第三話 『知らないことのお話』


 休み明け。いつも通りに登校してみると、クラス中がどことなくざわついていた。まず僕が心配したのは、僕が依木野さんのお見舞いに行って、それを茶化すような空気ができあがっているのか、ということだったが、おそらくそうではない。もっと色めきだっているというか、なにかを歓迎したり、祝福したりするような雰囲気だった。


「どうした? なにかあった?」


 自分の席につき、後ろの、すでに登校していた友人に聞く。


「んあ? なにかって?」


 特になにかをしていた様子はないのに、なにかを中断してまで僕に応答してくれたかのようなテンポで、彼は言った。こいつはいついつでもどこかすっとぼけている。


「なんだかクラスが騒がしくないか?」


「うん? そうかねえ……。ああ、なんか女子が騒がしいかもな」


 言って、彼は、カーストの高そうな女子の集団を見遣る。僕も控えめに視線を向け、耳を澄ましてみる。


「それよか、輝夜ちゃんどうだった?」


 澄ました耳に最初に飛び込んだのは、その言葉だった。


「輝夜ちゃん? ……ああ、依木野さん?」


 もちろん僕は依木野さんの名前を忘れてなどいなかったが、一度とぼけておいた。学校とは恐ろしい場所だ。この施設で平穏に三年間を過ごすには微に入り細を穿つ必要がある。


「べつに、普通だったよ。あいかわらず言葉数はすくなかったけど、普段以上に憔悴している感じでもなかった」


 正直、想定された質問だ。回答も準備していた。とにかく多くは語らず。好印象ではないけれど悪口までは使えない。加害者認定もまた、悪目立ちだ。


「へえ、そっかそっか」


 自分から聞いておいて、どうでもよさそうに彼は言う。事実どうでもよかったのだろう。ただ話題を拾っただけ。無意味な会話を無為に続けるのが友達というものだ。




 朝のホームルームの時間になる。担任が入室。そこで一気に黄色い声が上がった。「きゃー、先生おめでとー!」と、クラス一目立つ女子が言い放つと、取り巻きのみんなも「おめでとうございまーす!」と続いた。なるほど、そうか。担任はあの日「子供が生まれそう」だと言って僕を取り残した。どうやら無事に生まれ、どういう経緯か知らないが、生徒の知るところとなったのだろう。驚愕と照れを抱えながらゆっくりと教壇まで辿り着くと、担任はまず僕を見た。「おまえが話したのか?」という顔つきだったので僕は首を横に振る。遅れて喜びの感情も含めた複雑な表情で「みんな、ありがとう!」と担任は言った。


 とりあえず満足したのだろう。クラスはそれなりに静かになって、ほとんどいつも通りくらいになった。いくつかの質問を、ホームルームでの伝達事項と並行して答え、担任は出て行った。かと思うと、思い出したように顔だけクラスに戻して「奏多、ちょっと」と僕を呼んだ。僕は呼ばれるであろうことを予見していたので、驚きもせず、余裕をもって担任の元へ向かった。


「一昨日は本当にすまなかったな」


 担任は両手を合わせ、それを掲げるように頭を下げ、言った。十一月だというのに袖をまくりあげている、いかにも体育会系出身のこの担任が、僕はあまり得意ではない。嫌いというほどではないが。


「いえ、仕方ないですよ。気にしないでください」


 子供が生まれたことに対する祝辞をひとこと添えようかとも思ったが、やめておいた。慣れないことはしない方が吉だ。「そうか、すまんな」。担任は改めてもう一度謝る。もちろん本当に申し訳ないと思っているのだろうが、なぜだか体育会系の人間は、真面目に謝っている気がしない。べつにいいけれど。


「それで、相談なんだが。……先生、結局依木野の顔見れなかったろ? だから今週末もう一回、お見舞いに行こうと思うんだ。それで、よければ奏多も来ないか? こないだの埋め合わせに、昼飯くらいおごってやるぞ」


 ここはまだ、教室を一歩出たくらいの場所だ。ゆえに担任は最後の言葉を小声で、僕に顔を近付けて、クラスのみんなに聞こえないように言った。


「ちなみに、また土曜日ですか?」


 僕は言う。答えは決めているが、この担任がお見舞いに行くというなら、確認しておきたいことがあった。


「うん? そうだな。……ああ、バスケ部の練習があるから、行くなら土曜しかないな」


 なるほど。好都合だ。


「すみません。土曜はちょっと。……僕はもう依木野さんの元気な姿も見ましたし、色紙も渡しました。お見舞いはこれっきりで勘弁してください。あ、あと、埋め合わせとか本当、気にしないで大丈夫ですから」


