難い愛の誓い

愛猫

難い愛の誓い

 葬式の席で、僕は泣いている。僕の周りでも、大勢の人が涙を流す。しかし、僕のこの涙は嘘だと、僕だけが知っている。

 僕の姉が死んだのは、一週間前のことだった。エイプリルフールが過ぎ去ってもまだ、降る雪はやみそうにない。

 

 それは、四月の初日。嘘を吐いても許される、あの日だった。

 新学期が始まる日が間近に迫ったというのに、はらはらと降り続ける雪。もちろん桜なんて、咲いているはずもない。

 周りの大人たちは、やれ異常気象だの、地球温暖化だのと嘆きあっていたが(雪降ってるのに、温暖化?)、小学五年生の僕にはどうでもいいことだった。

 ところで、唐突な自慢を一つ。

 僕は、周りの子供より頭が良いとよく言われる。本が好きで、幼少期から(今だって幼いが)たくさん読み漁り、ませた言葉をいっぱい使っているから、そう見られるのだろう。

 そんな僕――「冴樹くんって、オトナよねぇ」なんて、よく感心されるような僕――だけど、雪は結構好きだ。異常気象だったって、そんなことどうでもよくなっちゃうくらいには。

 僕は思う。

 冬の子どもにとって、雪がいっぱい積もること以外に、外遊びの楽しみなんてあるのだろうか。

「寒いから外に出ちゃだめよ」

なんて親の制止を振り切ってでも、マフラーとコートに手袋の〈三種の神器〉でもこもこにされても、結果風邪をひくことになっても、僕たちを外に飛び出させる。

 雪には、そんな魔力がある。

 だから、あの日も僕は外で、雪遊びをしていた。


「よっしゃ、完成―!」

 渾身の出来だ。

 早朝から作り続けていた雪だるまが、ようやく出来上がった。所要時間七十分、大きさは僕の胸くらい。僕がクラスで一番背が低いとはいっても、これはかなりデカい方だろう。

「やったぁ! お前は今日からマイクだ! 雪がやむまで、よろしくな!」

 自分で作った雪だるまに、名前を付けてみた。これだけ大きな雪だるまを作ったのは初めてなので、喜びもひとしおだ。僕は達成感に満ち溢れていた。

「……しかし」

 なんか味気ない。真っ白だからだろうか?

一応、そこらへんに落ちていた葉っぱで、目、鼻、口は付けてみたのだが(美術の先生が見たら、成績簿に『1』と書かれそうだ)。

「体になんか着せたいな。素っ裸だし」

 多分それが原因だろう。……そうだ!

 ちょっと前に姉がどこかで買ってきた、深みのある藍色をしたスカーフ。なんだか綺麗だし、肌触りもよかったから(多分シルク)借りていたのだが、このコートのポケットに入れっぱなしだった。

 雪だるまに巻いてみる。ちょうどいい感じに、よく似合っている。

「似合うぞー。姉ちゃんが帰ってくるまでだけど、貸しといてやるよ」

 自分のスカーフが雪だるまに巻かれてたなんて絶対怒るだろうから、それは決定事項だ。頭の中のメモ帳に書き留めておく。

「あ……でも、マイクに巻いてたら、びちょびちょに……まぁいっか、似合ってるし」

 まるで彼(雪だるまに「彼」って、変だろうか?)のためにあつらえたようなそれを取り外すなんて、僕にはできなかった。

「がんばれよ、溶けるなよー」

 そう言って家に戻ろうとしたとき。

「え?」

 どさっ、と音がして、いきなりマイクが崩れ落ちた。

 何の前触れもない、それはまさしく『崩落』だった。

「わーーーっ! マイクが! 僕の、七十分の努力がぁ!」

 僕も同じように、崩れ落ちるように膝を付く。泣きそうだ。

 今思えば、この不幸な出来事(『不毛な出来事』とも言い換えられるが、それはこの瞬間以降の出来事にあてがうには適切ではない)は、そのままこの後の雲行きを暗示していたのかも知れない。

 だが、そんなことをこの時点の僕は知るよしもなく、ただただ、ショックで瞳を潤ませていた。

 目から涙が零れ落ちそうになったとき、門の外から足音が聞こえた。


 バタバタバタバタ。えらくあわてた様子で、近所で酒屋を営んでいるおじさんが走ってきた。ぽっこり突き出たおなかをたぷたぷ揺らして、息を切らしている。

「はあ……はあ、はあ、はあ」

 門の前で立ち止まった。こっちを向いて口をパクパクさせているが、声になっていない。走った後だというのに完全に血の気の引いた、おびえるようなおじさんの顔が妙に印象に残った。

 よく見れば、おじさんの膝はがくがくと震えていた。

(全力疾走したから疲れたのかな?)

