第20話 見えない星
僕はどれくらい空を見上げなくなったのだろうか。身体が身軽になり、心地よい風が包み込む。気づけば地面は桃色に染まっていた。久しぶりに窓からあそこを覗いた。彼女は今、どうしているだろうか。
しかし待てども待てども彼女が出てくることはなかった。何かあったのだろうか。不思議に思い物置を訪ねた。ここに来るのはいつぶりだろうか。ペンキが少し色あせている。ガラッと扉を引くと、前見たときよりさらに痩せ細った彼女がいた。
いつだかの寒さに凍えた日、僕があげた膝掛けをギュッと握り締めていた。扉が開いたのにも気付いていない様子だった。しばらくしてその視線が僕を捉える。慌てる僕を見て儚気に笑いかける。
「お、お兄ちゃん……」手を伸ばす彼女を咄嗟に掴んだ。
「ごめん」
僕はぎこちなく彼女を抱きしめた。こんなにも細かっただろうか。彼女の背中に回した腕が自分の肩まで回りそうだった。ほとんど動かない彼女を残して僕は家に戻る。洗面所からタオルを取り出して水で洗う。
キッチンが目に入り、その辺にあったパンと水を持ってきた。急いで彼女の元に戻る。それを見て僕の手から奪い取り、一気に口に入れた。
ゴホッゴホッ。むせる彼女に蓋を開けた水を渡す。それもすぐに飲み干す。必死に食べる彼女をただただ見つめることしか出来なかった。
僕の目の前にいるのは、以前までの彼女じゃない。洋服はさらに汚れ、髪も伸び、ベタついている。肌も色黒く、乾燥が目立つ。唇もガサガサしてひび割れていた。そして何より表情が違う。笑顔なんてものはなく、目の輝きすら失われてしまった。一瞬でも美しいと思ってしまった彼女はもういない。
パンを食べ終え、落ち着いた彼女と物置の前でしゃがみ込んで話をした。聞けば最近は食べ物すらも渡されなくなったようだ。思い返せば、今まで母がここに近づくことはなかった。父が隙を見て与えていたのだろう。その父もここ数ヶ月、仕事が忙しくてあまり家にいない。今まではどんなに忙しくても週に一度は家に帰っていた。
一体どれほどの間、彼女は何も食べずにいたのだろうか。そんな恐ろしいことを考えてしまったが、僕にはそれ以上のことが聞けなかった。勉強を理由にここに来なくなった僕も同罪なのだろうから。彼女は僕を恨んでいるだろう。一体どんな顔をして彼女と向かい合えばいいのか。僕は今、どんな顔をしているのか。そう思いながら彼女を見つめる。視線に気付いた彼女はにこりと笑った。何も言わずに、二人で空を見上げる。
彼女が口を開いた。
「お兄ちゃんはどうして謝ったの?」
「それは、僕にも非があるからだろ。僕が前みたくここに来ていれば君に食べ物をあげていたら、ここまでにならなくて済んだじゃないか」
「それだけ?」
彼女は真剣にこちらを見つめる。蛙の前に対峙する蛇のように。僕を捕らえて逃がさない。ひやりと背筋が凍る。僕は動けなかった。
わかっているんだ。僕の罪の重さを。君の存在を知っていてもずっと無視し続けた。
それでも君を助けたのは、この罪悪感から抜け出すためだ。自分を楽にするためだって。少しでも君に感謝されることをして、僕の罪を軽くしようとしていたのかもしれない。本当に君を助けたければ、いくらでもやり方はあった。この異様な環境に気付いていたのに、それに蓋をしてしまった。わかっていても何もしなかったのは、君を僕より下の存在として優越感に浸っていたのか。それともこの異様な環境の上に成り立つ幻想の幸せに浸っていたいと思ったからなのか。
「悪いと思っているなら、ここに連れて行って」物置から何かを持ってくる。目の前に出されたのは一枚の写真だった。薄汚れてぐしゃぐしゃになっていたが、よく見ると満天の星空が広がっていた。
「これは?」
「お母さんが私にくれた写真。どこかはわからないけど綺麗でしょ。これを見たいの。連れていってよ」
「どうしてこれを持っているの?」
「ここに来る時、ほとんどの荷物を置いてかされた。その時にこれだけはポッケに入れて持ってきたの。お母さんがくれたこの写真をだけ」
「そうか。でもこれだけじゃどこかわからないし、無理だよ」星空しか写っていないこの写真で場所なんかわかるわけがない。
「お母さんが死ぬ直前にくれたの。お母さんはここで私を見守っているよって。だから大丈夫。頑張って生きなさいって。心細くなったら上を向けば大丈夫よってこれをお守りにくれたの」だから彼女はいつも星空を見ていたのか。
「別にこれと同じじゃなくてもいいわ」また物置の中に入って行く。そして何枚もの写真やチラシが渡されたら。全て星空が描かれていた。
「これは?」
「私が今まで集めたものよ。夜中にここを抜け出した時とかに集めたの。ウチのゴミ袋から取ったものもあるわよきっと」
「そこまでして見たいの?」
「ええ。もう写真だけじゃ満足できない。ここで見る狭い世界なんかもう無理なのよ。もっと広い世界を、もっと輝かしいものをこの目で見たいの」
「広い世界を……」
「だからお願い。もうわがままなんて言わないから、これが最後だと思って私の願いを叶えて」僕の目を真っ直ぐに見つめるその瞳にはまた輝きが戻ったようだった。
「わかったよ」
彼女に少しばかりの負い目がある分、その願いを無下にはできない。特別難しいことでもないし、引き受けることにした。
「ほんと! じゃあ早く行きましょう」一気に声色が高くなる。僕の腕を掴んで立ち上がらせる。
「さすが今からは無理だよ。ちゃんと予定を決めよう。明後日はどうかな?土曜日だから僕は次の日部活がない。それに母さんは友達の日本舞踊を観に行くって夜からいないんだ。だからその日にしよう」
「わかったわ。約束ね」
彼女が差し出した小指に僕より小指を絡める。せっかくちゃんとした約束をしたのに、その表情はどこか暗く見えた。きっと月明かりの影のせいだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます