三度目にして、海威の言葉が嘘でもなく、本当に別れるために言っていることに夏海は気付く。しかし、突然のことで、夏海は何も理解できなかった。


「ねぇ、どうして急に?」

「俺は、俺はもう先輩を信じられないんです。だから……」

「信じられないって……」


 夏海はまったく心当たりがないように、不思議そうに海威を見つめる。


「今日どこに誰と行ってました?」

「今日は、駅近の商店街に一人で行ってたけど……」


 海威はふぅと重く長いため息をつく。


「あくまで白を切るんですね。もういいです、先輩……」


 夏海はようやく海威が何を見て、こんなことを言っているのか理解した。そして、手をあたふたと動かしながして、どう弁明すれば良いのか思考を整理する。


「いや、それはねぇ」

「――先輩、もういいです」

「ほんとに違うのぉ、海威」

「もういいんですって!」


 海威は言葉を地面に投げ捨てるように叫んだ。もう海威は夏海の話には聞く耳を持っていない。事実、夏海が何を言っても嘘のように感じてしまうほど、海威は感情的になっていた。

 取り入ってくれない海威の様子を見て、夏海は切り口を変えてみる。


「海威はわたしのこと、もう好きじゃないの?」


 しかし、海威の答えは意外にも直球だった。


「好きですよ。はっきり言って大好きです。もう手放したくないぐらいに、先輩を愛してます!」

「それなら……」

「だけど……だけど……もう先輩を信じられない自分が嫌なんです。先輩を疑う自分に耐えられないんです」


 海威はぐっと握り拳を両手に作り、悲しみの感情を押さえ込もうとする。爪が掌に刺さって痛いぐらいに、強く握りしめていた。しかし、それでも俯いた海威の瞳からは、涙がこぼれていた。

 海威はそう言い放つと、Tシャツの袖で顔を隠すようにして、食堂を後にした。海威から渡されたタピオカは、夏海の手からストンと滑り落ちる。そして、夏海は食堂の椅子に腰をかけると、目を見開いて、絶望を体感する。不思議と彼女の目からは涙ひとつ流れなかった。



 海威と夏海との決別の三時間前。湊人みなとは熟考の末に、海威にあの写真を見せることを選んだのだ。しかし、それに対する海威の反応は、湊人も信じられないほどに冷静だった。


「湊人、辛かったよな。ありがと、教えてくれて。ありがと」

「……」


 湊人の心は晴れていなかった。一枚の写真で全てを終わらせていいのか、と見せた後でもまだ疑問に思っている。もしかしたら夏海にも事情があったのかもしれないと、思ってしまうのだ。

 湊人から幸彩さちが送ってきたことを聞いた海威は、彼女に対してもメッセージを送った。

 それもただ一言。


――写真ありがと、俺たち別れることにした。


 幸彩は既読したものの、メッセージに返信はしなかった。それよりもできなかったのだろう。彼女も湊人と同じように、自分が二人の関係を潰してしまったように罪悪感を覚えたからだ。もし彼女が送っていなければ、湊人が傷つくことも、海威が別れることもなかったわけになる。

 海威が写真を見たあと、彼は腹を括ったようにして、夏海が行きたがっていたタピオカ店へと足を運んだ。海威いわく、あれは最後のプレゼントらしい。しかし、何であれ、海威と夏海の三か月交際は終わったわけであった。



 期末テストが終わった翌週は、一学期の最後の週だった。授業も比較的ゆるめで、主なイベントは文化祭の出し物の決定である。今までも話し合われてきてはいたのだが、最終決定はこの時期と決まっていた。

 文化祭という洋蘭ようらん学園の一大イベントがやってくる。文化祭と体育祭が交互に催される洋蘭学園では、二年に一度の祭典だった。楽しいはずの文化祭。しかし、海威も湊人も、そして芽衣めいも幸彩でさえも、どこか晴れないどんよりとした曇り空を心に抱えていた。


「それでは一年A組の出し物は、お化け屋敷に決定します!」


 ほとんど反対意見もなく決まった出し物はお化け屋敷。とても無難ながらも、失敗が少ない安全策だ。ここで問題になったのは、役割分担だった。

 というのも、文化祭は10月のはじめ。その準備は夏休みの後半には始めておく必要があった。しかし、寮生が半数ほどいる洋蘭学園では、夏休みに地元に帰ってしまう寮生も多いのだ。すると、寮生の大半が文化祭の手伝いが十分にできないのだった。


「じゃあ、海威と幸彩もおばけ役な」

「「……」」


 誰もやりたがらないお化け役を押し付けられる二人。お化け役は、文化祭当日の行動もかなり制限されてしまうのが、不人気の理由の一つだ。しかし、準備を手伝えないのも事実であるために、二人には選択肢はなかった。


「マジかよ……」

「もう嫌になっちゃうよね」


 海威と幸彩は同時に呟く。以前までなら、一緒に笑い合いたい気分になっていたかもしれない。しかし、今は相手の顔を見るのも気まずかった。

 ちなみに、海威は問答無用だったにもかかわらず、幸彩のお化け役に関しては、否定的な意見も多かった。そのほとんどが女子生徒だ。しかし、男子生徒の幸彩のお化け姿を見たいという要望から、だんだんと流れが変わっていった。そして、彼女もお化け役に抜擢されたのだった。



 もうすぐ夏休みが始まる……

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