 そう思った僕はおそるおそる、おじさんに声をかけた。

「あ、あのう……大丈夫ですか? とりあえず上がってくださ」

「冴樹くん! 大変だ、事故……」

 顔を真っ青にして叫んだおじさんは、はっ、と口をつぐんで、

「……お母さんを呼んでくれ」

 事故?

 何だか嫌な予感がした。倒れた雪だるまの姿が、なぜかふと、頭をよぎった。

 僕は神妙に頷く。手は無意識に、雪だるまの残骸の中から探り出した藍色を握りしめていた。


「あらー、三木さん。どうしたんですか?」

 一直線に伸びた廊下の奥から、ゆっくりと歩いてくる母さん。

「川ノ瀬さん! 実咲ちゃんが……!」

 ……姉の名前だ。

嫌な予感が、じんわりと心を冷やしていく。

「『あの』交差点で、事故に」

 は?

 思考が、何もない雪原のように真っ白くフリーズした。

「…………おじさん、事故って?」

 何とか言葉を絞り出す。自分でも信じられないくらい、低い声が出た。おじさんは条件反射のようにこちらを向いて、しまった、という顔をした。

「冴樹くん! 君は……」

 最後まで聞かず、僕は駆け出した。


 ウソだろ。ウソだ。ウソであってくれよ。

 あの酒屋のおじさんは、あんなシリアスな顔をする人じゃない。とても陽気な人だ。

 クリスマスの日の子ども会では毎年サンタ役をやっているし、それがとてもはまっている。

 節分の日も、鬼の格好をしておなかを出して、子どもたちに豆を投げられて大騒ぎしている。

 お祭り好きの、ノリのいい、悪ふざけの好きなおじさんだ。

 だからきっと今回のおじさんも、行事に便乗して、ウソをついてるだけなんだ。

 だって今日は、エイプリルフールじゃないか。だからウソに決まってる。そのはずなんだ!

 息切れがしてきた。でも、走る足は止まらない。

 絶対そうだ。うん、そうに違いない。

 左右も確認せずに、近道に飛び込む。

 間違いないな。まったくおじさんったら。

 クラクションを鳴らす車のすぐ前を、そちらに目もくれずに突っ切る。

 まるでおじさんみたいに、陽気に笑い出しそうになったところで、凍った路面に足を取られた。

 全速力だったので、勢いよく転ぶ。

 ……分かってる。

 おじさんは確かに陽気だけど、そんな不謹慎なウソをつくような人でもないってことくらい。

 じゃあ、ウソじゃないなら、何だ?

 座り込んでいて落ち着いたはずの呼吸が、だんだん速くなる。

 膝がじんじんと痛むのを無視して、僕は走り始めた。


 事故現場は凄惨なありさまだった。

 件の交差点には、十分ほどで着いた。

 そこの路面の一部が、広範囲にわたって赤黒く染まっている。

 正面がひしゃげた大型トラックが、道の隅に移動させられていた。

 心臓がバクバクうるさい。

 周囲に人はほとんどいない。二、三人の警察官――今は手持ちぶさたな様子で立っている――が人払いでもしていたのだろうか。たまに通りかかる人も、興味深そうにこちらを見てすぐに視線をそらす。わずかに残った雪の薄汚れた白色を消し去って我が物顔にのさばった赤色のせいか、無残に前面のひしゃげたトラックのせいか。

「見てよ、アレ……」

「うわぁ……」

 頭がガンガンする。それなのに、通行人の会話は不思議と耳に入ってくる。

 顔をあげると、膨らんだスーパーのレジ袋を提げた中年女性の二人連れが視界に入る。立ち止まってひそひそと囁き合う彼女らは、どうやら僕に気付いていないようだ。

「無事なのかしら、ねぇ」

「あんたそんなわけないでしょうがよ。こんなに血が出てたら、死ぬに決まってるじゃない。気の毒だけど、もう……」

「あら……誰でしょうね。気の毒に……」

 姉ちゃん……死ぬのかな。今どこにいるんだろう。死ぬ前に顔を見にいかないと……。

 もやがかかったような頭で、ぼんやりと考える。誰でしょうね。端から他人事なその台詞が、胸にひっかかる……ん? あ、え? ちょっと待てよ?

