第8話

 太陽がゆっくりと沈んでいく、駅から寮への帰り道。


 海威かい夏海なつみがいなくなったその道には、芽衣めい湊人みなとの姿があった。芽衣の瞳から、涙がこぼれ落ちる。


「湊人……」

「どうした?」


 湊人は芽衣の背中に手を摩りながら、優しい声でゆっくりと芽衣に返す。


「ウチ、海威のこと好きなんよ」

「――好きなんだね」

「うん、ずっと好きだったの」

「――ずっと好きだったんだね」


 湊人はただ芽衣に寄り添って、彼女の言葉をそのまま繰り返した。

 芽衣は途中ずるずると鼻をすすりながらも、話し続ける。


「ウチ、実はね。海威と夏海先輩がうまくいってないって知ったとき、ちょっと嬉しかったんだ」

「――嬉しかったんだね」

「うん、友達なのに。ほんとは心配してあげるべきなのに……」

「仕方ないよ。好きだもんね」

「うん、海威のことが好きなの」

「――好きなんだね」


 芽衣は思っていることを打ち明けられたことで、少し落ち着いた様子で、湊人を見上げる。しかし、涙は留まることを知らなかった。

 とはいえ、湊人も流石に道の真ん中にいても通行人の邪魔だ。そう思った湊人は、近くの公園のベンチまで、もたれかかる芽衣を支えながら連れてきた。


「座って」

「うん」

「はい、これ」

「ありがと」

「気にすんな」


 湊人は近くの自動販売機で買ったペットボトルの水の蓋を開けて、芽衣に渡す。

 芽衣は水をぐびっと飲んだかと思うと、ふぅと小さなため息をつく。その頃には、涙は枯れたように目から下へと線を引いており、残ったのは明の心の悲しい思いだけだった。


「芽衣はいつから海威のこと好きだったんだ?」

「ずっと……」

「中学よりも前?」

「うん、もう小学校の時からだよ」

「――そうだったんだな。脈がないわけだ」


 湊人は芽衣にも聞こえない声で、ボソッと呟いた。


「でもね、海威には彼女はできないだろうって、勝手に思ってた」

「――そうだよな」


 実を言えば、湊人はできると思っていた。そして、案の定できた。しかし、ここは実際の思いとは裏腹ながらも、湊人は芽衣の気持ちを優先させた。


「でもね、中学校になったら、高校になったら、思ってたらもう付き合い始めてたんだ……」

「――そうだったのか」

「今までいなかったにさ……」


 芽衣は地面でも蹴るように足を振り上げた。ふわっと土埃が舞う。


「ウチはね、応援しようって、頑張ったんだよ」

「――よく頑張ったな」

「……」


 芽衣は赤く腫れた目で、じっと湊人の顔を見つめる。

 湊人もようやく、自分の方を見てくれた芽衣を優しい眼差しで見た。


「ウチ、顔ひどくない」

「いつも通り可愛いよ」

「そういうことじゃなくて……」

「――もう少し風にあたってよっか」

「うん……」


 芽衣の顔はグショグショのまま、彼女の服も湿り気がある。湊人はハンカチを持ってきていればと、そっと後悔していた。


「湊人、ありがとね」

「気にするな」


 二人はそうして、夕日が沈んでいくのをじっと眺めていた。



  休日の門限である9時ギリギリに帰ってきた湊人。何も知らない海威は、部屋に帰ってきた湊人に、上機嫌に話しかける。


「湊人、こんな時間まで外で何してたんだよ!」

「えぇ……まぁ」

「もしかして『黄身の名はきみのなは。』見てきたとか?」

「そんなとこだ」

「もしかして芽衣とだったり?」

「そうだな……」


 湊人は嘘を言っていない。しかし、勘違いをしたように、海威は明らかに嬉しそうに微笑んで湊人を見る。


「そういうお前はどうだったんだ?」

「夏海先輩とは、まぁ、なんかうまくいった方かな?」

「よかったな」

「あぁ、あと口じゃないけど、頬にキスされたんだぜ」


 海威の表情は思い出したように綻んで、自慢げに湊人を見る。しかし、あの後の芽衣を思い出すと、湊人も海威と喜ぶ気分にはなれなかった。


「よ、よかったな……」

「あとさ、幸彩と太輔と映画館で会ってびっくりだったよ」

「へぇ珍しいこともあるんだな〜」


 すべてをその目で見た湊人は知っている。ただ、ストーキングを知らない海威は楽しそうに、デートの話を湊人に語った。そして、話が終わったかと思うと、海威は突然、まじめなトーンで話し始める。


