第5話

「アァーーー」


 寮の廊下に叫ぶ声が響く。バタバタと足音を立てて、芽衣めいは発車しようかというバスに乗り込んだ。バスに乗り込んだ彼女は、顔を赤くして、髪はボサボサだった。


「セーフ……ありがとうございます」


 海威かい湊人みなとが危惧した通りに、芽衣はまさに寝坊していた。それも、テストのギリギリに到着する最終バスだ。芽衣を乗せたなり、バスは鈍い音を立てて学校へと出発した。


「おっはよう!」


 ザァーと勢いよくB組の扉が開く。芽衣は焦った様子で元気に入室した。B組の生徒たちは苦笑している中、湊人は呆れたように頭を抱える。またか、と言わんばかりに、軽蔑した視線を彼女に送る。芽衣は足早に席につくと、息をつく間もないまま、B組の担任が教室に入ってきた。そうして、期末テストが始まったのだった。



「「「終わった――――」」」


 生徒たちの嬉しいそうな声が校内各所から聞こえてくる。

 始まりは容赦無かったが、終わりは非常に呆気なかった。地獄の五日は、実にあっという間だったのだ。そして、五日間、芽衣は一日も時間通りに登校することはなかった。


「芽衣、どうだったか」

「うん……」


 目も下に大きなクマのある芽衣は、活力のない空返事を湊人にした。


「まったく昨日は何時に寝たんだよ!」

「寝てない……」

「マジか!」

「だって最終日だし……」

「じゃあなんで今日も遅れてんだよ!」

「ギリギリまで勉強しよ……」


 芽衣は机に突っ伏したまま、ゆっくりと瞳を閉じた。湊人はやれやれと言いながらも、無理に起こすこともせず、久しぶりの水泳部に参加するため、教室を後にした。



「おい、芽衣、芽衣!」

「湊人、なに?」


 芽衣の肩を揺さぶる海威に、芽衣は不機嫌そうに返す。そして、芽衣は目を擦りながら、スッと海威を見上げた。


「なんだ、海威か……」

「バス出るぞ」

「そんなわけ……」


 試験が終わり、芽衣にとってはまだ昼過ぎだ。ただ、窓の外へ目を向けると、青いはずの空が真っ赤に染まっているのだ。


「えぇ、待って!」


 外の空色に驚いた芽衣は、スマホを開くと、そこには18:52と表示されていた。


「ヤバい、部活寝過ごしちゃった……」

「……とにかく行くぞ」


 結局、芽衣は誰にも起こされず、教室でぐっすりだったわけだ。そして、たまたま図書室の帰りにA組に忘れ物をとりにきた海威が、B組にいる芽衣に気がついたのだった。


「おい、置いてくぞ」

「ちょっと、海威、待ってよ!」


 海威は芽衣に構わず教室を出ていく。芽衣は机に散らばった筆記用具を無造作にカバンに放り込むと、海威を追いかけるようにして教室から出て行った。

 バスの時間まで、まだ余裕がある。二人がゆったりと廊下を歩いていると、下駄箱へとつづく廊下の曲がり角に人影がある。廊下の先を覗いている男子生徒がいるのだ。


「もう、なにしてんだよ、湊人!」


 湊人だと気づいて、海威は湊人の肩を叩く。しかし、湊人は海威の口元を手で押さえて、そっと自分の方へと寄せる。焦る海威と芽衣に、湊人は口元に人差し指を当てて、静かにしろとジェスチャーした。

 そして、湊人と同じように、海威と芽衣は廊下の曲がり角からひっそりと顔を出して見たのだ。

 すると、そこにいたのは、夕陽に赤く照らされた幸彩さちが斜め後ろから見える。そして、幸彩の前には、サッカーのユニフォームを着た、見覚えのない男子生徒の姿があった。


「幸彩さん、好きです! 付き合ってください!」


 廊下に響くような大きな声で、その男子生徒は幸彩に告白した。手をスッと前に差し出して、しっかりとお辞儀をしている。


「もうこれ、何回目?」

「五回目です!」

「じゃあさ、もう諦めたら?」


 幸彩は呆れたような表情で、その男子生徒を見るが、彼は体勢を変えずに頭を下げ、手を差し伸べたままだった。


「私のなにがそんなにいいの?」

「可愛いです」

「この前も言ったけど、そんな理由じゃ……」


 幸彩が断ろうとしたとき、男子生徒は必死に続けた。


「あと、めっちゃいい香りがします。英語の発音もこれぞネイティブって感じですし、明るいところも大好きです。交友関係も広くて、どんな――」


 まだ続けようとする男子生徒を宥めるようにして、幸彩はそっと呟く。


「も、もういいよ」

「今いいって?」

「いや、そっちじゃないよ」

「やぱりダメですか……」


 幸彩は困った様子で、まだに頭を下げる男子生徒を見つめた。


「ぼ、僕はお試しでもいいんです。だ、だから!」

「お試しってね、そう簡単にいうけど……」

「付き合ってないって、教えてくれたじゃないですか」

「言ったよ……でも」

「好きな人もいないって!」

「言ったね……それでもさ」

「――ダ、ダメですか?」


 男子生徒は粘り強く幸彩にアプローチする。海威ら三人も息を飲むようにして、そっと妙に幻想的な情景に心が奪われる。かの男子生徒が幸彩にただならぬ好意を持っていることは、誰の目からも明らかだった。