 僕ははっとして目を見開いた。

 そうだ。おじさんの言っていたことが間違いだという可能性はないのか?

 天啓、という言葉が脳裏をかすめた。啓けた天から垂れ下がる糸。

 僕は必死によじ登る。

 あそこに立っている警察の人だって、一般人であるおじさんに、簡単に情報を教えたりはしないだろう。

 それに、うちの母さんは事故について知らないようだった。事故の時に人がいて、その瞬間を目撃していたとしても、親より先に酒屋のおじさんに伝えるとは考えにくい。

 つけ加えると、おじさんは気の弱いことで有名だ。事故の瞬間を見ていたなら、あんなに冷静さを保ってなんていられないはずだ。……まあそれは、誰だって同じだろうけど。

 つまり、酒屋のおじさんは直接事故を目にしておらず、誰かに噂などの不確かな形で伝え聞いただけの可能性が高いということだ。だから、この事故の被害者は姉ではないという可能性だって、ないわけではないのだ。

「……ふぅ」

 僕は一つ息をついた。

……少し希望が見えて、心に余裕が生まれたのだろうか。僕はもうちょっと、周りの様子を見ることにした。

 さっき立ち話をしていた中年女性は、すでに立ち去ろうとしていた。

 ……しばらく見わたしてみたが、あまり気分のいい眺めではなかった。それに、姉の安否確認をするのならば、ここにボケっと突っ立っているより、家に帰って母さんに訊いた方がよっぽど早い。

「とりあえず、家に帰ろうかな……」

 独り言をつぶやいて踵を返す。

 真後ろに人が立っていた。

 何の前触れもなく、さながら幽霊のように。


「おわっ!」

 僕はびっくりして、大きく飛びのいた。

 長い黒髪に、真っ白な肌。異様なほど大きな瞳。年の頃(十歳くらいだろうか?)に似つかわしくない、艶のある紅い唇。

 ひどく妖しげな、少女だった。深夜に歩く市松人形みたいだ。

 少女はニコニコ笑いながら、こちらをじっと見ている。温度のない、冷たい眼差し。それと対照的に笑みを象っている表情が、とても不気味だった。……なんと言えばいいのだろうか。何かは知らないが、〈笑い〉に対応する感情を、彼女が抱いているのは伝わってくる。しかしその表情は、アニメや漫画のキャラクターとか――あるいは先ほどの比喩のような、人形――が空虚に一様に浮かべている笑い。うわべだけのモノ。

 彼女自身が、〈作り物である〉ということでフィルタリングされているように、偽物めいて見えるのだ。

 そしてもう一つ。彼女は少し時代遅れっぽい、白のワンピースを着ていたが、裾部分のごてごてしたフリル(四段くらいある。姉が見たら吐きそう、と言うだろう)の大部分に、赤黒い染みが付着していたのだ。〈血の染みみたいだ〉そう思って、僕はブンブンと首を横に振った。

 そんなまさか、もいいところだ。こんな年端もいかない少女の服に、どうやったらこんなに大量の血が付くというのか。

 しかし、この少女の発する得体の知れない雰囲気には、それが人間の血だと言われたとしても納得させ得る何かがあった。

(何なんだろう、この娘)

 この、人間離れした雰囲気。そして遅まきながら僕は、〈何故この娘は、自分の後ろに立っていたのか〉という疑問に行き着いた。そこから考えてみれば、いくら考え込んでいたからとはいえ、人の後ろに気配も何もなく、気づかれずに立つなんて、尋常じゃない。