「なぁ湊人」

「なんだ?」

「芽衣を大切にしてやれよ」

「……」


 これは海威なりの応援なのか。湊人は海威にかける言葉が見つからない。なぜ芽衣が海威を好きだと気付かないのか、それが不思議でたまらなかった。海威はなぜか幻想にハマって、彼女を応援するつもりで、傷つけているのだ。


「まぁ、お前も幸彩が付き合い始めて、傷ついたかと思う」

「……」

「だけどな、芽衣も実際めっちゃ可愛いしさ、本当にいいやつだからさ。湊人、頼んだぞ!」

「……」


 湊人は呆れた表情で海威を見る。そこまでわかっているのなら、付き合ってやれよと言い出したい気持ちが、湊人の胸に膨れ上がっていく。


「芽衣は強がりなところあるんだよ。だから、苦しそうだった支えてやってくれよ。絶対に芽衣を泣かせるなよ!」

「……」


 湊人は何も発することができない。ここまでくると、普段怒らない湊人にも、沸々と海威を殴り飛ばしたいほどの怒りが込み上げていく。芽衣が好きなのは海威なのだと、湊人はもう言ってしまいたい。何が泣かせるなよ、と言ってしまえれば解決する。ただ、芽衣のあの涙を、今までの思いを無駄にしたくないからこそ、湊人はその全てを自分の心のうちに押し込めた。



 日曜日の昼過ぎのこと。

 部屋で湊人と海威は勉強のない、ひさしぶりの休日を過ごしていた。窓ガラスを通して届く日差しに、湊人と海威はベッドの上に日向ぼっこをしている。

 しかし、雲ひとつない空から、突然、光が奪われた。


「ピーロン」


 湊人のスマホから大きな着信音が鳴る。湊人は何気なく送信者を確認すると、送信者は幸彩さち、メッセージと一枚の写真がおくられていた。

 メッセージの内容は、『今、デート中に見ちゃったんだけど……』と何かを暗示させる言葉。そして、送られた写真を見た湊人はあまりの驚きに、湊人はちらりと海威の方を向く。そして、海威から隠すようにして、スマホの写真に目を凝らす。

 その写真には、カフェで仲良くお茶を飲む男女の姿があった。そこの写真にいるのが夏海なのだ。そして、もう一人は同じ中学の先輩だった須野拓馬すのたくまである。夏海と海威を出会うきっかけを作った張本人の須野拓馬だ。


「な、なんで……」

「どうした、湊人」


 つい驚きに声に漏れてしまった湊人は、焦ったように口をつむる。そして、そっと幸彩にお礼を返信すると、海威からさりげなく先輩の動向を聞き出すことにした。本意を悟られないように、どうにか海威を誘導させなければならない。


「なぁ、海威」

「どうした?」

「今日、先輩って何するって?」

「どうなんだろ。聞いてないわ」

「そういうとこだぞ! お前からももっと連絡しないと」


 海威はたしかにと呟いて、スマホに文字を打ち始める。そして、送信音とともに、夏海のLINEに送られた。


「ピーロン」


 海威のスマホが元気に鳴る。


「海威!」

「なんだよ」

「スマホ、今着信が鳴ったぞ!」

「わかってるって! 別にすぐ返さなくたっていいだろ」

「いや、なんか気になるだろ?」

「なんでお前が気にすんだよ。おぉ、ショッピング中だってよ」

「一人で?」

「知らんけど……」


 海威は湊人の意図を理解はしていなかったが、湊人が知りたそうに海威を見つめるため、海威は夏海に連絡する。

 すると、海威のスマホがまた鳴った。


「ピーロン」

「湊人ぉ、先輩は一人だってよ」

「そうか……」

「どうしたんだよ、湊人。今日ちょっとおかしいぞ!」

「いや、なんでも……」


 太陽の光は戻ってこない。暗くなった部屋を照らすため、海威は起き上がって、部屋の照明を付けにいった。海威はまだ何も知らない。

 湊人は一人考えこむようにして頭を抱える。海威から昨晩聞いた話では、嘘がバレたら別れるらしい。しかし、その嘘がいま、それも翌日に発覚してしまっているのだった。


「なぁ、昨日、先輩はもう嘘をつかないって言ってたんだよな?」

「そうだぞ、昨日教えた通りだよ」

「信じてるんだよな」

「まぁ、そりゃな」


 海威は不思議そうに湊人を見つめる。しかし、湊人はバツが悪い様子で、海威から目を逸らす。

 この事実を知ったら、たとえ夏海にどのような事情があっても、海威が別れを切り出すことをだろう。湊人はそう知っている。つまり、湊人の行動次第で、いとも簡単に海威と夏海の関係が引き裂くこともできてしまうのだ。

 何が正解なのか、湊人は誰にも打ち明けられない悩みを、胸の奥底に抱えてしまった。

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