第4話 無関心なソシオパス ④

 目を開けると、そこには白を基調とした斑点模様の天井が広がっていた。


 状態を起こし、掛け布団を膝のあたりまで下ろして窓の外に目を向ける。薄黒色が滲み出す紅の空。そんなに時間が経っていたのかと驚き、次は時計に目をやると針は18時を回っていた。普段ならとっくに家で夕飯の準備に勤しんでいる時間だ。


 何が起こったのか。自らに起こったことを改めて思い返してみる。


 確か、華希を追いかけて教室を出た後に白鳥と遭遇して......。それから急に胸が苦しくなったのだ。この症状は最近、俺を苦しめている、吐き気と同じであった。そのあと横から何かが突撃してきて俺の頭に直撃した。


 状況の整理をしつつ、ここまで考えがまとまれば脳には異常はなさそうだと胸を撫で下ろす。


 問題は何がぶつかってきたかだ。感覚的にいえばかなり硬く、重量のある何かであると推測できる。頭に残る痛みからも自分の感覚がより明確な答えを導き出そうとしていることが裏付けられる。


 「起きた?」


 問題に対し働きかける俺の頭に聞き覚えのない声が問いかけてきた。


 声の元を目で辿ると、隣のベットに一人の男が座っている姿が目に入る。頭の中を駆け巡るのは既視感で、記憶の中のどこかにこの人物の顔があるような気がした。


 「最初に謝らしてくれ。ごめん、俺のせいでこんなことに」


 一人でかってに話を進めていく男。マジマジと顔を観察していて気がついたことがある。昼休みに男子三人に責め立てられていた奴だ。不憫な顔色が印象的で記憶の中に残っている。


 「待ってくれ、お前のせい? 何があったんだ」


 男の話を手で遮りながら、説明を求める。相手の言いたいことだけ聞いていても現状を理解できそうにない。


 「覚えてないのか? もしかして脳にダメージが......」

 「それは大丈夫だ。昼のことは覚えてる。ここに運ばれることになった理由が知りたい」


 的確に目的を完遂させるためのコミュニケーションは怠らない。


 相当、自分に自信がないのか男はあたふたと俺の顔色を窺いながら自身の行動に制限をかけている様子が見てとれる。日頃から謙虚に、そして慎ましくを意識して生活している証拠のようなものだろう。


 「えっと、実は昼休みに友達と少し言い争いになっていて、それで俺が友達から押し飛ばされたところに、お前が運悪く踏み出してきて俺の頭と衝突したってわけだ」


 俺の頭にぶつかった物の正体は目の前の、この男の頭だったわけだ。


 あの時といえば俺も相当な崖っぷちに立たされていた。小竹からの逃亡に白鳥との遭遇、突然発症した持病の吐き気。色々が重なって自分も不注意になっていたことを自覚している。決してこの男が悪いわけではないだろう。


