第21話 星の下で
僕はあれからネットで星が見えるところを探した。自転車で行ける距離でその日の内に帰って来られるところを。広い空が見たいというなら、高台の方がいいだろう。Googleマップを活用しながら見晴らしのいい場所を探した。ちょうどいいところを見つけた。自転車で三十分かからないところにある坂の上の病院。その裏にある山がちょうど良さそうだ。ここならきっと灯りも少ないから星がよく見えるはずだ。彼女の喜ぶ顔を想像した。二人で一緒に見る星空を思い浮かべて布団に入る。
次の日の夜、彼女に明日のことを伝えた。母は夕方から居なくなる。僕は部活が午後からあるから帰ってくるのは8時過ぎだろう。そこから準備をして9時くらいにはここを出よう。そう伝えた。わかったと意外にもあっさりと答えられた。もっと喜ぶと思っていたのに。まあいい。明日のこの時間にはきっと心から笑っているだろう。そう思いながら、彼女と別れた。
次の日、僕は部活が終わると急いで家に帰った。もしかしたらと父がいることを心配したが、案の定いなかった。僕はすぐにシャワーを浴びて、着替えた。そして彼女の元に向かった。昨日と全く同じ洋服を着た彼女。この姿のままだと流石に目立つだろう。僕はお風呂を勧めた。最初こそ遠慮していたものの、誰もいないからと背中を押して家の中に押し入れた。濡れた雑巾で彼女の足を拭いてから家に上がる。少し不安げに家を彷徨く。そうだ、彼女はもうずっとこの家の中に入っていなかったのだ。
「じゃあ、お風呂借りるね」
遠慮気味にそう言われた。そう言ったわいいものの、彼女はここを動かない。お風呂の場所を覚えているわけがない。僕は場所案内した。
シャワーの音が聞こえてリビングに戻る。彼女の着替えを用意しないと。部屋に行って僕の服を取り出す。なるべく綺麗でサイズが丁度いいものを。動きやすそうなパーカーとパンツを用意した。洗面所に服を畳んで置いておく。
「ここにある洋服を着てね」そう言ってまたリビングに戻る。
そういえばお腹が空いた。母が作っておいてくれたカレーの鍋を火にかける。彼女もお腹は空いているだろう。カレー皿を二枚用意した。カレーがぐつぐつと温まる頃、彼女が出てきた。火を一旦止める。僕が置いておいた服を身につけて。薄い黄色のパーカーは少し大きそうだった。それでも彼女に似合っていた。タオルを肩に掛けて、身体から湯気が出ている。両手にはさっきまで着ていた服が畳まれていた。
「洋服ありがとう。これはどうしたらいい?」僕は自分の部屋からその辺に置いてあった黒い紙袋を持ってきた。
「とりあえずここに入れて、僕の部屋に置いておこう」そう言って彼女に渡す。彼女が手を伸ばした時、僕の手に水滴が落ちた。
「そうだ。髪を乾かしてあげるよ」
洗面所の引き出しからドライヤーを取り出す。立ち止まる彼女の腕を引き、ソファの前に座らせる。そのまま電源を入れて髪を乾かす。花のような甘い香りが鼻をかすめる。いつも見ているのとは違うサラサラとした髪の毛。僕よりも細くて、ふわふわしていた。
「ありがとう」そう小さく呟かれた。そのまま乾かし続ける。
「ねえ、また髪を切ってくれない?」ドライヤーを止めると急に後ろを振り返って言われた。
「え、そのままでも大丈夫じゃない?」
「いいじゃない。どうせなら綺麗な格好で行きたいのよ」
「別にいいけど」断る理由もなかった。仕方なくハサミを持って風呂場に向かう。
「この辺をこうしてほしい」
肩の上で手を動かす。後ろは割いてとか言われたが、そんなことできるわけない。いつもならそう冷たく答えていた。それなのに今日は出来るだけ彼女の要望に応えようとした。彼女に言われるがままにハサミを入れた。切り終えてブラシでとかす。髪型が気に入ったのか、鏡の前でくるくると身体を回転させていた。
「いい感じ。ねぇ、そろそろお腹が空かない?」
髪の次はご飯か。言われてみればお腹は空いているが。何ならずっと空いていた。
「そうだね。カレーがあるから食べよう」二人でキッチンに向かう。鍋に火をかける僕の後ろをぴったりくっ付いて来た。座っていていいと言っても聞かなかった。今日の彼女
は少しわがままな気がする。テンションも少しおかしい。星を見に行くのが楽しみなのだ
ろうか。
ご飯の上に熱々のカレーをかける。スプーンを持って席についた。二人で向かい合う。
「「いただきます」」空っぽだった胃をカレーが埋めてくれる。
あっという間に食べ終えた。僕が食器を流しに持って行くと、彼女も真似をした。スポンジで洗い、流すとそれを受け取ってくれた。置いてあった布巾で拭いてくれるのでそれを戸棚にしまった。もし僕達が普通の兄妹だったら、こんな風に過ごしていたのだろうか。これからこうやって一緒に暮らすことはできないだろうか。