「もう、どうしよう」


 幸彩はこれ以上にない困った様子で、ふぅと長いため息をつく。


「まず、顔上げてくれる」

「はい!」


 男子生徒は緊張した様子で、不安げに顔をあげた。


「お試しならいいよ」

「あぁ、ダメか……」

「だからいいよって」

「えぇ、今なんて?」


 男子生徒は信じられないと言わんばかりに、嬉しそうに輝いた視線を幸彩へと向ける。


「だから、私たち付き合いましょって。もう何回も言わせないで!」


 幸彩は恥じらうようにして、彼から目を逸らして、口を隠して言った。


「あ、ありがとう。ありがとう、さ、さ、幸彩!」

「あっと、君名前なんだっけ?」

「あぁ……自分はC組の上木太輔うえきたいすけです。太輔って呼んでもらえると嬉しいです」


 男子生徒は自分の名前を覚えてもらえていなかったと、どこか寂しそうな表情をする。しかし、もう構わないと言わんばかりに声を大にして自己紹介をした。


「ごめんね、太輔、もう覚えた。太輔はLINE持ってるよね?」

「あぁ、うん!」


 太輔は緊張した様子で、あたふたとしながら危なげにスマホを取り出すと、幸彩のスマホのQRコードを読みとる。そして、幸彩が追加されたLINEのフレンドリストを確認すると、嬉しそうにスマホ画面を見つめた。


「あ、あの、幸彩?」

「どうした?」

「ホントはまだこうしていたいんだけど……」

「そっか、そろそろバスの時間だもんね。でも、大輔って寮生だったけ?」

「違うけど、駅行きのバスの時間があって……」

「なるほどね。私も急がないといけないな」

「じ、じゃあ、幸彩。絶対連絡するから!」

「うん、連絡待ってるね、太輔」


 太輔はオドオドとしながらも、スパイクの入ったシューズケースを抱えて、走って行く。幸彩もどこか嬉しそうな表情でスマホを両手に胸の前で持って、走っていく太輔の背中を見届けた。


「なんか結局最後まで見ちゃったね」

「「な!」」


 一部始終を見ていた海威ら三人は小声でそう呟く。今出て行った場合は非常に気まずい。しかし、バスの時間が迫っているにもかからわず、幸彩はなかなか動かなかった。


「さすがに、そろそろ行かないとヤバくないか?」

「たしかにそうだよな」


 時刻は18:58である。幸彩のいる廊下を通らないといけないため躊躇っていたのだが、これ以上遅れると最終バスに間に合わないのだ。


「よ、よぉ、幸彩。こんなところで一人、なにしてんだ?」


 湊人は少しよそよそしくしながら、あくまで何も見ていないかのように、廊下を曲がって歩いていく。海威と幸彩も、湊人についていきながら、偶然いま通りかかったように、二人で話すフリをする。


「湊人、てか海威も芽衣も……もしかして見てたの?」

「え、えぇ、なにを?」


 湊人はとぼけたような表情で、目を逸らした。


「見てたんでしょ、三人とも……!」


 幸彩は少し恥じらいながら、三人に問い詰める。三人は、お互いに誰かが否定するだろうと他人任せした結果、そこには沈黙が残った。


「「「……」」」

「もう、いいよ。そう私、太輔と付き合い始めたんだ」

「「「お、お、おめでとう」」」


 三人はよそよそしく、驚いたフリをして、パチパチと音のずれた拍手をする。


「ねぇ、三人とも……」


 海威たちは咎められるのではと、ビクッと体を揺さぶる。


「バス行っちゃったよ……」


 幸彩はスマホに表示される19:01の時間を確認してそう言う。三人も焦ったようにスマホを開くなり、重いため息をついた。


「マジか、行っちゃったなぁ」

「また歩いて帰るのかよ」

「ウチはバスで寝ようと思ってたのに!」


 三人はどこか嬉しそうに、愚痴を垂れる。


「また、四人で帰る?」


 幸彩は伺うようにして聞くと、三人は仕方ないといった様子で微笑んだ。


「帰ろっか!」

「たまには歩くのもいいよな」

「なんか久しぶりだね」


 意外にも早かった四人での二度目の下校。以前とは、それぞれが違った問題に頭を抱えながらも、四人はゆっくりと下駄箱の方へと足を進めた。

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