 「俺も気を失っていたみたいなんだがお前よりも先に起きてな。保健室の先生に後のことを託されたんだ」


 そういって男は懐から保健室の鍵と思われるものを取り出して俺に見せる。


 男の言いようが正しいなら、先に起きた癖に俺を無理矢理に起こすことなく静かに寝かして、律儀にも待っていたという事になる。相当なお人好しだな。


 「起きて直ぐに悪いんだが、もう時間も時間だし帰ろうぜ」

 「そうだな」


 鞄がない。部屋の中を見渡して自分の荷物が用意されていないのを理解する。

 誰が俺の荷物を態々、運んでくれるんだ、と自虐混じりの結論を立ててベットから腰を持ち上げた。


 「お前何組? 荷物取りに行くよな」

 「1組だ」

 「そうか、隣だな」


 保健室を出て、男が鍵を閉めるのを確認すると、教室に向かうべく廊下に立った。


 少し歩いて、どうしようもなく気まずい雰囲気に男は終止符を打つべく口を開く。


 「そういえば、名前。なんていうんだ?」


 ぎこちない話し方が目につくが、何とか空気を変えようと努力していることが見て分かる。


 「すめらぎだ。皇帝のこうで、すめらぎ

 「珍しい名前だ。俺は越智孝文おち たかふみ、よろしく」

 「おう」


 よろしく、と言われても今日この時間を過ぎると、よろしくする気は微塵もないのだが、とそんなことを思いつつ質素な返事を残しておいた。


 再び訪れた沈黙は、多少なりとも温まり始めた場の空気をなかったものへと返す。隣を歩く越智の様子は、頭や顔を掻いたりと、落ち着きがなく、この空気を不快に感じているに違いない。


 俺としては、このまま悪印象を押しつけて、これを機に縁を切ってしまいたい、というのが本心である。


 「趣味......聞いていいか?」

 「は?」


 あまりにも唐突に投げかけられた質問に思わず疑問と驚きの圧力をかけるような反応を漏らしてしまった。


 「いや、悪い。忘れてくれ、何でもないんだ、何でも」


 そう口にして、落ち込むように下を向いてしまう。


 さては相当な口下手と見た。普段あまり他人に対して興味や共感、同情を抱かない俺だが、思わず顔が引き攣りそうになる程度には呆れている。人と話すのが苦手なくせに、会話を交わさないことに不快感を抱いている。とんだワガママコミュ症だ。


 「趣味って言われても思いつくようなものはないな」


 応えると越智は嬉しそうに顔を上げた。


 「ゲームとかもしないの?」

 「生まれてきて今まで、やったことないな」

 「じゃあ、ネット見たり動画見たり?」

 「ニュースは見てるぞ」


 まるでUMAと遭遇したかのような物珍しいものを見る目で越智は俺の目を捉えて離さない。


 「なんだよ」

 「いや、変わってるな〜、と思って」


 楽しそうに話しながら越智は笑顔を見せた。


 「じゃあさ、休日とかって何してんの?」

 「基本は寝ている。後は家のことをしたり買い物に行ったりだな」

 「買い物っ、つったら、スーパーなんだろ。食料品買いに」

 「そうだ」

 「主婦かよ」 


 後はたまに本を読むこともあるが、会話の歯車に自ら油を刺しても仕方がない。自分から話を広げるようなことは言わなくてもいい。


 「人のこといえる立場じゃないが、つまらなそうな人生だな」

 「余計なお世話だ」


 これでも理想の生活を送っているのだ。棘どころか草木も生えない、起伏もない平坦な道で平凡に歩いているだけでいい。それだけ出来れば充分な幸せだ。


 「今度、面白いゲーム教えてやるよ」

 「大丈夫だ。間に合っている」

 「全く、間に合ってないだろっ!」


 2-1、俺が所属している教室。そんなことを話していると扉の前まで辿り着いていた。


 越智が教室の戸に手をかけると、鍵がかかっていることもなく、すんなりと扉は横にスライドして俺たちを迎え入れる。自分の机を確認すると、教室の鍵と思われるものが置かれていた。閉めておけ、ということなのだろう。


 俺が教室の中に足を踏み入れると、何故か越智まで後を追い教室に入った。


 「お前の教室は隣だろ」

 「待ってるよ。一緒に帰ろうぜ」


 思わず溜息を零しそうになり息が詰まるが、喉の奥で飲み込んだ。手短に荷物をまとめ、鞄を持ち帰宅の準備は整う。帰路に着こうかと後ろを振り返ってみると、楽しそうな笑顔を見せる越智と目があった。


 「よし、んじゃ次だな」


 そういうと、越智は隣の教室へと向かい歩いていく。当然のように着いてこい、という意味なのだろう。


 このまま帰ってやろうか、少しそう考えながら足を止めていると、隣の教室から何かが衝突したような、腹に響く低めの衝撃音が聞こえてきた。


 明らかに今、越智がいる教室の方からした音だ。机を倒した程度の可愛い事故ならいいのだが、この音に俺は聞き覚えがある。鋭さのない鈍く低音な衝撃音。これは人を殴った時の音だ。


