第1話 無関心なソシオパス ①

 私の主人は大変な宿命を背負って生きています。幼少期に父親から受けた、修行という名の虐待のせいで『反社会性パーソナリティ障害』、いわゆるソシオパスになってしまいました。他者への共感能力が著しく欠如し、思考は冷淡で目的の為には手段は問わない。そんな、人になってしまったのです。


 そんな彼が選んだ生きる手段は、他者との関りを断つこと。人畜無害の極致に至ったかの如く、友人を作らず、会話は最低限の事務的な事しか行わない、必要が無ければ一日口を開かない日もありました。


 それだけが彼をこの世に止めておくことができる手段だったのです。


 ですが、そんな生活を始めて数年間、私はずっと側で彼を見続けてきましたが、彼はまるで生きたまま死んでいるようでした。もう何年も彼が笑った姿を見ていない。私はそれが心配で心配で、どうしたらいいのか、と路頭に迷いそうになっていたのです。


 そんな時、彼の人生に一筋の光が差し込みました。それは今日から一週間前の出来事です。彼の人生は一人の少女との出会いで再び息を吹き返しました。


 そのせいで、人間関係の苦しさを彼は思い知ることことになるでしょう。ですが、それを乗り越えた先に本当の人生が待っているはずです。そうすれば主人は二度と悪夢にうなされることもなくなるはずなのです。



 体が熱い。体の中から熱が広がっていく感覚に、とてつもなく気分が悪くなる。雀の囀りが頭の中をかき回すように刺激を与えてくる。眠気も適わない暑苦しさに、掛け布団を蹴飛ばして思わず飛び起きた。


 六畳もない狭い和装の部屋中で敷布団から起き上がる。


 春の落ち着いた気温が嘘のように、シャツが汗で濡れている。布団の中で悪い夢でも見ていたのか、やけに目覚めが悪い。


 このまま着替えて「次は安眠できますように」、と祈りながら二度寝してやろうか。欲望のまま、布団に溶け込みたいところだが、まだ高校生活二年目に突入して一ヶ月も経っていない。


 このタイミングで遅刻や欠席を重ねると変に目立つ可能性が生まれる。それは、目立つことを嫌う俺としては避けねばならない事態である。


 普段は朝から風呂に入る習慣などなのだが、流石にこのまま外出するのは気持ちが悪い。まぶたに残った眠気を擦りながら俺は脱衣所に向った。


 体に残る倦怠感に抗いながら、硬くなった体を動かしてズボンと下着も脱ぎ捨てる。そして浴場の中へと足を進めた。


 古くて、よく言えば趣がある浴場の中。自分で決めたこととはいえ、朝から風呂に入ってまで学校に出向くというのは、何とも気怠い行為だと思う。


 凪のような、波風の立たない生活こそ俺が望む全てなのだ。なのに、守られてきた俺の平和は崩れ始めていた。


 現状の不満が頭の中で募っていくなか、シャワーの蛇口に手を掛ける。


 壁にかけられたシャワーの頭から暖かな湯が間欠泉のように噴き出した。それを頭頂から浴びながら、目の前の鏡に映る自分の姿に、つい目を奪われる。


 自分の体、というよりはその一部と言った方がいいだろう。今まで考えていたことが全て流し落とされてしまったかのような虚無感が頭の中を支配する。決して今に始まったことでは無いのだが、こうやって肌を晒すと、どうしても目に入る。


 全身に伝う、お湯を感じつつも一番、敏感に刺激を感じるのは腹に抱える大きな傷跡である。子供の頃についた傷なので痛みなど感じる筈もないのだが、その存在が消えるわけではない。


 汗を流して、シャワーを浴びることに少しばかりの疲れを感じ始めたところで、浴場を後にする。

 バスマットの上で体についた水気をバスタオルでふき取った。


 髪の毛に残った水気をタオルで拭いながら、台所へと移動する。それから、冷蔵庫の戸を開けて、水の入ったケトルに手を伸ばした。火照った体に、よく冷えた水の感覚が伝う。それを、コップに注ぐと、150ml程度の水を飲み干した。


 喉に伝う、水の冷感が身体を内から全身に広がる。


 再度、冷蔵庫の中に目を向けて、何か口にしようと考えたが食欲が微塵も湧いてこない。無理に食事を取ることもないだろう、そう思い、台所を後にした。


 自室の壁にかけられた時計を確認して制服の袖に腕を通し、何の変哲もない、いつも通りな壁の模様に安心感を抱きつつ、淡々と着替えを済ましていく。


 ネクタイの捻じれを調整し、襟元に手をかけ自分の身形を確認すると、鞄を手に持ち玄関へと向かう。


 そして、立て付けの悪い横引の扉を越えて、家の外へと踏み出した。


 「いってきます」


 当然ながら、俺しか住んでいないこの家からは返ってくる言葉は一つもなかった。

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