4 2018年09月30日

 親愛なる陛下!

 涼しくなると詩興も少し出て、和漢朗詠集秋部などを読んでおります。何十回読んだことでしょうか。まだ落葉には早いですが、白氏の「秋の庭は掃はず藤杖に携はりて閑かに梧桐の黄葉を踏んで行く」などとても感慨深く思います。落葉といえば、マラルメのエロディヤードに、「なんぢが底深き氷の下に沈みたる落葉に似たるわが思出を求めつつ」とありますが、ここで言う汝とは鏡のこと。躬恒の旋頭歌に「ます鏡そこなる影にむかひゐて見るときにこそしらぬ翁にあふここちすれ」とあります。私もこれを本歌取りして先日「いつの間に重ぬる年はます鏡知らぬ翁の浪の数かも」という歌を詠みました。マラルメは鏡のことを「うれへによつてその縁の中に凍りたる水」と言っていますが、なかなか優れた表現ではないかと思います。ボルヘスが、鏡と情交は人を増やすがゆえに忌まわしいというようなことを言っていた気がします。

 落葉、鏡、老人、厭世。大鏡に始まる歴史物語の四鏡も、ほとんどが老人が昔を語る体だったと思います。老人が鏡に感慨を抱くのは、現在の年老いた顔の皺などに、自己の歴史を感じ、昔を思い出すからでしょう。私はまだ鏡を見て感慨深くなるようなことはありませんが、見入ることもありません。しかし様々な文学上の先例により、哀愁を感じることができます。ただ、鏡は個人的なものですから、一時の感傷以上の価値はないように思います。個人的なものより、社会的なもの、政治的なものに価値があるのは明らかです。その点で私は唯美主義に反対します。政治的なものよりも宗教的なものに価値があるということも明らかですが。

 とはいえ政治的な何らかの活動をする道も、私には閉ざされています。プリズンにおける徒刑はさておき、私がこの民主主義社会、平民レジームに少しでも益になるようなことは絶対に、少なくとも意識的に行うつもりは毛頭ありません。そしてそれらの転覆は自力では不可能ですから、害になることをする労を取るつもりもありません。

 今の私は普通の右翼からすれば、ほとんど反体制的で左翼的にすら見えるかもしれません。しかし伝統を知らない浅はかな近代主義者の右翼こそが私からすれば左翼なのですから、一切気にする必要はありません。1940年にナチス・ドイツがフランスに侵攻し、一撃で第三共和制が葬り去られましたが、フランスの極右、王党派などはこれをディヴィーヌ・シュープリーズ(神による一撃)として大歓迎しました。私の立場はこれに少し近いものがあります。

 明治革命以降の日本の政権は純粋な簒奪政権であり、端的な悪です。思想的に妥協の余地はありません。戦前の体制は戦後に比べればマシというだけで、それ自体薩長の足軽のレジームに過ぎず、今に至る天皇のバビロン捕囚の始まりなのです。ですから、YP体制などではなくて、この明治革命体制を打破しないことには何も始まりません。しかしそれは現実的に不可能です。

 フランス第三共和制にとってのナチス・ドイツのような外国は日本の周りにはありません。日本と同じか、それよりもひどい国ばかりです。ですから外圧によって平民レジームが打破されることは有り得ず、万事休すというわけです。

 私は反近代日本という点では反日です。しかし本来的な日本は前近代にあるので、本当には近代日本自体が反日なのです。前近代日本の正統性にこだわるのが、本当の伝統主義的愛国です。近代の日本を肯定する者は右翼でも保守でも愛国でもない、近代主義・世俗主義の徒党に過ぎない。

 ヒトラーは、晩年にゲーリングの裏切りに接して「この麻薬中毒者はワシの下でずっと腐り続けた!」と激怒したと言います。私も同じ感慨で、日本は明治革命以降、死体が腐り続けているだけです。今の日本が完全に白骨化し、バビロニアやアッシリアのように、単なる歴史上の思い出話になってしまったほうが、どれだけマシなことでしょうか!

 「クズしか残るまい、最良の者達はすでに死んだ」。これもヒトラーの言葉です。鬼気迫るベルリンの総統防空壕は独特のペーソスがあり、中学生の頃から、ずっと私の好きな情景です。私の幼い夢想の中では私はいつも地下防空壕の聴罪司祭だったり(実際はいなかったと思いますが)、ナチスのイデオローグだったり、或いは単なる官吏だったりしました。世界没落観というのは何らかの精神病の一症状だそうですが、それならばゲルマン神話、ラグナロクの担い手…或いはゲルマンの神々は精神病だったのでしょうか。どうでもよいことです。

 私には現代における自分のあり方が、ベルリンの総統防空壕におけるナチスであるように思えたのです。それが後には、イパチエフ館のアナスタシア大公女となり、タンプル塔のルイ17世やマダム・ロワイヤルとなりました。

 現実には全く通用しなくなっており、今後とも復古の見込が何一つない思想であっても、正しいものは正しいはずです。私はヘーゲルに抗して、現実的なものが理性的であるとは認めません。ボルヘスは、「紳士は破れた大義にしか関心を寄せないものだ」と言いました。君主主義も伝統的カトリシズムも、今破れつつある大義ではなく、既に破れた大義です。私には澄み切った青空の下、正道を歩いているという観念があります。しかし周りには誰もおりません。私ただ一人です。しかしそれでよいのです。

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