 面倒ごとの匂いがしてやまない。

 

 さて、どうしたものか。自ら面倒ごとに首を突っ込むなど愚の骨頂だ。見て見ぬフリをしてさっさと帰路につくのが吉だろう。かといって、ついさっきまで言葉を交わしていた相手なだけに、これに目を閉じて退路につくのは締まりが悪い。


 二つの選択肢を前に張り巡らされる思考。そこにある違和感を感じてしまう。


 なぜ、俺は締まりが悪いなどという感情を抱いてしまったのか。胸の辺りに漂う不思議な感覚に戸惑いながら、考える。


 そして、一つの断定的な答えを出した。締まりが悪いというのは偽りのはずだ。後日の対応処理を考慮した思考である。後々、なぜ置いて帰ったのか、と詰められても面倒だ。解決できそうなうちに処理しておこう。そう考えると、渋々ここは隣の教室に向かうのが正解だろう。


 「何の音だ? 結構なボリュームだったが」


 状況確認のため、自分の教室を後にして隣の教室へと足を運み入れた俺は、三人の見知らぬ男子生徒に睨まれる。


 「あ? なんだテメェ」


 ドスの効いた声に、心を突き刺すような威圧的な目。明らかに柄の悪い雰囲気が体から漂う三人である。


 教室の中に入ったが最後。頭のネジが外れた不良の料理法など心得てはいない。

 

 教室を見回して、壁に勢いよく押さえつけられて倒れ崩れたであろう越智の姿を確認する。そして、目の前の三人に向き直した。


 よく見ると三人共、昼休みに俺と越智を保健室送りにした張本人達。

 俺の隣で壁沿いに座りながらうずくまる越智が伺える。


 「なんだよ、急に黙りこくって」

 「新しいオモチャになりに来たのか?」


 芋づる方式に厄災が降りかかる一日だ。一年間、影までもを潜ませて平穏に過ごしてきたはずが、どうしてこうなった。


 だが、と呼ぶには条件が足りない。まだ、反撃の兆しはある。被害者に徹していればコイツらは勝手に退学してくれる。

 華希に頼めば生徒の声を集めることは容易いし、そうなれば俺のような生徒の声も教師は無視できないだろう。悪目立ちはしたくないが、華希ならその辺はうまく立ち回ってくれるだろう。


 「何とか言えってんだよッ!」


 男は恫喝と共に突進する勢いで俺の胸柄を掴み上げた。喉元が多少、締め付けられて息をすることが苦しくなる。このまま、次は顔面か腹部かに一撃入れてくるのだろう。


 「なんだ、その腹立つ目は。気取ってんじゃねぇッ!」


 さらに恫喝。耳に大きな衝撃が走った。


 「この野郎!」


 やっときたか、と振りかざした男の腕を目で捉えた時、空気の変化を肌で感じ取る。


 何かが違う。なんだこれは。男の腕が、まるでスローモーションで飛んでくるように見える程、思考が加速している。疑問が直感のように湧き出し、脳は危険信号を発令させる。


 何の正体かは分からないが、今の状況が不味いことは考えなくても分かる。


 俺の胸ぐらを掴む男の右手を両手で上下から挟むように、下の手は袖を掴み、上の手は平で腕を捉えた。上下同時に、下は引き落とし上は押し退け体制は若干、斜め上姿勢の後退。一瞬の動きで、全身を解放された俺は直ぐに状況の確認に移った。


 「なんだコイツ!」


 勢いに驚いて一歩踏み違えるように退いた男。


 その動きの秒未満、黒い刃のような物が横から教室一帯を切りつけるように現れる。三人の男の体を擦り抜けて俺の下にたどり着くところで、身を低くし、左腕で捌くように上へ軌道を逸らして見せた。刹那、と弾き合い、目の前で金属が擦れ合うような猛々しい音と共に火花が飛び散った。黒の刃は明後日の方向で霧散する。