 笑みを顔に張り付けたままの少女に向き直り、意を決して問いかける。

「……あのさ。きみ、いったい」

「貴方」

 艶めいた声で遮られた。幼い見た目とはあまりにかけ離れた、しかしそれでいて、妙に雰囲気にマッチした声色だった。

 目を白黒させる僕に向かって笑いかけ、言葉を続ける。

「ついさっきここで死んだのが、貴方の姉ではないと思っているでしょう?」

 意味をつかめず聞き返した。

「……どういうことさ、それ」

「ああら、分からないの?」

 彼女は艶冶に目を細め、答えを口にする。

「貴方の予想……いえぇ、そんな前向きなことではないわね。現実逃避、というモノかしら? 難しいことは、アヤ子には分からないけど……まぁいいわ、どうでも。アヤ子がまず貴方に言いたいのは」

 口を閉ざし、笑みの形を作る。それは今までの、誰かに媚びを売るような表情ではない。獲物を見つけた口裂け女が、マスクを外したときのようだった。

「貴方の姉――川ノ瀬実咲は、さっきここで死にました。それだけなんだもん」

 どさっ。どこか遠く響く音とともに尻に鈍痛が走るが、そんなことは最早どうでも良くなっていた。

 視界がグルグルと回る。吐きそうになり、口を押さえるが、手に力がこもったのは一瞬だけで、すぐにダラリと垂れ下がった。眼球が火のように熱くなり、涙がボロボロとこぼれ、地面に染みを作った。

 記憶がグルグルと廻る。姉の姿が、仕草が、笑顔が、手つきが、言葉が、足音が、廻る。

 時間の感覚など失せていた。どれくらい時間が経ったのか分からないまま俯いてしゃくり上げていると、上から声が聞こえた。

「……貴方がどれだけ姉のことを思っているのか、よく分かった」

 顔を上げ――ようとするが、出来ない。頭が重い。

「貴方たちなら、私の願いを叶えてくれるかも知れないわね」

 うふふ、と笑う声。

 どうして笑っていられるんだ。姉ちゃんが死んだのに。そう怒りをぶちまけそうになるが、それも出来ない。口を開いたら嘔吐しそうだった。

「……よし、決めた」

 パチンと指を鳴らす音。それと同時に、重量感のある何かがだんだん近づいてくるような気配。何だ? なんとか顔を上げ、その方向に視線をやる。

「……っ!」

 僕はその光景に絶句した。

 這いつくばった僕めがけて、大型のトラック――この現場のわきに寄せられていた、おそらく姉を轢いたのと同じ型のモノ――が迫ってきていた。

「じゃあね。……貴方とお姉さんとで、私に見せて? 真実の、〈愛〉を」

 鳴り響くクラクション。通行止めの看板が轢き潰される音。現場の人々の上げる悲鳴と怒号。衝撃とともに宙を舞った僕は、自分が死ぬだろうことを悟った。


 ぼんやりとした意識で、薄く目を開く。

 僕は見知らぬ場所に、一人立ち尽くしていた。

 黒、という表現が、この場所に最もよく似合っていた。暗闇ではなく、黒。この二つに違いなんてあるのか分からないが、なんとなく僕は考える。多分、視界に入るものがちゃんと区別出来るかという点で、僕はこれらを区別しているのだろう。朦朧としてまとまらない思考に、光明が差し込んだ。

「冴樹!」

 僕は振り向いた。

「……姉ちゃん!」

 目の前に姉が立っていた。

 動かなかった体は、ウソみたいにその機能を取り戻していた。僕は姉に駆け寄り、ぎゅうぅっ、と強く抱きしめた。温かい涙――先ほどのものとは違う、安堵によるものだ――が次々に頬を伝い、流れる。

「姉ちゃん! 姉ちゃん……!」

「ちょっ……何するの、冴樹、痛いってば」

 姉の制服の胸元が濡れるのに構わず、僕は泣き続けた。

「姉ちゃん……姉ちゃん」

「……はいはい。怖かったよね」

 姉が、僕の背中に手を回す。それだけで僕は、とても満たされた気持ちになった。生きている。生きている。そうだ、姉は生きているんだ。だってこんなにあったかい。だってこんなにやわらかい。

