第一話 『灰色の翼』


 実のところ僕は、依木野さんが飛べない鳥のように教室の窓から落ちていくのを、この目で見ていた。足で着地する気など毛頭ない様子で、やや前傾し、空を見上げて落ちていくのを。僕はそれを見て逃げ出した。十一月のある日だった。




 その日、驚くべきことに、依木野さんは放課後、すぐに帰らなかった。普段であれば帰りのホームルームのあと、忙しなく走って出て行く運動部と、まだすこし友達と話し足りない帰宅部の、中間くらいのタイミングで彼女は、一瞬の隙をついて誰とも出入口で接触しないように帰っていく。そのタイミングに合わせるための帰り支度も淀みない。そうだ。ただ単に、彼女がスムーズに帰り支度を済まして、そのまま教室を出て行くと、いつもたまたま、放課後の雑多な出入口の、瞬間できる静寂にはまっていく・・・・・・ような、そんな錯覚すら覚える。


 いや、むしろそれこそが真実なのかもしれない。彼女は毎日、ただスムーズに下校しているだけなのかもしれない。それでも僕が見ている限りただの一度も、教室の出入口で誰かと鉢合わせたり、どちらが先に出て行くかで順序を譲り合ったりしたことはない。きっと彼女と交差点で偶然ぶつかることは不可能に近いだろう。


 ともあれ、依木野さんは放課後すぐに帰る。教室の出入口付近の人の流れや密度によって、多少の時間の違いはあれど、『すぐ』と表現して差し支えない時間には彼女は下校する。それがその日は、驚くべきことに帰らなかったのだ。


 そしてそれを、誰も疑問視していなかった。あんな悪目立ちするクラスメイトが、珍しい行動をとっている。それに気付きもしていない生徒が大半であろう、とはいえ、その日その教室にいた生徒の一割くらいは気付いていてしかるべきだった。なのに、声が上がらないのはもちろんのこと、奇異の目を向けている者すらいなかった。すくなくとも僕にはそう見えた。僕は他人の視線や陰口には敏感な自信がある。その僕がまったく違和感すら感じなかった。それこそが違和感ではあった。


 だから僕はその日、彼女を見ていた。


 かりそめの友人を正当なる嘘で躱し、依木野さんという悪目立ちする生徒と関わっていないといえる距離感で眺め、その日のあらゆる行動のつじつまを合わせつつ、彼女を追った。


 その結果があれだ。彼女は三階の窓から落ち、僕は助けもせずに逃げた。そのとき、彼女に対して『好き』という感情を持っていたことに、僕自身が気付いていたかは解らない。だが、好意か……すくなくとも興味はあった。その彼女の生命にも関わる事態にも逃げ出したのは、やはり、目立ちたくなかった、からなのだろう。




 担任が言うには、依木野さんは右足を骨折し、全治二か月だそうだ。彼女が飛び降りた――いや、落ちてしまった原因は、落としそうになった眼鏡に手を伸ばし、体勢が崩れたかららしい。だが、それが嘘であることを、僕だけが知っている。自らの足で窓の桟を乗り越え、空を見上げ、まるで飛び立つ鳥のように構えて落ちていった。あれはどう考えても、自ら進んで行ったことだ。


 担任の提言で、依木野さんにクラス全員の寄せ書きを渡すこととなった。高二にもなって寄せ書きなどさせるだろうか? 僕はそう疑問に思ったけれど、意外と誰も異を唱えなかった。


 僕はクラスのみんなが彼女にどういう言葉をかけるのか気になって、できるだけ終盤に書きに行った。どうせ「がんばれ」とか「怪我に負けるな」とか「お大事に」みたいな、有体な励ましの言葉ばかりかと思っていたのだが、意外なことに親しげな文章がいくつか散見された。


『早く治るように祈ってるよ! 今度お見舞いに行くね!』


『突然のことでびっくりしちゃった。早く元気になってね!』


『また元気な輝夜ちゃんに会えるのを楽しみにしてます。学校で待ってるよ!』


 とか。こいつらは依木野輝夜のことをからかっているのかもしれない。彼女が誰かと親しげにしているところなど見たことないし、話をしているところですらまず見ない。見るとしても授業に必要な会話のみだ。すくなくともこんな寄せ書きを書くような関係の生徒など、ひとりもいないはずなのである。


「それじゃあ、今度の土曜に寄せ書き持って、先生と一緒にお見舞いに行ってくれるやつはいないか?」


 担任が声をあげた。だが、みんなざわつくだけで手を挙げる者はいなかった。たしか寄せ書きで今度お見舞いに行くとか言ってるやついなかったか? 僕は、やっぱりみんな、依木野さんをからかっているだけなのだと感じた。


「先生だけじゃなくて、誰か友達が来てくれた方が依木野も喜ぶぞ」


 担任は根気強く待つが、やはり手は挙がらない。そもそも『友達』とは誰のことを指しているのだろう? この教師は担任のくせにクラスの内情も把握していないのだろうか? いや、依木野さんがクラスで浮いていることくらい、さすがに理解していると思うのだけれど。


「じゃあ、仕方ない。えっと、保健委員の……奏多かなた!」


「はい?」


 僕はクラスの様子を眺めていたせいで、急に名を呼ばれたことに驚き、疑問形で応えた。……なんだって? 保健委員だからどうとか言っていたような?


「依木野のお見舞いに行ってくれるな?」


 嫌だ。……だが、そう簡単に断るのもはばかられる。


 この場合、どうするのが正しい? どうするのが一番目立たない?


 担任の無理矢理な指名とはいえ、そこには暗黙の強制力がある。これを無意味に断るのは悪名となるかもしれない。だが、休日の予定など個人の自由だ。適当な言い訳を使って逃れてもおかしなことではないだろう。


「……解りました」


 僕は言った。いろいろ考えはしたが、最終的には条件反射に近い返答だった。


「適当に断りゃよかったのに」


 後ろの席から僕の背をつつきつつ、小声で言われた。


「言い訳が思い付かなかったんだよ」


 僕も小声で後ろに言っておく。

 この言葉は言い訳になるだろう。僕はさも面倒そうに、素っ気ない態度をとっておいた。


 面倒なのは確かだ。悪目立ちしたくないのも確かだ。


 だけど、依木野さんと会って話ができるかもしれないと思うと、気持ちが高揚してしまうのも、やっぱり確かだった。

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