 「は?」

 「アハハハハ! なんだコイツいきなり。ポーズ決めちゃって。急にカッコつけてんじゃねーよ」


 後ろで傍観していた二人が大層満足そうに大笑いしている。まるで、畜生を痛ぶり楽しむサディストのように。


 俺が一番嫌う目立つという行為。コイツらの対応一つで明日から俺の立場は、厨ニ病のイタイ奴、となる。最悪だ。


 だが、それ以上に———


 「誰だ」


 俺の問いかけに、教室にいる誰もが顔を歪ませる。


 「何だ?」

 「俺を攻撃したのは誰だって言ってんだよッ!」


 この場に潜んでいるのか、それともどこかで高みの見物でもしているのか、特定の人物、いわゆる俺にだけ届く刃を振るった主。その人物に、久しく声を張り上げる。


 体が熱くなるのが分かる。絶対に許さない。そんな感情が心の中を支配していく。なぜなら、を何者かが踏み抜いたからだ。


 殺意を持って俺を攻撃した。それは俺に届く力で意図的に平穏を崩しに来たのと同じこと。何者かは知らないが、そのようなことは絶対に許さない。

 

 目には目を歯には歯をもって、目の前の三人に明確な殺意を行使した。しかし、反応は見られない。もちろん、体に外傷もなかった。


 「お前か?」 


 そして、次の確認に隣でうずくまる越智孝文にも同じ力を行使する。だが違う、反応が見られない。


 この時点で、俺を攻撃した人物がこの場にいない完全な第三者だということが確定した。


 直ぐさま男達に背を向ける形で背後にあった扉から廊下へと飛び出て、刃が飛んできた隣の教室へと目を向ける。そこには誰もいなく、次の行動に移した。


 自分の荷物を、教室の連中の目に届かないところ、廊下の窓の外に投げ捨て身を軽くすると、誰もいない廊下を駆け抜ける。


 教室から聞こえてくる、俺のことを気の狂ったイタイ奴だ、と罵るデカい笑い声がどんどん遠くなっていく。


 誰だか知らないが俺に攻撃を仕掛けた何者か。突然に俺の平穏を崩した犯人を絶対に許さない。


 階段を登り四階へと向かう。


 この学校は一階から三階が生徒が使う教室で、四階は移動教科用の教室になっている。この際、人目を気にしている場合ではないが、時間帯からしても19時前にして、この階層が一番人気がないに違いない。


 ここで、攻撃を仕掛けてきた対象を捕らえなくてはならない。だが、それを行うにしては障壁となる大きな問題がある。それは、攻撃を仕掛けた対象に思い当たる人物がいないことだ。この一件は唐突に仕掛けらたものなのだ。


 あの状況、あの場で俺だけに通用する攻撃を仕掛けてきたことから、目的は俺であることに違いない。


 人気のないところに来たはいいが、このまま次の攻撃が来なければ事態は進展しないままだ。最悪、日を跨ぎ長く危険に晒されることになる。


 周りを警戒しながら現状の整理をしていると、何の前触れもなく廊下の床から黒い刃が突起してきた。


 「なッ!」


 半テンポ対応が遅れた俺は左足を負傷する。左足の甲から頭に向けて貫き進む刃。その刃が頭部を貫くまでに残された時間は少なかった。


 全力で体勢を後ろに持っていき、残された右足で地面を蹴る。後ろに飛び、両手で床に着手してから体勢を戻し、左膝を立てて右膝で地に着く。貫かれた左足がその勢いで股のように裂け、目の前に赤く、生臭い液体が吹き出した。


 急場を凌いで落ち着いた意識は左足に集中され、ジワジワと鋭い痛みが膝に伝い、胴に、そして脳へと向かい這い上がってくる。生暖かい血の温もりは、滴る肌を通して気持ち悪さを伝えていた。


