6 2018年10月02日

 親愛なる陛下!

 私の書簡はルイ14世の世紀のセヴィニエ侯爵夫人の如きもの、即ち半公開のもの、というよりも、公卿にしか公開しないものです。読者はサロンの成員に限定されています。何故なら私は、言うまでもありませんが関白であり、准三宮であり、ヨーロッパ摂政であり、メキシコ皇帝であり、キレナイカの先王であるからです。オルテガ・イ・ガセットは、精神的貴族を称揚し精神的平民を批判しました。しかし私はそうではありません。私は血統的貴族を称揚し血統的平民を批判します。血統、身分秩序こそ社会の命であり、宗教的にも道徳的にも政治的にも社会的にも芸術的にも人間にとって本来不可欠なものです。それが無いから、人間は謙虚さを知らず、言語の迷宮の中に閉じ込められているのに愚かさゆえに壁に触れることができないので、鎖につながれ決定的な奴隷状態であるにもかかわらず自分が最高の自由人だと勘違いし、畜類以下のものと化しているのです。

 自由とは何でしょうか!権力欲の虜、鉄面皮の狼でなくては政治的自由など求めはしません。***人根性を持った者以外が経済的自由など求めるでしょうか。卑劣漢、退廃の輩、犯罪者でなくして倫理的自由などを求めることが考えられるでしょうか!一切の世俗的自由は有害無益、犯罪者の屁理屈に過ぎません。真の自由とは内面の自由です。そしてそれは、いわゆる自由思想家が考えるような、或いは憲法なる紙屑に殴り書きされた思想信教の自由などでは毛頭ありません。常に原点に立ち戻りましょう。キリストと聖母の教える謙虚さによる自由、ソクラテスの教える無知の知による自由です。思索をすればするほど、古代の賢哲の教えを知れば知るほど、我々の思索の卑小さ、空しさが明らかになるばかりではありませんか。そしてそれこそが智慧なのです。言語と言う迷宮に閉じ込められた我等は、世界と言う迷宮の内部に造形された天然の美に感嘆しようではありませんか。そして、どうして迷宮に閉じ込められた囚人が、その迷宮の作り主だなどという致命的な誤りを信じることができるのでしょうか。確実に、言語は神の産物です。

 今、ポール・ヴァレリーの小論集を読んでいます。図書館で手に取った時、第三共和制の知性と言われているので少し気が引けましたが、それでも内容はかなり厭世的で反時代的です。確かに純粋な左翼知識人にとっても、現代は暗黒の時代でしょう。ただ、彼らが民主主義だの人権だのを否定しないのであれば、彼らの悩みなどと言うのは私のような正統主義者、反動主義者の呻吟に比すれば無いようなものですが。教養というのは謙虚さがあって初めて有益になるものです。そうでなければ有害なものにしかなりません。

 ニコラス・ゴメス・ダビラは、「知恵は、過剰への恐れによる中庸ではなく、限界への愛による中庸に存する」と言っています。これほど含蓄に富んだ金言があるでしょうか。過剰への恐れによる中庸とは、単に世間一般の常識から外れまいという卑劣な発想を、勝手に道徳的と感じて自己満足しているような類の偽善です。この手の愚か者が如何に当世には多いことでしょうか。限界への愛による中庸とは、徹底的な自己反省と諦観によるものです。限界とは人間一般や社会の限界であると同時に自己の限界でもあります。限界とは言語です。何故なら、トミズムの基本テーゼにあるとおり、esse(存在)はessentia(本質)によって限定されてens(存在者)としてexistere(実在)するからです。本質とは言語であり、言語がなければ限定などありません。そして限定があるからこそ、我々は神ならぬ、神とは別個の存在者として存立できるのです。

 「我思う故に我あり」は、人間にとって明証的な真理ではなく、言語-概念の権威主義的な同一性の保持によってのみ成立するものです。何故なら、この命題の意味するところを保証するものは、既に存在している言語の意味(それは歴史的かつ超越的でありますが)以外にないからです。理性や自己意識が全てを組み立てられるかの如き発想は、独我論の亜種とさえ言えます。言語という、祝福であると同時に呪詛であるような、人間にとっての不可避の運命、これこそ人間と神をつなぐ唯一の架け橋であり、だからこそ、キリストはロゴスであると、正当にも聖ヨハネや教父たちは教えてきたのです。

 同じ言語の枠内にあるのですから、中世も現代も変わらないと思われるかもしれません。しかし中世人と現代人の最大の違いは、自己の有限性の認識があるかどうかです。中世は厳しい現実ばかりでした。思索なくしても、自己の限界は容易に思い知られたのです。現代は思索なくしては自己の限界を体得することは容易ではありません。現代人に試練はあるでしょうか。スポーツはどうでしょうか。スポーツなど虚栄と世俗主義の記念碑に過ぎないのではないでしょうか。しかし自己の限界を知ると言う意味では、ある種有用な場合があるかもしれません。しかし克己のために本気でスポーツをしている人など多くはないでしょうし、単なる気晴らし、娯楽である場合がほとんどでしょう。昔は運動をする者は日本では折助と言って蔑まれたものです。中世人はスポーツなどしませんでした。肉体への罰としては、断食や鞭打ちなどがあったからです。当世のスポーツは肉体美など、官能的・世俗主義的な臭気で満ちています。目指すところは全く違うのです。

 古代ギリシャの理想は、肉体美を超えて精神美へ、というものでした。しかしそんなものは、当時でさえ画餅の理想主義に過ぎなかった。近代五輪の精神も、建前上はそのようなものであったかもしれません。しかし今や肉体の鍛錬をへて道義へ至るなどという理想さえありません。しかし私には、当世のスポーツや五輪など一切何の関係もないことです。やはり、中世人と現代人は全く違う。中世人から精神的に退化し畜類に退行して、現代人に至ったのです。何故こんなことになったのでしょうか。

 精神が肉体的に遺伝するとは思いませんが、家の教育、家風等により精神が子孫に伝えられることはあると思います。さて自分をも含めた現代人は誰の子孫なのでしょうか?巧妙にも憂世を生き延び、飽きずに生殖してきた者たちのみの子孫なのです。修道院に入ったり、物質より精神を貴ぶ(とは、女を軽蔑するということと同義ですが)あまり独身を貫いたりした精神的な人々の血は我々には全く受け継がれていないのです。我々は家庭人、繁殖を肯定する人々のみを祖先とし、彼らに育てられてきたのです。独身を守った人々は皆子供を残さずに消えてしまいました。ということは、何百世代も重ねるうちに、凡庸な者のみが生き残るということはないでしょうか。しかしこれもおかしな説かもしれません。代々独身の聖職者は常に(50年前のカトリック教会の崩壊に至るまで)輩出されてきたのですから。

 このように無意味な物思いをし、無意味な読書をして日々を過ごしております。有意味なことをするには私は老い過ぎました。

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