第二話 『内臓の対話』
土曜はまず、担任と学校で待ち合わせた。特段なにも言われなかったので、とりあえず制服を着て行ったら「私服でもよかったんだが」と言われた。まあおそらく、前もって言われても制服で来ただろう。休みとはいえ学校に来るのに私服で、というのは抵抗がある。
担任の車に乗り込む。狭い車内に担任と二人。かなり気まずかった。担任は気をつかってかよく話しかけてきた。だいたいは他愛のない話だったが、ネタが尽きたころクラスの成績の話になり、僕は冗長な表現でやんわりと褒められた。依木野さんには及ばないが、僕も平均くらいの成績はとっているし、全教科で赤点はちゃんと免れている。突出して優秀でも劣等でもない。教師としては一番コメントのしづらい成績だろう。
辛い時間を二十分ほど過ごして、どうやらそろそろ依木野さんが入院している病院に到着するらしい頃合いになった。その段になって、担任は、依木野さんのクラスでの様子を僕に聞いてきた。みんなとは仲良くやれているか? 最近変な様子ではなかったか? なにか言ってなかったか? とか。言葉には出さなかったが『いじめ』がないかを心配しているのだろう。だから僕は「いつも通りだったと思いますよ」と言っておいた。最初からなにも期待していなかったのだろう。僕の言葉に担任は、微塵も安堵した様子を見せなかった。
合計三十分弱で病院に到着した。時間がかかった割には小さい病院だと感じた。まあ僕は特別大きな怪我も病気もしたことがないから、病院とは疎遠な人生を歩んできたし、比較できるほどの経験は持っていないので、この感覚はあてにならないけれど。
僕が車から降りても、担任はなかなか降りてこなかった。車内を覗いてみると、どうやら電話をしているようである。しかもすこしばかり担任は慌てているようにも見える。嫌な予感がした。
「すまん、奏多」
車から降りもせず、窓を開けて担任は言った。
「悪いが依木野のお見舞い、ひとりで行ってくれ」
「いや、困りますよ。どうかしたんですか?」
「それが……子供が生まれそうなんだ」
「はい?」
ちょっとなにを言っているのか解らなかった。子供? 誰のだ?
「実は妻が妊娠しててな。いま連絡がきて、いまにも生まれそうなんだ」
予定日よりずっと早いのに。と申し訳なさそうに言った。事情は解るが、その申し訳なさをもっと噛み締めてほしい。
「解りました。早く奥さんの元へ行ってください」
いくらなんでも行くなとは言えない。僕に選択の余地はない。
担任は「本当に悪いな。今度埋め合わせるから」と言って、行ってしまった。面倒だし気まずいから埋め合わせなんていらない。
さて、仕方がない。気乗りはしないが、ここまで来てしまった以上、依木野さんに会わずに帰るわけにもいかないだろう。それに担任がいなくなったのなら、依木野さんと話もしやすい。その点に関してはこの状況も悪くはない。僕は気を取り直して、病院に入った。
受付で依木野さんの名を告げるとあっさりと病室を教えてもらえた。プライバシーとかの関係で渋られるかもしれないと思っていたが、そんなこともなく。もしかしたら制服で来ていたのが功を奏したのかもしれない。
病室はエレベーターで三階に上がるとすぐのところにあった。入口に貼ってある入院患者の名前を確認。『依木野輝夜』。こうして文字で確認すると、やはり違和感のある名前だ。キラキラネームとまでは言わないけれど、やはりこの名をつけるには勇気がいると思う。いったい彼女の親はどんな人たちなのだろう?
名札はもうひとつついていて、さらに二つ、つけられる場所があった。だから、四人収容できる病室に、いま現在は二人だけ入院しているということなのだろう。
念のためじっくりと名前を確認し、その間、いまさらながら襲ってきた緊張を馴染ませる。当然だが、いつも見ている制服姿ではない依木野さんがこの中にいる。入院患者用のあの白い服を着ているのだろう。場合によっては眼鏡を外している可能性もある。
いや待て。そもそもいま彼女は病室にいるのだろうか? 治療や検診、リハビリ中で病室にいない可能性もある。病室にいても眠っているとか、食事中というだけでも面会は遠慮すべきだろう。……なんだか考えたらきりがない。帰りたくなってきたぞ。
僕が病室の前で不審者のごとく悩んで、もういっそ帰ろうかと踵を返しかけたとき、見つめていた扉が内側から開かれた。
「あら、ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ」
言葉遣いからも育ちのよさそうなマダムが現れた。つい『マダム』と表現してしまったが、どちらかというと日本人的な美人である。長めの黒髪がとにかく艶やかで目を引く人だった。
「あなた、もしかして輝夜のクラスメイトかしら?」
「あ、はい」
その言葉だけでこの人が依木野さんのお母さんであろうことを理解したが、これ以上の言葉が出なかった。どうしてこんな美人からあの子が生まれたのだろう?