 自然と顎に力が宿り、歯を食い縛らせる。


 それも束の間、次は上から三本、同時に逃げ場をなくす扇状で突起する。


 下に意識を集中させていた俺の体は反応が遅れ、目の前の危険を自ら回避する方法をなくしていた。

 体を黒い刃が串刺しにする一歩手前、俺の目はその攻撃を捉える。

 

 体の内から沸き立つエネルギーは熱となって周囲に陽炎のようなオーラを漂わせた。そして今、その力は外へと解放される。


 「【百合姫】ッ!」


 俺の体の裏側から勢いよく表に現れた、清楚な彼女は目の前に広がる三本の刃を右手に持った長身の薙刀で薙ぎ払う。


 銀色の清い装束の上から白い鎧を纏う女武将。通常の人間よりも倍のサイズで宙に舞い、人のようで人ではない者。長い髪を後ろで一つに括り、白い肌の奥の瞳の無い目が、こちらを見つめている。


 「お久しぶりで、ございます」

 「よう、元気そうだな」


 疲弊した状態の俺が言うとへの言葉としては皮肉のように聞こえるな、と口にして初めて気がつく。


 「現状は理解しています。主様を傷つけるものは許しません」


 言葉から強い意志を感じられた。


 心移す体しんいたい、という俗称で呼ばれる百合姫は俺の体の一部である。その名の通り、心を移した体であり、体の一部というには自我を持つ分かなり奇妙な存在である。


 心移す体しんいたいは同類の存在と、それに準ずる生物にしか干渉することができない。なので百合姫が触れることができない人物は今回の敵とは無関係だと判断ができる。なぜなら、その敵も俺と同じ能力を扱うことができるからだ。


 百合姫を表に出すと、自分の体にことが出来なくなり、俺自身の防御力は著しく低下する。故に百合姫を顕現させるのには一定のリスクがある。その代わり、百合姫は人間では到達できない機動力と強度、攻撃力を自由に発揮できる。


 気合いを入れた百合姫が手に持つ薙刀を大きく旋回させ、構えの状態へと落ち着いた。


 その間に俺は今できる最低限の治療を左足に施そうと行動に移していた。しかし、それもままならぬ間に俺の真隣にあった教室の扉がガタガタと音を立てる。


 教室の扉は、その身を横に追いやり教室の中を露わにした。その奥には見覚えのある女子生徒が一人、扉に手をかけて立つ姿があった。


 目が合った数秒、沈黙の空白が場を支配していたが、事態の危険性に直ちに気付かされる。


 俺の不安を感じ取ったように同じ可能性を危惧した百合姫が人ならざるスピードで、その人物に薙刀を突き付けた。しかし、その不安は百合姫の一撃と共に、不発に終わる。


 薙刀はの体を擦り抜けて、実体を捉えることは叶わなかった。つまり、美幸はたまたまこの場面に居合わせただけで、俺の危惧した敵の正体とは別人ということになる。


 一歩遅れて、美幸は目の前の惨状に反応を見せた。


 「......へ?」


 一息空けて顔が青く染まった美幸が咄嗟に大きく口を開け息を吸う。そんな美幸の側へと右足で跳ねることにより詰め寄り、その勢いで開かれた口を右手で塞ぎ、二人縺れて教室の中へと倒れ込んだ。

 

 生物として本能的な話なので仕方がないのだが、こんなところで叫ばれると人が集まる可能性がある。そんな事は絶対に避けなくてはならない。


 「悪い少し静かにしていてくれ」


 俺が飛びかかった影響で頭を打ったのか、頭を押さえながら美幸は起き上がる。


 「皇くん? それ......」


 震えた美幸の右手が俺の負傷した足を指さして問う。全身の力が抜け切ったかのように肩を落とし体の全てを恐怖に支配された様に震えている。普通の日常を生きていて、こんなに生々しく生き血を流す姿を見ることは、そうそうない。怯えるのも仕方がない。


