第五話 『飛べない鳥』
それから二週間ほどはなにごともなく過ごした。依木野さんのいつものルーチンには、朝僕に挨拶をするのと、週に三回くらいは、放課後一緒に帰る、というのが追加された。おかしいとは、常に思っていた。たしかに回数を重ねて、日常にはなってきている。それでもどうして、彼女と僕の異常行動が、誰の目にも異常に映らなかったのか。
その真実を
その日の放課後、空は暗かったが、まだ雨は、降っているかどうかも解らない模様だった。わざわざ走ってまで避けようとは思わなかったけれど、心持ち急いで僕は帰り支度を始めていた。
「奏多くん。一緒に帰りませんか?」
そんな折、彼女からの誘いがかかった。遠回りして本降りになるのも嫌だが、松葉杖で歩く彼女をひとりで帰すのも気が引けた。「いいよ。行こうか」。僕は堪忍して言った。
小降りのうちは問題なかった。彼女は両手に松葉杖をついていたから、僕が傘をさしていた。いわゆる相合傘の形ではあったが、それに心ときめかせているような状況ではなかった。
だが、雨足が強くなっていくにつれ、状況が変わってくる。彼女の方に大きく傾かせている傘は僕を守ってはくれず、また、彼女の歩みも、地面が滑りやすくなるにつれ、危なっかしいものになっていった。仕方がないので僕たちは公園のベンチに腰掛ける。草木を利用した脆いものではあったが屋根もあったし、たいていの雨は凌げるようだった。
「ごめんね。私のせいで、濡れちゃったよね」
「ああ、大丈夫だよ」
正直に言うならすこし寒かった。とはいえ僕は、辛抱することについては一家言ある。これくらい、たいしたことでもない。
「どう? 足の調子」
やはり話題がなかった。僕たちには目先の物珍しいことを指摘し合うくらいしか、話題がなかった。もう何週間も、話してきたというのに。
「うん。大丈夫。たぶん、間に合う」
彼女は言った。たしかにギプスも数日前からとれている。経過は順調みたいだ。
都会の雑踏からやや外れている。それだけで病室みたいに静かだ。彼女の言葉がよく聞こえる静寂。普通の生活よりもさらに静かな、僕や彼女みたいな性格をした時間。
「あの日も、こんな日だったね」
だから、僕はその言葉が、聞き違いだとは思えなかった。僕が彼女と過ごした短い期間には「こんな日」だと形容できるほどちゃんとした雨は降っていないはずだ。
だから僕が思い出してしまうのは、去年の今頃。『あの日』のことだった。
「覚えてる? 去年の、十二月五日」
僕は覚えている。その日付ごと、覚えている。
だけどどうして、君がそれを
「奏多くんが、学校の屋上から、飛び降りた日」
高校一年のゴールデンウィークが終わったころから、もう徒党は完成されていた。タイムリミットだった。それを本来なら、義務教育で学んでいるはずだった。落第生である僕は、そんなことなど聞いちゃいない。だから仕方がなかった。過ぎたことだから、もう、気にしていない。殴られたことも、蹴られたことも、よってたかって身に覚えのない罵倒を浴びせられたことも。
「なんで、依木野さんが、そんなことを知っているの?」
去年の十二月五日。なにが原因だったかは解らない。だが、特別な理由もなく、それは極めていつも通りに行われていて、なぜだか場所は屋上だった。
屋上は二メートルほどの柵に囲まれていて、安全性は保障されていた。事故という点に関しては。
「そうだよね。解らないよね」
横に並んで座るのははじめてだった。だからお互いに横を向いて話す。この角度は新鮮だ。だからだろうか? 彼女の声が、前髪に隠れた表情が、すこし恐ろしく感じた。そうだよな。みんな怖いんだ。いまならすこしは理解できる。地味で根暗で影の薄いやつは、なに考えてるか解らなくて怖いんだ。
「見てたの? どこから?」
僕はあの日、たまらずに飛び越えたんだ。あの背の高い柵を。それでもあいつらは、追ってこようとした。男女含め六人ほどいたが、男子が柵を越えようとした。常軌を逸している。僕にとっては柵を越えようが越えまいが生命の危機でさほどの違いはなかったが、彼らにとっては柵を越えなければ危険などなかった。つまり彼らは危険を冒してまで僕を叩こうとした。いったいなにがそこまで彼らを追い込んだのだろう?