僕が答えるとマダムは嬉しそうに「輝夜。お友達よ」と病室に呼びかけた。その後に自身が母親であることを名乗った。
母親に見つかってしまっては仕方がない。もう諦めて病室に入ろうかと考えていると、ふとお母さんが扉を閉めた。そして僕の目をまっすぐ見て、手短にというふうに端的に聞く。
「輝夜。学校でいじめとか、受けていないかしら」
ああ、そうだよな。と僕は言われてはじめて思い至った。
家庭内での依木野さんの様子は知らないが、親なら彼女が学校では浮いていることくらい見抜いているのだろう。そして、今回の
「正直、友達とか、仲のいい子はいないように思いますけど、いじめはないと思いますよ」
教師相手になら適当なことも言うだろう。だが、本当に我が子を心配している親にまで、取り繕った気休めを言う気にはなれなかった。それでもさすがに、彼女が自ら身を投げたことを、僕がリアルタイムで見ていた、とまでは言えなかったが。
僕の言葉にすこしは安堵してくれたのか、お母さんは微笑んだ。「ちょうどリンゴを剥いてあげたところなの。よかったら食べて行ってね。ええと……」。「奏多です」。「奏多くん」。よかったら娘と仲良くしてくださいね。お母さんは深々と頭を下げて、帰って行った。依木野さんも、将来あんな美人になるのだろうか? それは妄想でしかないけれど、僕はなんとなく嬉しくなってしまった。
僕が諦めて病室に入り、依木野さんと対面して一番驚いたことは。彼女の髪質がやけによくなっているふうに感じたことでも、眼鏡を外していたことでも、携帯電話がガラケーだったことでもなく――
「か、奏多くん?」
――僕の名前を知っていたことだった。
「えっと。本当は
なにも聞かれていないのに僕は言い訳をした。とはいえこの事情は忘れずに伝えておくべき事項だったので、無理矢理にでも最初に言ってしまったことは僥倖であったろう。
僕が言い訳をし終えると「そうなんだ」と小さく短く返されて、早くも沈黙が流れた。お互いスクールカースト下層の人間だ。コミュニケーション能力が足りていない。
「あの、よかったら、どうぞ」
「はい?」
声が小さくて聞き取れなかったのもあるが、なにを言っているのか理解ができなかった。彼女は俯いて表情を隠しているし、腕も袖に隠れていた。その袖をすこしばかり傍らに向けている。
「椅子を」
「ああ」
なるほど、たしかに、袖を向けている方向には椅子が置かれていた。座れということだろう。僕は促されるまま座る。たぶんだけど、ここまでの会話ですでに、過去に僕たちが口をきいた会話の総量を越えている。
「えっと……」
また沈黙が挟まりそうだったので、僕はとりあえずなにかを言うことにした。一度目の沈黙は乗り越えられるが、二度目以降は経験上、諦めに終わることが多い。
「怪我の具合は、どんな感じ?」
幸いにもネタは目の前にあった。頭をフルに回転させれば、小一時間くらいもたせられるだろう。
「うん。右足首のところ、折れたみたいで。全治二か月」
俯いたまま、彼女はぼそぼそと言葉を紡いだ。なんとなく知ってはいたけれど、声が小さいだけじゃなくて、話し方も緩慢で、つかえがちだ。
「二か月か……」
知っている情報しか引き出せなかった僕が悪いのだが、こうなるとまた、こちらが話題を探さなければならない。すこしだけ振り返り、窓の外を見る。晩秋の暗い空、枯れ木に残る、煤けた葉。
「ちょうど年を越すころかな。完治するの」
この言葉は疑問でもない。依木野さんに向けた言葉でもなく、ふと思いついた事実を呟いただけだった。
だが、振り返した顔を戻してみると、彼女がこちらを見つめていた。見つめていたというか睨んでいた。いや、たぶん驚いていた。
「年、越しちゃう?」
「うん。……いや、解らないけれど。……二か月後っていったら、年越してるかなって」
本当に驚いて、絶望しているかのような彼女の表情に、僕の方が驚愕している。なんだ? なにか悪いことでも言ったかな。
「そ、そそそそ、そりは!」