 「詳しいことは話せない。見なかったことにして早く帰れ」


 不安に困惑、あらゆる負の感情が載せられた表情で美幸は俺を見つめていた。帰れ、と言っても見たところ完全に腰が抜けて、立てる状態には見えない。なんとかして落ち着かせなければ、次の攻撃に対応が出来なくなる。


 俺は震える美幸の手を両手で強く握りしめた。


 「大丈夫だ」


 単純な言葉だが手への強い圧力と重なって気休め程度にはなるだろう。すると、だんだん美幸の手の震えは小さくなっていく。


 「で、でも」


 それでも、と渋る美幸に対しどうしたものかと頭を悩ませていると、唐突に美幸の手の震えがピタリと止まった。


 「......でも、その足の怪我じゃ、私からは逃げられないよ」

 「なにッ!」


 突如、握っていた美幸の手から無数の黒い棘が解き放たれ、俺の両手にいくつもの穴を開けて貫いた。両手を相手から離脱させ、後ろに転がり、腰を軸に右足で美幸を蹴り飛ばす。すぐに百合姫を側に寄せ警戒体制へと移行した。


 「ダメじゃないか女の子を蹴り飛ばすなんて、ナイトのすることじゃないんじゃないかな?」


 間合いを探りながら美幸はそう口にした。

 まるで雰囲気が違う。今の美幸にはさっきまでの恐れが微塵も感じられない。それどころか今、美幸から感じ取れるのは俺への敵意その一点に尽きる。


 「誰だお前は」


 目の前の美幸の姿をした敵が本当の美幸には感じられなかった。事実、百合姫の実体が捉えられなかったはずなのだから、今の状況と矛盾が生じる。


 「酷いな君は、さっきまで熱く手を握ってくれていたのに誰だ、だなんて」


 現状の優勢さ故に余裕の態度を見せる敵。軽口を叩いて時間を稼がれれば、それだけ俺は体から血を失う。もはや、敵の正体など関係ないのかもしれない。今は誰であろうと目の前の相手を鎮圧せねば、俺に明日はやってこない。


 「百合姫ッ!」


 勢いよく蹴り出した百合姫は長い薙刀の間合いを生かして先制攻撃を仕掛けた。


 「女の子に戦わせて自分は傍観かい? なんとも情けない話じゃないか」


 そういうと、手の平から長物の黒い刃を取り出して、百合姫の攻撃に対応してみせた。薙刀と刃がぶつかり合い、百合姫の力が上回り美幸は飛び跳ねて後退する。


 「やっぱりこの体じゃ力が足りないか」


 間髪入れずに間合いを詰める百合姫、もう一度薙刀を振りかざし、右上からのフェイントを挟んで横直線の一刀を振るった。相手の動き、思考どれもを上回り最高の一撃が放たれる。


 美幸の体はそれに反応して力が抜けるようにフラついた。その瞬間、百合姫の薙刀は美幸の体を擦り抜ける。


 空振った百合姫の隙を突くように、崩れる体を持ち直し、下から大きく溜められた蹴りが百合姫の土手っ腹に直撃した。


 「私に心移す体しんいたいの攻撃は通用しないよ」


 美幸はニヤリと笑みを浮かべて、こっちを睨みつける。


 ここで一つ有力な推測が立った。美幸はなんらかの能力で憑依されている。もしくは操られている。その可能性が大いに考えられる。百合姫の攻撃が通用しないのがその裏付けだ。


 心移す体しんいたいと呼ばれる、もう一つの体は、同じ能力を持つ者にしか認識できない。それは言い返せば、同じ能力を持つ者以外には心移す体しんいたいで干渉することは不可能であるということだ。