 死んでなんかいない。聖母のような表情で、こうして僕を抱きしめてくれる。「怖かったね」と優しい言葉をかけ、僕を慰めてくれる。

 あの時は死んだと思ったけれど、きっと僕はあの後病院に運び込まれて、息を吹き返したんだろう。そしてそこで、今姉と会っている。良かった。僕たちは生きているんだ……。

安心からか、全身からふっと力が抜け、地べたにへたり込んでしまう。

「姉ちゃん……」

 姉の、慈しむような顔を見上げる。

「怖かったね。もう大丈夫だからね……」

「よかった、僕たち生きてるよ。ねぇ、ここどこ? 暗いから、早く明かり点けてよ」

 僕が口にした言葉に、姉の表情ががらりと変わった。

 まるで、太陽がさんさんと輝く青空に、分厚い雲が何重にも覆いかぶさったようだった。

「……冴樹。違うの」

「えっ?」

 何かいけないことを言ってしまったのだろうか。突然の姉の変化に、さっきまでの安らぎはどこかへ吹き飛んでしまった。

「何が……違うの? 姉ちゃん」

「冴樹」

 ごくりと唾を飲み、姉は沈痛な表情で告げた。

「私たちはね。もう死んでいるのよ」


「ウソだ!」

 僕は叫んだ。

「死んでなんかない!」

 信じられなかった。

「姉ちゃんも僕も、こうしてここにいるじゃないか!」

 認めたくなかった。

「体温もあるし、脈拍もあるし、そもそもこうしてしゃべれる! 僕たちは、生きてるんだよ!」

 必死でまくし立てる。少しでも肯定したら、それは完全に現実になって、揺るぎなく固まりきってしまいそうだったから。箱の中に入っていた猫が、死体で目に映ると思ったから。

「冴樹、落ち着いて! 自分で……体験したでしょ? 私たち、トラックに轢かれて……」

「じゃあ今の僕たちは何なんだよ? 死後の世界だとかいうの? ありえないよ!」

「それはアヤ子が説明するわ」

 声のしたほうを振り向く。白いワンピースの少女。まるで自ら発光しているかのように、白が黒の中に映える。

「実咲ちゃん……だったかな? あなたは一度聞いた説明だけれど、もう一回冴樹くんと一緒に聞いてあげてね」

「何でっ!」

 僕はぎょっとし、姉の表情をうかがう。姉が突然上げた大声には、異常ともいえるほどの激情が含まれていたからだ。……怒っている。これまでに、見たことがないほど。目は吊り上がり、頬には過剰な赤みが差していた。般若のようだ。

 しかし、少女は全くひるまない。むしろ受け流すように悠然と、姉を見返している。

「何で、冴樹を〈こっち〉に連れてきたの」

「あぁら。説明、聞いてなかったの? じゃあ、今度はちゃんと聞いておいてね。冴樹くんのためにも」

「そんなことどうでもいい! 今すぐ、冴樹だけでも戻して」

「忘れたの?」

背筋がひやりとした。少女が口元だけで笑う。

「この空間の主はアヤ子だってこと……実咲ちゃんだけじゃなくて、そこにいる貴方の弟くんの運命まで、私は握っているのよ?」

「……」

 黙り込む姉。

「さっ! 分かったら、とっとと話を聞いてね」

 姉と顔を見合わせる。とりあえず話を聞くしか、僕たちに選択肢はなさそうだった。


「昔々のお話よ。日本人がまだ、着物を着ていたころ」

 むかしむかし、あるところに。小さいころ祖母から聞いた話と、同じ入り。なのに、背筋がぞくりとする。にじみ出る不穏を、察知したのだ。

「あるところに、愛し合っていた一組の男女がいたの。今の言葉でいうとカップルね」

「まあそれが、アヤ子と幸太郎さんなんだけど……いやん、恥ずかしー」

 紅潮した頬に手を当て、身をくねらせる。恍惚とした表情。

「『永遠に一緒だよ』って、言ってくれてた。うれしかったわ。とてもうれしかった。……でもね」

 目を伏せる。哀しい顔。それがどこかの次元で処理されて、偽物の、哀しい顔に。

「男のひとが病気になって……詳しくは、……えーと、えーと、何だったかしら? プライ……もういいわ。何とか侵害になるから話したくないけれど、とにかく、男のほうが死んじゃったのよ。何の病気だったか……病名なんて覚えてないわ」