それを考えたとき、僕は飛ぶことを決めた。べつに死ぬ気だったわけじゃない。だが、死んでもいいとは思った。ただ自尊心や地位を守るためではなく、彼らはどうしても僕を傷付けたかった。そんな執着があるなら、きっと僕は逃げられない。なら終わってもいいとは思った。
僕は飛んだ。いや、正確には落ちた。だが、無傷だった。だからあれは、問題にもならなかったし、誰も知らないはずだった。
「ずっと、近くで、だよ。見てたのは」
「近くって?」
彼女は、すっと、顔を近付けてくる。内緒の話を打ち明けるみたいに、限界まで近く。
「目の前で」
僕の鼻先に人差し指を突き立て、言った。
キスをするより近くにいる気がした。冷えた肌同士が重なる感触は、痺れに似ていた。
「君は僕をどうするつもり? またいじめたいの?」
思い返してみても、まだ違う気がする。あのとき僕をいじめていた一派に、女子が二人いた。ひとりはいまも同じクラスの、仕切り役のあの子だ。そしてもうひとりが、依木野さん、だなんて。
そもそも見た目が違い過ぎる。僕はあのころ、殴られ蹴られ、転がされていたから、彼ら彼女らをさほど注視する余裕はなかったけれど、それでもいまの依木野さんと、あの女子では似ても似つかない。
あの女子について、僕が覚えている印象は、明るく染め上げた髪色と、あの鋭い目つきだけだ。
「いじめたりなんかしないよー。
彼女は「うふふ。うふふふ」と依木野さんらしくない、歪んだ声で笑った。
「目的はなに? 僕をからかってたの?」
「違うよ。聞いて」
「聞いてるけど? さっきから」
「怒ってる?」
「もう昔のことだし」
「だし?」
「怒ってないよ」
やや語尾が強まったのは、怒っているからじゃない。じゃあなんでなのかと自問しても、それは難しい問いだった。だけど、そうか。僕は、やっぱり、依木野さんが好きだったんだ。だから彼女が自分を偽っていたことが癪だったのだろう。
「あの、私。奏多くんのことが、好きなの」
「は?」
話が繋がっていなかった。彼女の言葉は、外国語みたいに聞こえた。
「本当はインタの年越しライブのあとにね、言おうと思ってたの。だけど今日、あの日のこと思い出して。あ、いま言わなきゃって」
「どういうこと? 言ってることが解らない」
「そうだよね。嫌だよね。私なんて」
「そうじゃなくて。その、君が僕を、好きだという理由が解らない。どうして? あれだけ罵っていた僕を、いまさら」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない」
「奏多くんが、飛んだあの日。みんな後悔してた。私もそうだった」
「それは。問題が露見すると思ったからだろ」
「うん。そうだった。私以外は。……私は、奏多くんが死ぬんじゃないかって。それで、後悔してた」
「じゃあなに? 君は僕をいじめているときからずっと、好きだったってこと?」
「ううん。違う。……私はね。奏多くんが飛んだあの日、あの瞬間に、奏多くんを好きになったの」
「なんで? 意味解んない。……もしかして馬鹿にしてる?」
「違うの。そうじゃないの。……あのとき、奏多くん、すごく達観した目で、私たちを見てた。いじめなんてくだらないって、そんなふうな顔。だから私たちは、自分たちがどれだけ格好悪いことをしていたか、気付けたの」
奏多くんのおかげで。そう言われても全然嬉しくなかった。なんだろう、その、加害者本位な考え方は。
「あの日、柵を越えてからも、私たちは――すくなくとも私は、奏多くんは飛べないって思ってた。でも、飛んだ。……私にはそんな奏多くんが、私たちよりよっぽど強くて、格好よく見えたんだ」
「……あのさ、もしかしてだけど、依木野さんが飛び降りたのって」
「うん。……気を引きたかったの。奏多くんが見てるの、気付いてたから」
なんだそれは? 狂信的すぎる。だけれどたしかに効果はあった。あのころの彼女の記憶が正しければ、彼女はきっと、僕の気を引くために地味な格好をしている。そのうえ飛び降りまで。狂っていても自滅的でも、そういうふうに真剣に手を尽くしてくれていたということは、素直に嬉しかった。
もし、いまの言葉を、一時間前の依木野さんから聞けていたら、僕は彼女に、本当の意味で、惹かれただろう。
「だから、お願いします。奏多くんが好きです。付き合って下さい」
だがもう遅かった。僕の好きだった依木野さんは、どこにもいなかった。最初から、どこにも。
「『君になにかを伝えられると思っていたのは、君が君だったあのときまで』。……ごめん。無理だ」
僕は頭を下げて手を差し出している女子を取り残し、雨の中を走って帰った。ちょうど去年の十二月五日。あの日飛び降りてから、そうしたように。
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