3 2018年09月29日

 親愛なる陛下!

 私が毎朝インターネットのニュースサイトを開く時に味わう幻滅をご存知でしょうか。毎日毎日、何のニュースもありません。確かにニュースサイトは様々な事件で埋め尽くされてはいますが、世界史的に有意味なものは何一つない。というより、今の世界史における有意味なものとは破滅ただ一つなのです。ポール・ヴァレリーは、『知性について』という文章で、「出来事までがまるで食物のように要求される。朝起きて、世界に何か大きな不幸が起こっていないと、我々は何かものたりなく思う。「今日は新聞に何もない」とみんな言うのである」と言っていますが、私の感情もそのようなものに過ぎないのでしょうか。いや、私の場合は単に刺戟を求めているわけではありません。不当な終身刑を受けている無実の囚人にとって、牢獄の崩壊だけが望みであるのは当然のことです。牢獄である平民レジームの破滅はニヒリズム的な破滅願望ではなく、私の正統主義思想から必然的に導出される切実な願いなのです。ただ、それは全く実現可能性のない空しい夢に過ぎません。

 象徴主義の詩人だったジャン・モレアスは、やがて象徴主義に背を向け、古代・中世の世界に隠遁したと言います。私は別に象徴主義者ではありませんが、もとより古典和歌の世界に隠遁しています。古典和歌をいくら詠んでも、発表の場などないし、読解する能力がある者すらいないでしょう。芸術が新奇さ、独創性という進歩主義的な価値観によって評価されるような誤った傾向が蔓延している以上は、伝統主義に立つ古典和歌が評価されるわけがありません。工芸の分野では、伝統を守ろうという思想はあるようですが、文芸の分野ではそのようなものがないのは不思議なことです。

 私は自由詩、散文詩で少しでもよいと思った作品など今まで一つもありません。そもそも詩における個性とか、独創的なものなど、芸術上の欠点に過ぎません。一定の形式、制限のもとでの表現であって初めて、詩としての意味が生ずるのであって、散文的な詩というのは詩ではありません。そして更に本歌取りという伝統主義、教養主義があることによって、芸術は道徳と一致するのです。即ち、言語表現の伝統性の直視、謙虚さなくして本当の文芸は有り得ないのです。古典和歌を詠むということは、公家によって培われてきた日本語の伝統美の体系全体への最大の敬意を伴う参入なのです。しかしそんな伝統はもうとっくに滅びてしまいました。私の古典和歌への執着は、ピラミッドの内部の未完の壁画をひたすら描き足しているようなものです。

 三条右大臣の歌に「はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを」とありますが、全くその歌の心です。18世紀イギリスのチャタートンは17歳で自殺しますが、中世の詩を贋作し、再発見したものとして発表し続けました。このような天才があったのです。私も既に老境ながら、そうすべきなのでしょうか。

 昨夜見た夢は、御祖母と二人で部屋にいて、二つある照明を両方順次点けるというものです。御祖母は明るいことを喜んでおられました。光明は、もはや夢の中のみです。

 現代の世界を正道に立ち戻らせることは、絶対に不可能です。なので、あらゆる改善の試みは全て馬鹿げたことです。世を正道に戻らせる方策ではなく、この完全に失敗した末代の廃墟でどのように生きていくかを考えなくてはなりません。その回答は、常に十字架であり、最初からわかりきっていることです。しかしその十字架はいわゆる建設的な十字架ではなく、内面的かつ反時代的な十字架です。カトリック教会が決定的に滅びた以上、そうする他はありません。

 廃墟で暮らすのは一種耽美的なものと思われるかもしれません。しかし耽美主義者と異なるのは、好きで廃墟にいるわけではなく、強制的に廃墟に追いやられているという点です。ルイ17世とマダム・ロワイヤルのタンプル塔と言ってもよいでしょう。周りには畜類か悪霊のような有害無益な者たちしかいません。せいぜい、精神の足萎えのような、悲惨な者たちがまだマシなものとしている程度です。そのような境遇から出られない以上は、いくらわめいても無駄なことです。マダム・ロワイヤルはタンプル塔の壁に心の嘆きを書き綴りました。私のこの書簡もそれと同じことなのです。お許しください。

 しかし個人の生き方を過度に重視する実存主義には私は明確に反対します。本質は実存に先立つのです。何故なら実存も概念に過ぎないからです。我々の思索自体が言語によって決定づけられており、本質を離れた自由な思索など不可能です。我々は大日如来の掌の上の斉天大聖の如き存在です。我々は神の作られた言語の組み合わせの中でしか思索できない摂理の自由な囚人です。私の反時代的思想も嘆きも、全て先人たちの類型の繰り返しです。本朝では宇治関白の頃から既に末法の世が嘆かれていました。どの国でも一時代や一王朝の末期には、反時代的な悲嘆が聞かれたものです。というよりも、懐旧と厭世、現状否定は老人の本質なのかもしれません。当世は老人が少なくなりました。老人とは年齢によるものではなく、思想によるものです。深い諦観と厭世観、無力感があればそれは年齢的に若くても老人と言えるでしょう。その意味で私はこの世に強い望みを残した若者と交流するのには疲労と倦怠を感じます。

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