片付けを終えて彼女は椅子に座っていた。僕は彼女に一言断って自分の部屋に行った。彼女の洋服が入った紙袋を持って二階に上がる。机の横に下げてある紺色のナイロンカバンを取り出した。ケータイやハンドタオルを詰め込む。それを肩から斜めに下げた。紙袋が目に入る。このまま机の上に置いておくのも危険だ。クローゼットを開けて下の角の方に置いておく。ここなら気付くことはないだろう。ベッドの布団を持ち上げる。枕やタオルケットを丸めて、上から布団を掛けた。念には念をおく。そのまま部屋を出ようと振り返った時、後ろの方から視線を感じる。いつからか壁に貼ってある星空の写真が光輝く。写真よりも大きく、ポスターと呼ぶには少し小さいそれがまるで自分を連れてけとでも言うように。画鋲を外して机の引き出しにしまった。そしてその写真を折ってカバンにしまう。時計を見ればもう9時を大分過ぎていた。急いで階段を下りる。
下に行くと彼女はソファに座って窓の外を眺めていた。僕に気付くと立ち上がった。
「もう行く?」
「うん。思っていたよりも遅くなっちゃったね。準備が出来たならそろそろ行こうか」
「うん、じゃあ早く行こう」彼女はそのまま窓を開けようとした。
「あ、こっちから行こう。自転車はこっちから行った方が取りやすいんだ」
「そ、そうね。じゃあそっちから行こう」僕は先にリビングを出た。玄関で靴を履こうとしたら彼女がいないことに気付いた。戻ってみるとリビングに飾ってある家族写真の前にいた。僕と両親が写る幸せそうな写真の前に。どんな表情をしているのか見えなかった。声を掛けていいものかわからない。迷っていると
「あ、ごめん。すぐ行く」
彼女は僕を追い抜いた。すれ違い様に肩に水が落ちたような気がした。すぐに彼女の後を追いかける。玄関の前で待つ彼女。僕はしゃがんでスニーカーに足を通した。顔を上げようとすると裸足の足が見えた。
「ちょっと待ってて」
下駄箱を開けて奥の方を探る。僕が昔履いていた黒いサンダルを見つけた。マジックテープだから脱げにくいし、サイズも大丈夫だろう。地面に置くと彼女が足を伸ばしたので、そのままテープを外した。小さな足を包むようにきつく締めた。
僕らは玄関を抜けた。ガレージにある自転車を取り出す。自転車を引いて門を抜けた。彼女はこの一連の流れを少し不思議そうに見ていた。門を閉めた所でカバンをカゴに入れる。自転車に跨って、彼女が荷台に乗るのを待つ。
「乗らないの?」
「え、乗っていいの?」
「ここから結構遠いし、歩くのは大変だと思うけど……」
「わかった」ギシッと音がするがあまり重さは感じない。
「しっかりと掴まっていてね」
僕に触れる感覚がなかった。しばらく待っても何もない。後ろを見るとサドルのフチを握っていた。まあいいか。ハンドルを握り、地面を強く蹴る。僕にとって初めての二人乗りだからか最初こそグラついた。それでも下り坂で勢いに乗ると安定した。思ったより勢いが出た。風がビュンビュン音を立てる。僕の服をしっかり握る感覚がした。彼女の温もりが僕に伝わる。少し悪いことをしているみたいだった。それでも楽しいと思ってしまった。僕の胸は高鳴る。不安の鼓動か、期待の鼓動か。
坂を登るとき一瞬、二人分の重さを感じた。それでもこの胸の高鳴りがそんなことを考えさせなかった。病院を超え、山の麓で自転車を降りる。自転車をその辺に止めてカバンを下げる。荷台から降りた彼女は辺りを見渡していた。
「ここだよ。少し登るけど大丈夫?」
「うん。ちゃんと調べてくれたのね。そこからなら星は見えるの?」
「ああ、約束したからね。きっと見えるよ」
そこから僕らは丘を登っていった。最初は僕の後について来た彼女は気づけば僕の前を歩く。どんどんと真っ直ぐ前を向いて。休むことなく進める足に追いつこうと僕も進む。やがて森が開ける。そしてそこには満天の星空が広がった。
「すごい。すごいよお兄ちゃん」ずっと上を向いたまま小さく、それでもしっかり聞こえる声で呟いた。
「あぁ」
写真ほどではないかもしれない。それでもとても綺麗で感慨深いものがあった。
僕らはずっと星を眺めた。目の前で髪が風に揺られる。彼女の頭ごしに眺め続ける。
僕らはどちらともなく座り込む。何を話すでもない、ただ隣にいる。星空に飲み込まれたような幻想的な世界。それでも隣にいる彼女の息遣いが伝わる。それがとても心地いい。ずっとこのまま時が止まればいいのに。そう願ってしまう。なんとなくこの日のことは一生忘れないと思った。
彼女がゴソゴソとポッケを探る。右手から出されたのはあの写真だった。
「それって……」
「そう。お母さんがくれた写真を持ってきたの」大事そうに握られたそれ。空と交互に見ている。
「やっぱり写真とは違うね。それでもすごく綺麗だ。連れて来てくれてありがとう」
「ごめん。こんなものしか見せてあげられなくて」
「ううん。すごく満足している。写真もいいけど、こっちも好き。私のために探してくれたっていうのが何よりも嬉しいの」
「そう?それならよかった」
「うん。ありがとう」笑顔でそう言われた。気恥ずかしくて笑って誤魔化した。
「ねえ、ここからお母さんの星見えるかな?お母さんから見えているかな?」
「ああ、きっと見えているよ」優しく写真を見つめる彼女を見て、そう答えてしまった。そうあって欲しいと願った。
「そうだよね……」
その声に元気がなかった。またも沈黙の時間が続く。ただ黙って空を見上げる。まるで夢の中にいるようだ。
「ねえお兄ちゃん。私を殺して」突然開かれた口。僕は一気に現実世界に引き戻された。
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