 敵は憑依と離脱を使い分け、能力者の美幸と非能力者の美幸の二面性を器用に使い分けている。

 ならば、根本的な解決を必要とする場合、美幸になんらかの能力を仕掛けた張本人を引きずり出さなくてはならない。


 相手に時間を与えることとなるが、この局面で情報量の少なさから対話が必要不可欠になってしまった。軽口を叩く相手の思う壺だ。


 「いきなり現れてこんな真似、あんまりじゃねぇか。どうして俺の命を狙ってる? お前は誰だ?」

 「勘違いするなよ。僕はお前の命などどうでもいいんだ。僕は組織から命令されただけ。君を捕獲するようにね」


 美幸は楽しそうに言葉を連ねる。


 「方法までは決められていない。だから君と遊んでみたかったんだ。なんせ君と手合わせできる機会なんてそうそうないからね。組織が血眼になって欲するキミとね」


 俺を捕獲する? 組織とはなんだ。更なる疑問が積み重なる。分からないことが多すぎる。

 どうにも俺の知らないところで面倒ごとの中心に置かれてしまっているらしい。そんな暗躍を目の前にして放って置けるわけがない。


 「でも残念だよ。君は弱くなりすぎた」

 「期待に応えられなくて悪かったな。だが俺としても、お前の思い通りになるつもりはない」

 

 軽口故に情報を引き出せるかと思ったが、収穫は更なる厄災の予告のみ、肝心な現状打破の鍵は中々掴めそうにはない。このまま、悠長に話をしていても不利になるのは俺ばかりだ。とならば、更なる思考のシフトチェンジが必要である。

 

 百合姫を進軍させ、相手を限界まで追い詰める。連続で繰り出される薙刀を美幸は刃で捌き続けていた。


 「ハハハハ、無駄無駄。苦し紛れの突進攻撃なんてさ


 百合姫に攻め続けさせ、俺は体を捩り近くにある机まで移動する。左足の出血、両手の出血。今この時だけその負傷を忘れなくてはならない。


 痛みに耐える、ということは決して不可能なことではない。先のことを考えなければ、意外となんとかなるものだ。


 唯一健康な右足で立ち、負傷した右手で教室に備え付けられた椅子を持ち上げる。それを勢いよく美幸へと投げつけた。


 「今だッ! 百合姫」


 わざと大きな声を出して相手の視線を引きつけながら、体制を崩し転落する。


 椅子は美幸に後退の一手でかわされ防がれるが、その間を百合姫は見逃さなかった。糸で縫い合わせるように隙をついた一撃は、正真正銘の会心の一撃だった。


 「だから効かないって言ってるだろ」


 余裕そうに美幸から離脱して敵はことなきを得る。


 「何度も言われなくても分かってるよ」

 「グァッ⁉︎ 」

 「何で背後に!? って言いたそうな顔だな。教えてやるよ。人間その気になれば左足を裂かれようが、走れるし、両手を貫かれようが、お前を締め落とすことが出来る」


 美幸の背後に回り、羽交絞めでガッしりと首を固定する。この形になると俺が力を緩めない限り相手は逃げることは不可能だ。 


 「誰が捕獲されてやるもんか。どうせなら一緒に心中しようぜ」


 美幸が暴れもがき抵抗する。だが、俺はコイツが絞め落とされて行動不能になるまでは絶対に力を緩めない。


 抵抗の末、美幸は刃を繰り出した。


 酸素の欠乏は敵に冷静さを失わさせ、稚拙な攻撃は俺の体を斬りつけ始めた。肩や腕など至る所を斬りつけられる。


 「無駄だ。諦めな、俺は絶対に離さないぞ」


 やがて、暴れる力は弱くなり、能力の刃も姿が消える。美幸の体から力はなくなり、白目を剥いて気絶したことを確認して、その体を解放した。


 美幸には悪いことをした。巻き込まれたことを大変不運に思う。一度腹に蹴りを入れたものの、大した外傷は見当たらないので、取り敢えず後で蘇生を行えば体には大した支障は残らないだろう。


 最低限、空となった美幸の体を丁重に教室の隅へと寝かしつけた。美幸を気絶させても能力のせいで行動が可能な場合も想定していたが、その案は廃棄の方向で済みそうだ。


 第二ラウンドに備えなくては、そう思い、俺は倒れ伏せた。

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る