「それでアヤ子、もう哀しくって哀しくって。それで、後を追って自殺したんだけどね」

 こともなげに言ってのける。ひょっとしたら、本当に何とも思っていないのかもしれない、と僕は思う。

「そしたらね。不思議なことが起こったのよ。神様がね、『そんなにお互い愛し合っていたのなら、一緒に過ごすといい』って、お思いになったのか、愛し合う者同士のみが住まえる空間――つまり、ここのことね――を、アヤ子たちに下すったの」

「というわけで、アヤ子とアヤ子の恋人は、この空間の主になったのね。もう私たち、大喜び。これでずっと一緒にいられるねって、二人ではしゃぎ回ったわ。……それでね、約束したの。『永遠に一緒にいよう。成仏するときは一緒だよ』って」

「だけど……永遠を共に生きるということがどういうことなのか、アヤ子たちは知らなかったの」

「二人になってから百年くらい経ったある日、何の前触れもなく、恋人が消えていたわ。神様に聞いたらね、……成仏したって。〈永遠〉にね、耐えられなくなったんだって。……アヤ子、とっても悲しくなった。……約束したのにって」

「だからね、アヤ子、探すことにしたの。どうやったら、愛する二人は、永遠に共にいられるのかを」

「今も実験してるけど、……はぁ。全然ダメなの。みんな、そうねぇ……一年もしたら、いなくなっちゃう」

「ね、お願いよ。貴方たちは、絶対に、いなくならないでね。……アヤ子に教えて? 永遠の愛の作法を。これだけ二人とも愛し合っているんだから、簡単でしょう?」

「見つけられなくてもいいの。ここにいてくれれば。……一人って、寂しいのよ?」


 言葉が出なかった。

 空間の主である少女――アヤ子の話は終わった。しかしそれでもまだ、僕はぽかんと口を開けたままでいた。

「永遠の愛の……作法?」

 それに、何だって? 何だか、僕と僕の姉が愛し合っている、みたいなことを言っていたけれど……でも、アヤ子の愛とは、種類が違うんじゃないだろうか。こっちは家族愛で、向こうは恋愛。……愛なら何でもいいということだろうか? それとも、その二つの区別がついていないだけ?

 僕と姉ちゃんのことをアヤ子がどう見たのかも気になるし、尋ねた方がいいのだろうか。

 ……しかし、こうして『死後の世界』(厳密にはそうではないことはさっき判明した。アヤ子本人が言ったわけではないので何とも言えないが、僕が考えるにここは、小説なんかに出てくるようなぼやっとした『死後の世界』ではなく、もっと特殊な世界なのだろう。しかしややこしいので、呼び方はそのままにしておく)に来てしまっている以上、アヤ子の言う通りここは彼女の掌の上。少しでもご機嫌を損ねようものなら、何をされるかも分からない。

 うかつに質問は出来ないな……と考えていると、向こうから声がかかった。

「あっそうだ。冴樹くん、実咲ちゃん、ちょっと聞いて。何でアヤ子が貴方たちをここに連れてきたのか、話してなかった」

 おっと、これはまさしく渡りに船と言うやつだ。待ってましたとばかりに、話に乗る。

「何で……ですか?」

 アヤ子はにっこりと笑って、こう続けた。

「貴方たちの愛に、ほかの姉弟にはない何かを感じたからよ」

「何か、って……何ですか? そんなざっくりな理由で……」

「どう言えば良いのかしらねぇ。うーん……分からないわ。ただ、何と言うか……アヤ子はこれまで、たくさんの愛の形を見てきたわ。だけど、貴方たちには、そのどれにも当てはまらないような魅力がある。……まぁただ単位にアヤ子が、『姉と弟』と言う組み合わせを今まで連れてきたことがなかったから新鮮に見えただけかも知れないけどね」

 アヤ子はくすくすと笑った。

「それでね。話は変わるけど」

 真剣な面差しで、アヤ子はこちらを見た。

「永遠の愛って、どうすれば成就するのかしら。ねぇ実咲ちゃん、どう思う?」

 一瞬だけ考えるように視線を宙にやり、姉は答えた。

「…………これは前々から思っていたことだけど、私は、まず生きた人間には不可能なことだと思ってる」

「へぇ。何で?」

 興味深いおもちゃを見つけた子供のように、アヤ子は目を細める。

「人はいつか死ぬ。しかも、いつ死ぬかなんて誰にも分からない。……好きになっても、夫婦になっても、契りを結んでも、一緒に死ねるとは限らない。……永遠っていうのは、『終わりが来ない』って意味でしょ? ……でも、人間に必ずやってくる『死』は、終わりなの。……つまり、生きている=必ずいつか死ぬ人間では、永遠の愛に到達することは不可能ということ」

「……そう」

 アヤ子は少し、残念そうな顔をした。

「……幸太郎さんが言っていたのは、絵空事に過ぎなかったのかも知れないわね」

 小さくつぶやいて、アヤ子がうつむく。長い黒髪が、さらりと肩から零れ落ちた。

と。突然、アヤ子がばっと顔を上げた。

「違うわ。そう……そういうことか。そういうことね……」

良かった、と囁くように。その直後、彼女の雰囲気が、がらりと変わった気がした。まるで愛する人の仇を見るような目つき。意地悪な表情で、攻撃的に反論を始める。

「でも今の論法だと、『死人には可能』ってことになるわね。何せ、死人はもう死ぬことなんてないんだから。死とはすなわち永遠。必然的に、永遠の愛も叶う。でしょう?」

「……っ」

 姉を見遣る。唇を噛み、黙り込んでいる。アヤ子はそれを一瞥し、嗜虐的に笑んだ。

「あら、これで終わり? 冴樹をとっとと返せなんて息巻いてた割には、ひねり甲斐がなかったわね。感情が先走って、焦っちゃってたの?」

「感情……? どういうことですか」

「あら、冴樹くん。分からなかった? あのね、実咲ちゃんは、『永遠の愛なんて不可能だ』って主張することで、アヤ子に研究をやめさせようとしてたのよ」

「……! ……姉ちゃん」

「だってそうなったら、自分も弟も、現世に帰れるかもしれないものねぇ?」

 アヤ子の口元がにやにやと歪む。

「そんなちんけな策がアヤ子に通じると思って?」

 姉の口からは、ぎりぎりと歯ぎしりの音。

 アヤ子の眼に、一瞬だけ苦い感情が灯った。仄暗い、光。

「……あの人の言葉が、絵空事だったなんて。そんなの私は絶対信じない。永遠は、絶対にあるに決まってる。……冴樹君はどう思う?」

 急に話を振られ、面食らった。 ……まずい。下手な答えを返したら、怒りの矛先はすぐにこちらへと向かうだろう。もしそうなったら、僕も姉ちゃんも、それこそ永遠にここから出られない。

どうしよう。必死に頭を回転させる。走馬灯の光のように脳裏を駆けたのは、数年前の姉との記憶だった。


 その日、幼い僕が点けたテレビには、『痴情のもつれで恋人を殺してしまった』と供述する男が映っていた。

「うわぁ、見ておねえちゃん。この前のサツジンジケンのハンニン、つかまったってー」

「もう……何見てるの、冴樹。母さんに怒られるよ?」

 テレビの中で、男の供述は続く。

『他の男に取られるくらいならと思って殺した。これで叶恵は、永遠に俺のものだ』

「イミわかんなーい。この人アタマおかしーね!」

 僕がケラケラと笑っていると、姉が何かを呟いた。

「……な」

「なあに?」

「少し分かるなって」

 慈しむように僕を眺め、姉は微笑んだ。

「……ねぇ、冴樹」

「うん」

「もし冴樹が死んじゃったらね。冴樹はこの世から完全に、いなくなると思う?」

「……そうじゃないの?」

 問い返すと、優しい声が戻ってくる。

「そうだよ。……冴樹は、死んじゃっても永遠に、お姉ちゃんの心の中で生き続けるの」

 

脳に電撃が走った。なぜならそう、分かったからだ。分かってしまったからだ。

この空間から脱出する、方法が。


「アヤ子さん。分かりました――永遠は、あります」

「おぉーっ。これはまた、カッコいいこと。で? で? どうしてそう思ったのか、根拠を聞かせて?」

 大げさにパチパチと拍手をして見せ、アヤ子はずずいと身を乗り出してきた。

「その前に、いくつか質問に答えてください」

「どんなことでも答えるわよ。アヤ子はここの主だから」

 アヤ子は機嫌よさそうに、ニマニマと笑う。

「この空間って……現世みたいに『死んだ』状態になったら、出られる――それと、生き返れる――んですか?」

「出られないわよ。あくまでも、『この空間内で』生き返るだけ。『パートナーを殺す』という条件を満たさないと、ここからは出ることは出来ないし、生き返ることも出来ない」

