第19話 そして向かい合う
そうした生活を中学まで続けてきた。高校受験が終わると僕の生活が変わり出した。父の母校でもある私立白鷺高校の特進科に入学して、少し自由が出来た。テニス部に入部したことで忙しくなり、習い事を減らしてもらった。勿論、勉強では常に一位を獲り続けること、ピアノは常に練習することが条件だった。大変だったけど、そんなことを感じないぐらい、毎日が楽しかった。放課後、部活で友達と遅くまで練習をしたり、帰り道一緒に帰ることが何よりも楽しかった。体を動かしてお腹が空くと、みんなでコンビニに入った。僕は初めて買い食いというものを知った。レジ前にあるショーケースのチキンは、家で食べるのとはまた違う美味しさがあった。僕の世界が広がっていく気がした。窓が開けられようだった。そして少しずつ認識し出した。認めたくはなかった。僕の育った環境がみんなと異なることを。
母との約束を守るため、家に帰ると夜中までいつも部屋で勉強していた。休みの日も勉強とピアノの練習に充てるようになった。そんな目まぐるしい生活を送っていた。
まだむし暑さが残るある日、後期の期末テストに向けて勉強をしていた。勉強に行き詰まった僕は思いつきで部屋の空気を入れ替えた。クーラーで冷え切った室内に、もあったした熱が入ってくる。セミの声が聞こえて暑さが増す。その主を探すように辺りを見渡すと、真下の物置から出てくるのだ。小さな痩せ細った女の子が。そしてそれは夜空を見上げていた。とても楽しそうに。いつも机しか見なかった僕には彼女の行動が異様に思えた。気づけば彼女を見ることが日課になっていた。
そんな生活が当たり前になった頃、彼女は僕の存在に気付いた。窓から見下ろす僕。それを見上げる彼女は僕に笑いかけたのだ。正直驚いた。なぜあんな生活を受け入れるのか。どうして君の存在を知っていても助けない僕に笑いかけるのか。それを問いただしに行くのに時間はかからなかった。夜中にこっそり部屋を抜け、彼女の元へ訪れた。
僕が見たそこは、お世辞にも住み心地がいいとは言えなかった。蒸し暑い外の空気と嫌な臭いが混じり合って僕を圧迫する。まるでゴミ置き場のようだ。僕の部屋のクローゼットよりも小さい。こんな部屋で彼女は生活をしていた。薄汚れた洋服は所々破れている。丈も少し短い。それでも余裕そうに見えるのは彼女が異様に細いからだろうか。腰あたりまで伸びる髪は手入れがされてないようで、ボサボサだった。母や学校の女子とは違う。僕の知っている女の人とは全く別物だった。そんなことを考える僕の前に立つ彼女。そして初めて正面で向かい合った時、僕のことを
「お兄ちゃん」と言ったのだ。
あり得ないと思った。初めてちゃんと顔を合わせた僕のこと兄と呼ぶなんて。何の罪もないのにこんな仕打ちをされて、同じ両親の子供なのに全く違う扱いを受ける。そんな僕を何の躊躇いもなく兄と言う彼女が理解できなかった。そのせいだろうか。僕はその後
何度も彼女の元を訪れた。最初こそほとんどこちらからは喋ることなく冷たくあしらっていたが、彼女は構わず話しかけた。僕達が仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
毎晩のように内緒の密会をした。星空を見る会を。僕は彼女に色々なことを教えた。学校にも行っていないから無知だった。平仮名すら満足に書けないほどに。でも教えるとスポンジのようにどんどん吸収していった。文字や物語、学校のことや世の中のこと、僕の知っている全てを教えようとした。どの話も彼女は興味深々で食い入るように聞いていた。特に音楽についての話は食い入るように聞いてきた。僕のピアノの音色、ヴァイオリンの音色は彼女まで届いているらしい。あの曲はどんな曲なのか、誰が作ったのか、僕が弾いた日は必ず聞いてきた。あっという間に色々なことを覚えた。元々の字頭が良いのだろう。最初こそ幼稚だった彼女の話す言葉もぐに僕と同じレベルになった。会話のレベルが何段も上がっていった。
そんな僕のことを尊敬の眼差しで見る彼女に、嫌な気はしなかった。それどころか少し誇ら気にすら感じていた。そこからは彼女に色々してあげた。汚い服を捨てて、僕の昔の服を渡すようになった。伸びきって手入れの行き届かない髪の毛を切ってやったりもした。素人芸の大したことのない腕でも、彼女はとても喜んでくれた。暑くないように団扇を上げた。勉強できるようにノートやペン。僕の使っていない参考書や小説も。
この時間が当たり前になると僕は彼女にご飯を作った。ご飯と言ってもただ握っただけの質素なおにぎりとかだった。それでもとても美味しそうに食べた。特に食パンを半分に切ってチョコとピーナッツクリームを塗って重ねたサンドイッチは彼女の大好物だった。僕もそれが好きだと言うと半分にちぎって手渡してくれた。横に並んで一緒に食べるサンドイッチはどんな高級料理より美味しかった。ほんのひと時の兄妹ごっこだ。
ある夜、彼女に聞いたのだ。どうして毎晩空を見上げるのかって。
「星空はね、お母さんなの。お母さんが私を見守ってくれているから、私も元気だよって知らせているんだ」
僕の横で空を見上げながらそう答えた。理解できないけど、言いたいことはわからなくもなかった。そこから彼女は星空について色々話してきた。
星座の名前や由来を教えてくれた。お母さんが寝る前に話してくれたから知っているそうだ。死んだら星になってみんなを見守ってくれる、だから上を見上げてごらんというのが、彼女の母親の口癖だったらしい。
学校が休みの日は夜更かしして、近所を散歩しながら星を見るのか好きだったと教えてくれた。だから未だに星を見て思い出すんだって。そしていつか満天の星空を見たい。それが私の夢だって。
僕にはその話が下らないものにしか思えなかった。死んだら星になるなんてお伽話の世界だ。それに星空が見たいという夢は理解できない。そんな小さなものを夢とは言わない。星なんてどこで見ても同じだろう。
その言葉は口にすることはなく胸に秘めた。下らないと思うのになぜか、隣で星を眺める彼女にそんなこと言えなかった。彼女の横顔が、僕を見つめるその瞳が一瞬でも美しいと思ってしまったからかもしれない。
次の日、ピアノの練習をしていると一冊の楽譜が目に入った。書き込みがしてあるが、いつ練習したかも覚えていなかった。それでも僕はそれを弾いた。題名を見て、彼女に届けたいと思った。彼女が聞いているかどうかもわからない。それでもきっと届いてくれる。そんな思いを乗せて。隅に見える物置がガタンと揺れた気がした。
その晩、彼女は
「あの曲が今までで一番好き。なんて言う曲なの?」
「きらきら星狂想曲って言うんだ」
「とても素敵な曲ね」その日から僕はピアノよ練習の最後に必ずこれを弾くようにした。きっと彼女に届いていると思いながら。
少なくとも週に一度は隣に並んで星を見た。話すことがなくてもただ寄り添っていた。そんな日々を続け、澄んだ星空も超えた。
この時間は一年と持たなかった。僕らの星空は長く続かなかったのだ。二年生になる頃には進路に向けて勉強がより一層難しくなった。部活も忙しくなって、親や先生のプレッシャーに飲み込まれた。もう顔を上げることはなくなった。
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