「そりは?」
「それは困る!」
依木野さんが叫んだ。つかえすぎていた口調も、一度噛んだことも、そんなことなどなりふり構わず、あの依木野さんが叫んだ。とはいっても、声量としては一般人の叫びに及ばないだろう。もしかしたら病室の外にはまったく漏れていない、というくらいの小さな叫びだ。そしてむせた。
僕は「大丈夫?」と立ち上がり、彼女に手を伸ばした。伸ばして止まった。背中でもさすってあげようと伸びたはずの手は、彼女に触れることなく中空で停滞する。「大丈夫? 依木野さん」。代わりに出した声は直前の焼き増しで、やはり宙を切っている。
「だ、大丈夫」
ごめんなさい。取り乱しました。彼女は照れ隠しからかそう言うと、何度か深呼吸をして、正しく落ち着いたようだった。
「それで、困るってのは?」
ようやく引き出せた話題だ。僕は少々劣化しかかっていた話題を拾い上げる。
「あの、まあ、ちょっと」
依木野さんは困った様子で言葉を濁した。また俯くから表情は読み取れないが、きっと言いにくいことなのだろう。僕もべつに、彼女を困らせてまで会話を弾ませるつもりはない。
「あ、そういえば……これ」
僕はちょうど、もうひとつ話題を抱えていたことに思い至った。正直数々のドタバタで忘れかけていた。クラス全員の寄せ書きが書かれた色紙。こちらも忘れないうちにと、バッグから取り出し、彼女に渡した。
「わあ、すごい! 嬉しい。ありがとう」
思いの外、好感触だった。学校では一度として見たこともないような表情だ。笑い慣れていないのか、笑顔というにはちょっと足りないけれど、そのテンションの上がりようは、本気で喜んでいるふうだった。
彼女は中心から放射状に延びるいくつもの言葉を、色紙を回転させながら熱心に読み込んでいく。
「……本当に嬉しいの?」
僕の口は、つい本心を漏らした。彼女はわずかに綻ぶその表情を、まるで写真に撮られるときみたいに不自然に硬直させ、僕を見た。「え?」。
「いや、なんていうか。深い意味はないっていうか、悪い意味じゃないっていうか。いまどき寄せ書きとかしないんじゃないかなって」
「まあ、こんなことでもない限り、お目にかかれないよね」
またちょっとずつ色紙を回し始める。つい失言をしかけたけれど、あまり深く気にしないでくれたらしい。いくら相手が依木野さん――クラスで浮いている女子とはいえ、僕の失言がどこから漏れて、いつ評判が下がるかも解らない。気を付けなければ。
「『言葉にならない文字は言葉とは言えないだろうか』」
「なにそれ」
彼女は急に、どこかから引用したようなことを言った。というより、僕もどこかで聞いたような気がする言葉だった。
「んん。なんかまあ、好きな言葉?」
彼女は首を傾げる。傾いた前髪の隙間から見えた瞳は、どことなく輝いているように見えた。
彼女がその言葉を紡いだ意味は解らなかったけれど、それは僕に対しても、彼女自身に対しても言っているように聞こえた。いや、これは僕の思い込みだ。だから僕の思い込みに沿って考えるとそれは、その色紙の言葉を、ポジティブに受け取る、ということなのだろうと理解した。
だからだ。だから、僕はまた失言する。
僕は彼女が世の中に絶望していると思っていた。それは言い過ぎにしても、せめて学校で孤立していることを不幸に思っていると。だから内心では悩んで、迷って、もがいているのだと妄想していた。きっとそれが、僕自身の擁護にもなるから。
僕は彼女が不幸であることを望んでいた。すくなくとも僕より不幸であることを。僕が自分を、みじめだと思わないために。
だけどこうしてちゃんと話してみると解る。彼女は、依木野さんは、日々を幸せに生きている。それが彼女の思い込みに過ぎないとしても、彼女は前向きだった。僕とは違う。僕なんかとは違った。それは『裏切られた気持ち』という、これまでになく高揚する、歓喜の感情だった。
「どうして飛び降りたの?」
