第四話 『振動で伝わるもの』


 それから四日経った木曜日、僕は彼女の言葉の真意を知る。


「奏多くん、おはようございます」


 いきなり耳元から声がして、びっくりして椅子から転げ落ちるところだった。


「依木野さん? え、だって……全治二か月じゃなかったっけ?」


「うん。私も、そう思ってたんだけど。考えてみたら当然で、入院は二週間」


 そうか。考えてみれば当然だ。むしろどうしてずっと入院していると思い込んでいたのか。


「そっか。大丈夫? 不便ない?」


「大丈夫だけど、不便。なにかあったら助けて」


 依木野さんは顔を近付けて言う。近くで見るとやはり、彼女の髪の毛はぼさぼさだ。「じゃあね」。彼女は言って、自分の席に戻る。よくよく考えたら依木野さんが登校してきて、誰かに挨拶をしているところなど初めて見た。と、他人事のように僕は思った。


 あ、なんだか動悸がする。吊り橋効果かもしれないけれど、だとしても、なるほど、これは恋みたいな感触がする。


「お、奏多。輝夜ちゃんと急接近?」


 後ろから無遠慮な声がぶつけられる。こうやって無関心にからかわれるのはありがたい。すくなくともなにもいじられないよりは、はるかにマシだ。


「まあ、病院ですこし話したからね」


 動揺して否認するのもよくない。僕は感情のない事実だけを言っておいた。後部座席の友人はそれ以上追及してこなかった。付き合いのいいやつだ。


 ややあって担任がホームルームのためやってくる。「お、依木野。もういいのか?」。それが第一声だった。依木野さんは「はい」と小さく答えた。のだが、誰にもその言葉は聞こえなかったらしい。まあ、聞こえていようがいまいがどちらでもいい返答だ。


 依木野さんはいつも通りを再開する。授業が始まれば板書を取り、休み時間になれば読書へ移行する。昼休み、昼食後、決まった時刻に花を摘みに行くし、帰りのホームルームが終わると、教室の出入口の隙をついて、まっすぐ帰って……行かなかった。


「奏多くん、一緒に帰りませんか?」


「はい?」


「……奏多くん、一緒に――」


「ごめん、聞こえてる」


 彼女は相変わらず表情を隠していた。だけど、普段通りだ。声色は普段通り。だから彼女にとってこの誘いは、至極まっとうななにかだったのだろう。


「おー、奏多くんデート? いいねー、色いねー」


「うるさい、茶化すな、変な言葉を作るな」


 背後から無添加に楽しそうな声が聞こえたので釘を刺しておく。僕ごときの挙動を注視しているクラスメイトはすくないけれど、それでも変な噂がたつのはよろしくない。


「だいたいおまえ、まだいたのか、帰れよ」


 心にもない強い言葉を使ってみる。冗談半分でも不快感を出しておくのは悪くない。


「いやだって俺、今日部活だし」


「え、おまえ部活やってたの?」


「ひっでー、知らなかったのかよ。バスケ部よ俺」


 本気で知らなかった。知っていたならちゃんと記憶するはずだ、僕なら。どんな事柄でも知っている方がいいに決まっている。知っていることが不都合なら知らないふりをすればいいのだから。


「運動できる男子は、かっこいいですよね」


 ふと、依木野さんが割って入ってきた。


「でしょ? ぶっちゃけそれでやってるー。うち弱小だから練習きつくないしー。まあ、適度な運動だよねー」


「だったら早く行けよ。なんでまだ教室でだらけてんの?」


「んー。んじゃ俺も行くから、奏多くんも行こうぜ」


「いや、僕は帰る」


「いやいや、だから、輝夜ちゃんと一緒にって、そういうこと」


 ああ。そういうことか。僕はちらりと彼を見遣る。まあ、こいつに茶化される程度なら、我慢はできるか、慣れたものだ。


「いいよ。帰ろうか、依木野さん」




 僕は以前から薄々感じていたけれど、この学校はおかしい。いや、僕はいいんだけど。どうして松葉杖の女子と歩いていて、まったく奇異の目が向かないのだろう? 僕は他人の視線には敏感だ。だが、いま僕たちに向けられている視線は、怪我をした少女へ対する控えめな心配の目だけだ。