「ありがとうございます。次に、今言ったようにパートナーを殺した場合、パートナーはどうなるんですか? 成仏……とか?」

「ええ。存在ごと消滅するから、生き返った後に寿命で死んで、死後の世界で大ゲンカとかにはならないと思うわ」

 呆けたような顔の姉をちらっと見て、僕は最後の質問をした。

「もう一つ。……殺した方には、生き返った後、この空間での記憶は残るんですか?」

「残るわね」

「質問は終わりです」

「……まさか、貴方……なるほど。そういう〈永遠〉も、ありか」

「分かったんですか?」

「アヤ子は心が読めるから。それより、ナイフを用意しなきゃね……はいこれ」

「良く切れそうですね」

「一級品よ」

「ちょ……ちょっと!」

 混乱した表情で、姉が口をはさむ。

「さっきからあんたたち、何を訳分かんないこと……」

「決まってるだろ」

 アヤ子から受け取ったナイフを、姉の目の前にかざす。僕は冷え切った声音で告げた。

「今から僕が、姉ちゃんを殺すんだよ」


 姉の怯えきった顔。

胸の間から溢れた、温かい血の感触。

 僕の下で息絶えた姉の、ぬるくなっていく体温。

「ありがとう。こんな方法もあるのね……何だかアヤ子、分かった気がするわ」

 そんなアヤ子の言葉。

そして視界が真っ白になって――。


「……き! 冴樹! しっかりして!」

目を開けた。

見慣れた寝室の天井を、僕は見上げていた。

「あっ……ああ……良かった」

 母さんが鼻をすする音。

「あんた……あの交差点に行く途中の道で倒れてて……凍死してるかと思った……良かった、生きてて……冴樹まで喪ったら、私……」

「かあ……さん」

 しゃくり上げる母さんの姿に、口を閉ざす。かすかに漂う、真新しい線香の匂い。

 帰ってこられた、という何とも言えない感慨がこみ上げてくる。そして――達成感。

 これで――良かったのだ。

自分の行動が、鮮明に思い返される。


最初に『パートナーを殺さないと出られない』という条件を聞いたときは、自分を姉に殺させて生き返ってもらおうとした。しかしすぐに、それは良くないと判断した。

姉のような優しいひとが、弟を殺したという重圧に耐えられるはずがない。

「心の中で、永遠に生き続ける」

 姉にとってそれは、つまり僕の存在は、重荷にしかならない。

しかも、もしそれに耐えかねて姉が自殺してしまったとしたら。そうなれば、僕は犬死にだ。しかも僕という存在は、その時には消えてしまっている。

そんなの嫌だと思った。

自分の存在が愛する人の足かせになるなんて、誰が望むだろうか?

――だったらもう、逆にしよう。

姉の存在は、僕が一生背負って生きていく。

姉の存在を、僕は心の中で生かし続ける。愛することで。

そうして僕は、姉の胸の真ん中に、ナイフを突き立てた。

人を殺すことへの拒否感は、不思議となかった。何故ならこれは、僕の愛の証だから。

この安らかな気持ちに、きっと終わりはない。


「安心して、姉ちゃん」

 心の中で呟きながら、ポケットからスカーフを取り出す。唯一の、忘れ形見。 

 赤の温度を思い出しながら、胸にそっとアイを押し当てる。

 空虚なすすり泣きの声が、春風に吹き飛ばされ四散していく。

 若草色のあたたかな草原の中心に、いつしか僕は立っていた。

 かつてアヤ子のパートナーがしたように、僕もまた誓う。

「『永遠に』、愛してあげるから」

 自身の行動の記憶も。

 この誓いの記憶も。

 僕が全て、背負うから。

「安心してよ……

 慈しむように、彼女の存在の証を撫でる。

「バッドエンドになんて、僕がさせない」

 冬の終わる音が、確かに聞こえた。きっと、僕にだけ。

                           〈完〉 

 

 

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難い愛の誓い 愛猫 @mananeko0829

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