その言葉について僕は、じっくりと熟考してから言った。だからそれが失言であることを、言う前から把握していた。
依木野さんが僕を見る。目が合う。驚いているふうでも、慌てているふうでもなかった。
さっきまで楽しそうに眺めていた色紙をベッドに置き、依木野さんはただただ僕を見ていた。僕だってそうだ。言ってしまった以上、返答を待たなければならない。彼女を見つめる以外にすることなどなかった。
「あ、知ってたんだ。恥ずかしいな」
依木野さんはやはり、驚くでも慌てるでもなく、恥ずかしいと言い
「どうして――」
「そういえば、お母さんと、話してたよね?」
遮ったわけではないだろうが、僕の言葉を止めて、彼女は言った。
「二言三言くらいね」
あまり言及はされたくない。彼女の母親が娘のいじめを心配していたことを、その当人である依木野さんに告げたくはない。だが彼女は僕の心配をよそに「リンゴでも食べてってって、言ってたよね? よかったら」と机に置かれたリンゴを勧めてきた。あつらえたようにウサギ型だ。お皿には爪楊枝も二本乗っていたが、おそらく依木野さんとお母さんが使ったものだと思ったので、僕は黙ってひとつ、素手でつまみ上げる。すこし酸化したのか、やや色合いが茶かかっている。「お母さんは」。依木野さんは小さく言った。おそらく昨日までの僕なら聞き逃したであろう声量だった。だが、今日わずかながらも彼女と話してみて、彼女の言葉の拾い方を学習した僕の耳には、はっきり聞こえた。
だから、すこし
「お母さんに」
すると彼女は接続詞を変えて言い直す。
「言ってないよね」
ここではすこしだけ困ったふうに、彼女は言った。シャリシャリとすりつぶされていくウサギを数えながら、僕は言葉を溜める。「言ってないよ」。そういえば僕は今日、朝からなにも食べていなかった。だから余計にそのウサギは、胃に重く落ちていった。
「先生にも?」
「言ってないよ。というか言えないよ。見てたんなら助けを呼べとか、糾弾されるだろ」
「ふうん」
依木野さんは笑っている感じがしないのに口元だけ綻ばせていた。お皿に乗った爪楊枝を無視して、僕と同じようにウサギ型のリンゴをひとつまみ。それを口元に運ぶ。
それを咀嚼し終えて、喉を鳴らしたあと「見てたんだ」と言った。最初は意味が解らなかった。だが、気付いたときには遅すぎた。
「誰かに聞いた、とかじゃなくて、奏多くん自身が、見てたんだね」
その三分の一ほどを噛みちぎられたウサギを見つめて、彼女は言い直す。丁寧に、解りやすく。僕は自身の手に残っていた、彼女の手にあるウサギと同程度に残ったウサギを、まるごと口に放り込んだ。これが胃に重くのしかかるまでは、言い訳を考えることが許されるだろう。彼女もまた一口、ウサギを齧る。
ウサギの皮と実が口内でミキシングされている間、僕が考えていたことは、僕がこのとき考えるべきこととは違っていた。つまり、自分の失言を繕う言い訳じゃなく、彼女の考えていたことだ。彼女の頭の中が知りたかった。やっぱり僕は、彼女が飛び降りた理由を知りたかった。
「ねえ、誰にも内緒に、してくれる?」
まだ僕の口内でウサギがシャリシャリ潰れていっている間に、彼女が先に、そう言った。僕はまだ喋れなかったので頷くだけで肯定する。
「じゃあ私も、奏多くんのこと、内緒にするね」
そう言って彼女は、右手を、小指だけを立てて、僕に向けてきた。その手は、彼女がウサギをつまんでいた手とは逆の手だった。
僕はようやっとウサギを胃に流し込み終え、彼女と同様に、小指を立てる。僕のこの手は、さっきまでウサギをつまんでいた手だ。
お互いの指の一本だけが、お互いに触れる。そうやって交わされた握手は、友達と呼ぶには緊張していて、だけれど決して、他人ではない距離感だった。加湿器に手をかざすような湿度が、そこにはあった。
僕はこの日、これ以上、彼女にあの日のことを聞くことができなかった。
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