「僕はそんな大怪我したことないけど」


 だいぶゆっくり歩いていたつもりだが、それでも十歩も歩くと彼女を置き去りにしてしまう。僕は間を持たせるために話した。「思っていた以上に大変そうだね」。


「もう大変。脇とか痛いし」


 依木野さんは愚痴る。こういう一面もあるのか。


「あー、えっと。依木野さんの家って近いの?」


「え?」


 彼女は立ち止まる。本当に驚いているようだ。


「お、送ってくれるの?」


「え、いや。……どうなんだろう」


 失言のつもりはなかったけれど、結果としてはそうなのだろうか? 僕としても送っていくことくらいはやぶさかではないけれど、家まで行くというのはどうなんだ? 親しすぎる気がする。僕と彼女の関係ってそんなに近いつもりはなかったのだが。


「あ、いや、いいの、大丈夫。一緒に行ける、ところまでで」


「そ、そうだよね」


 なにこれ甘酸っぱい。背中痒い。なんか変な汗出てきた。


 しかし相変わらずだ。依木野さんに好意があるし、気になってはいるけれど、全然好きな気がしない。可愛いとか思えない。


 僕はまた、すこし先行してしまう。階段に到達する。それを二段ほど下ったところで、速すぎたと気付いた。振り返ると、依木野さんが視線よりやや上にいた。珍しいアングルだ。


「そういえば、階段ってどうするの? 結構大変そうだし、もし踏み外したら危ないな」


「そうなの。だから、おぶってくれる?」


「え? いや。……うん?」


 これは正当な要請に思えた。だが、おぶるというのはよくない。いろいろまずい。いや、気にするな。僕は彼女にそういう感情を持っていない。そもそも危ないと言ったのは僕だろう。実際危ないし。そう、これは緊急時の特例的行動だ。大丈夫、問題ない。


「……冗談だよ?」


「だ、だよねー」


 彼女は松葉杖を僕に渡して「これ持って、手貸して」彼女の言う通りにする。彼女は左手を階段の手すりに、右手を僕に預け、一段ずつ降りて行った。途中から手を握るのでは安定しなかったので、僕は肩を貸した。普段は無臭だと思っていたが、これくらい近付けば解る。依木野さんでもやっぱり、女子はいい匂いがする。「窓から落ちたら、楽なのにね」。彼女が耳元でそう囁いた。「だからあの日も?」。「そうかも」。「冗談だろ?」。「うん」。


 その返答は、いったいどっちの「うん」だったのだろう?




 僕が言うことでもないのだが、こうやって地味な二人が並んで歩いていると、この華やかな街では浮いているように思えてしまう。ひとりが松葉杖をついていればなおさら辛気臭い。


 静寂など知らぬように、いつ歩いてもなにかしらの声が聞こえる。街頭演説、タイムセール、閉店セール、路上アーティスト。ビルの高いところではニュースや映像広告が絶えず流れている。それでなくとも行き交う人々が忙しなく動き、騒がしく話しているというのに。


「依木野さんも都内住みだったんだね」


 意外、とは思わなかった。依木野さんは徹頭徹尾地味な女子だ。ならば、地方からわざわざ、華やかな都会に行きたがる、という考えをするだろうと考えることこそ、ずれた思考だ。


 彼女は僕の問いに対して小さく頷いた。おそらく「うん」という程度には返答を返してくれたのだと思うが、喧騒に飲まれ僕の耳には届かなかった。この街の中では、もうすこし彼女との距離感を詰めなければいけないらしい。


 それにしても学校とは世界の縮図だ。ただ広いというだけで、世界が僕たちを見る目は、あの教室と変わらない。松葉杖をついているこの小さな女の子を見ても、まるで日常と変わらない。まあ、変に同情されるよりはいいと、僕は思うけれど。


「奏多くんは」


「うん」


 彼女が口を開いたので、僕は文字通り耳を傾けた。


「家、こっちの方なの?」


 まだちゃんとは聞き取れない。だが断片を繋ぎ合わせ、なんとか解読できた。


「うん。まあ、……すこし逸れてるけどね」


 本当は九十度ほど折れているが、まあ言うまい。


 もともとお互い口数は少ない方だが、街が騒がしいから、なおさら話しづらい。話したいことがあるはずなのに、言えないもどかしさ。僕はこの歳になってはじめて行ったのだけれど、これはカラオケボックスに似ている。あれはなんとかいまの友人と、友人と呼べる程度の関係を築いた当初のころだ。だからあのノリは辛かった。僕は迫害されないようにそのノリに乗りたかったし、無理をしてでも陽気なふりを演じたかった。それなのにあのうるさい空間はなんだ? みんなして(もちろん僕も含めて)下手な歌を歌い、意味もなく盛り上がる。この中の何人が、本当に楽しくてここにいるのだろう、と本気で考えた。もしかしたらひとりすらいないのではないかと。