 僕は苦手な笑顔を作ってみて、できる限り明るく言った。担任はまだすこし申し訳なさそうな顔つきだったが「そうか。解った」と、諦めて、去って行った。


 そもそもあの担任と二人きりの車内ですら息苦しいのだ。ともに食事するなど、考えただけで気が滅入る。


        *


「それで、今日なんだ」


 依木野さんにしては珍しく、どことなく拗ねているような、少々棘のある声質だった。


「まあね。昨日は予定通り、紫乃河先生は来た?」


「うん。来た。ちょうど、お母さんと鉢合わせたから、私はあんまり、話してないけど」


 あのお見舞いから一週間後の日曜日。僕はまた、依木野さんのお見舞いに来ていた。どちらから言ったというわけでもなかったけれど、なんだかいつのまにか、そういう約束になっていたのだ。こうして足しげくお見舞いに通っているとクラスの連中にばれたら大問題だが、そう約束してしまったものは仕方がない。彼女には弱みを握られているし、僕自身、まだ依木野さんと話がしたいとは思っているのだ。幸い、学校からはそれなりに離れた病院だし、偶然クラスのやつらにばれるというのは考えにくい。万一ばれるとしたら、他の見舞客と鉢合わせるくらいだろうが、それも、紫乃河先生の挙動だけ気を付けていれば問題ないだろう。先生以外に学校の誰かが見舞いに来るとも考えにくいし。


「足の調子はどう?」


 やはり話題が続かない。僕はとりあえず眼前の控えめな女子からなにかを引き出したいのだ。彼女が僕の思っていた通りの人物か、あるいはどこかに爪を生やしているのか。


「もう、大丈夫。松葉杖をつく以外は、なにも不都合がないくらい」


 彼女は大袈裟なほど肥え太ったギプスに手を置いた。もどかしそうに表情を歪める。自身が招いた事象だというのに苛立っているようだ。


「ああ、そうだ」


 ギプスに乗せていた手を挙げ、もう片方と合せる。顔も上げて、こちらを見た。やはり学校で見るよりも質のいい髪に見えたが、どちらにしても切りそろえられているわけではないので見栄えは悪い。白髪交じりの髪に閉ざされて、彼女の目はよく見えない。だけれど機嫌は、すこしよくなっている気がした。


「来週は、来なくてもいいから」


「え、なんで?」


「なんでも」


 そう言われると返す言葉がない。「解った」。僕は答える。すこしだけ残念がる僕がいた。やっぱり僕は彼女が好きなのかもしれない。


 だが、だとしたらどうしてだろう? こうして話していても全然緊張しないし、鼓動が早くもならない。誰かを好きになった経験がないから解らない。恋って、この程度のものなのだろうか?


「依木野さんは、好きな人とかいるの?」


 言ってから「あっ」と声をあげてしまう。失言だ。先週といい、どうなっている、僕のこの口は。


「いるけど、どうして?」


 なんでもなさそうに彼女は言う。首を傾げるから、すこしだけ目が見えた。


「いや、なんでもない。ちょっと違うんだ」


「違うんだ?」


 よっぽどおかしな素振りだったのだろう。彼女は口元をおさえて笑った。しかしこうしていると、依木野さんが普通の女子に見える。機嫌が悪かったり、笑ったり、誰かを好きになったり。だが彼女に好きな人がいると解っても、僕はまったく動揺しなかった。やはり僕は彼女が好きだというわけではないのだろうか? それは胸を撫で下ろす気付きだったが、頭が痛くなるような空虚だった。


「ただ、人を好きになるって、どういう感じかなって。依木野さん、よく本読んでるから、そういうの詳しいかなって」


 どちらにしても失言だ。たしかに気になっていたことだけれど、聞くべきことではなかった。依木野さんは「ううん」と唸る。彼女が変に動揺したり、怪訝な態度をとらないでいてくれたことが唯一の救いだった。


「『本には、この世のすべてが書かれている。それでも、まだ理解されていない事柄があることをも含めて』」


 先週みたいに依木野さんはどこかから引用したような言葉を言った。僕が聞いてもトートロジーみたいで、なんの意味もない言葉に感じた。でも、やはりどこかで聞いたような言葉だった。


「人を好きになるって、辛いよ。痛くて、苦しくて。自分が自分じゃ、なくなるの」


 依木野さんは手遊びながら言った。


「じゃあなんで人を好きになるの?」


「なる、っていうか、なってる、って感じ」


 自分で決められないの。最後に小さく、付け加えた。


「なんだか、損してばっかりだな。なにか、恋して、得することってないの?」


 僕が言うと、彼女は唇を噛んだ。「解らないよ」。彼女の声に慣れた僕でも、ぎりぎり聞き取れる程度の小声で、言う。


「昨日ね。紫乃河先生が来て、いちご全部、食べてったの。奏多くんが来たらって、言っておいたのに、お母さん間違えて、出しちゃって。ごめんね。今日、なにもないや」


 依木野さんにしては明るい口調で、言葉とは裏腹に申し訳なさそうでもなく、そう言った。どうやら恋の話は終わりらしい。僕も間が抜けている。どうして先に依木野さんの想い人が誰なのか聞かなかったのだろう?


「いや、お構いなく。むしろ僕がなにか持ってこようか? 入院中、暇だろ? 読みたい本とかない?」


「ううん。大丈夫。……ていうか、もう来ないでいいよ」


「なんで? 毎週来いって話だったろ?」


「なんでも。いいから、今日はもう帰って」


 僕は血が上るのか、下るのか、よく解らない感情を抱えた。腹立たしい気持ちもあったが、どちらかというとショックが強かったかもしれない。


「あの、このあと、検査があるの。だから」


「ああ、解った」


 自分でも冷たい声音だと解った。だけど取り繕う気にはなれず、僕は病室をあとにする。


 恋や愛ではないにしても、彼女への好意はなぜか、強くなっていく気がした。

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