 すこし昔のことを思い出していたら、依木野さんが隣にいなくなっていた。また置き去りにしたかと振り返ると、立ち止まっているようだった。


「どうかした?」


 僕は彼女の元まで戻り、言う。足が痛くなったとか、松葉杖自体痛いと言っていたので、歩くのが辛くなったのかもしれない。

 彼女のそばに寄る。「依木野さん?」。もう一度問う。彼女は反応しない。僕は十全に耳をそばだてている。彼女はなにも言わない。黙ってどこか宙を見ている。


 彼女の視線を辿ると、あるバンドの新曲PVが流れていた。僕でも知っている、いま中高生たちの間ではやり始めているバンドだ。路上出身のそれぞれ個人で活動していた三人が結成したバンド。ギターヴォーカルとシンセサイザー、そして画家・・という異色のユニット。だから正確にはバンド形態というより、アーティストのチームだ。たしかユニット名は――


「インタラクティブアート。知ってる? 奏多くん」


 PVが流れ終えて、依木野さんが口を開いた。その声音は力強く、依木野さんじゃないみたいだった。彼女が僕を振り向くので、僕は距離をとる。知らぬ間に近付き過ぎていた。振り返る彼女の顔とぶつかるところだったのだ。


「知ってるよ。いくら僕でも。依木野さん好きなの?」


「うん。大好き」


 なぜだろう? その言い方は、やけに熱がこもっていて、嫉妬のような感情が湧いてきた。依木野さんに好きな人がいると聞いたときより、よっぽど。


「年越しに、カウントダウンライブがあるの。だから、ちゃんと、治さないとね」


 そうか、それで。と思い当たることがあった。はじめてお見舞いに行ったあの日、彼女が全治二か月というワードに動揺したのは、ライブに間に合うかを懸念してのことだったのだ。


「そりゃあちゃんと治さないとな。ライブっていったら、結構飛んだり跳ねたりするんだろ?」


 僕ごとき陰キャには縁のないイベントだったが、そういうイメージだ。というか、依木野さんが飛んだり跳ねたりというのもイメージが湧かないが。


「うん。……あの、それで。……実は一緒に行く、予定だった友達が、行けなくなったんだけど」


 え、依木野さんって友達いたの? ……いやまあ、いてもおかしくはないか。クラスで友達いなくても、地元の友達とか。


「奏多くん、もしよかったら、一緒に――」


「え!?」


 声が裏返った。そのうえ喰い気味だった。たしかに彼女は僕の高音に被られつつ「行かない?」と言ったけれど。


「あの、ごめんなさい。私と一緒とか、嫌だよね」


「いや、そうじゃなくて」


「年越しも、忙しいだろうし」


「ううん。暇なんだけど」


「…………」


「…………」


 なんだか嫌な沈黙だった。依木野さんと一緒にライブ。正直、僕には縁がなさ過ぎて、行きたいのか行きたくないのかも解らない。どうすればいいのだろう?


 依木野さんを見てみると、予想に反して彼女は、僕を見ていた。前髪に眼鏡が浮いている。そういえば病室では眼鏡を外していたから、印象が違う。表情が読み取れないけど、やっぱり彼女には眼鏡が似合う。


「僕、インタも詳しくないし、ライブとか行ったことないから、その、ノリが解らないけれど」


 もちろん表情は見えないままだが、彼女はすこし、目を見開いた気がした。


「まあ、そういうのでよければ、行くよ」


 依木野さんは安堵したように肩を落として、口元を綻ばせた。




 その夜、僕は動画投稿サイトでいくつか、インタラクティブアートの公式PVを眺めていた。それで気付いたのだけど、彼女がときおり引用していた台詞は、どうやらインタの歌詞の一部だったらしい。それに気付いて僕は、なんとも言えない虚無感に襲われた。

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