第22話 彼女の願い

  

 「えっ……。今なんて?」思わず耳を疑う。僕の時はまだ止まったままだ。

「お兄ちゃんの手で私を殺して」彼女は一体何を言っているんだ。

「お願い。私の時間をもう終わらせてほしいの。もうあそこに戻りたくない」

彼女は真剣に僕の目を見つめる。その瞳には一切の曇りがなかった。本気だ。心臓の音が僕を催促する。うるさい。

「君は何を言っているの?無理に決まっているじゃないか」思わず声を上げる。

「無理じゃない。お兄ちゃんならできるよ。もう私は私を終わらせたいの。お兄ちゃんが私を終わらせてよ」僕の声に怯むことなく発せられる言葉。あまりにも真っ直ぐな言葉は、その気持ちに嘘がないことを思い知らせる。


 「本気で言っているの?」

「うん。お母さんにも挨拶できたし、もう私は満足に生きた。だからもう次に進ませて」

 僕の思っていた以上に意思は固まっていた。彼女の髪に月の光が反射する。きっとずっと前から決めていたのかもしれない。だから様子が可笑しかったのか。こんな願いは止めるのが当然なのだろう。しかしそれを僕の安易な気持ちで止められない。彼女の今までの生活を知っている僕に止めることはできないと思った。

「君の名前はなんていうの?」

「真波。真っ直ぐな波で真波よ」そう微笑んだ彼女。

真波。あんなに話していたのに、僕は今まで彼女の名前すら知らなかったのだ。

 そんな彼女をどうやって止められよう。彼女の唯一のわがままを止めるのは僕のエゴではないか。わずか5秒の間で様々な葛藤が起こった。どんなに悩もうともわかっているんだ。

 無力な僕には何もできない。これ以外は何も。僕の贖罪なのだ。偽物の幸せを守ろうとした僕の。

「わかったよ」声を絞り出す。

「ほんとうに?」

「それが君が心から望むことなんだろ?」僕は立ち上がり、彼女を見下ろす。

「それ以外に方法はないのか?もう一度やり直すこともできないの?」

「それは無理よ。私はもう充分に生きた。お兄ちゃんに会って、少しだけど幸せな時間を過ごせた。それにお母さんが言っていた星空も見れた」彼女は笑顔で立ち上がった。彼女の目には星が輝く。

「本当はお母さんが居なくなってからはずっと最悪な生活だった。それでもお兄ちゃんのおかげで変わった。最後に幸せな思い出ができた」

僕らはどちらともなく近づく。そして両手を彼女の細い首に回す。そして力いっぱい握り締めた。彼女の手が僕の右手を掴んだ。わずかに歪んだ顔に目を背けたくなった。

 やっぱり辞めよう。今ならまだ間に合う。手を緩めようとした時、右手を強く掴まれた。僕の考えを読んでいるかの如く、微笑んだ。これでいい、そう背を押されたようだった。両手に集中し、力を込めた。

 ありがとう。そう聞こえた気がして顔を上げる。もう目を晒すことなく、無心で込めた。


 グラッと彼女の足が力なく折れる。僕は彼女を殺してしまった。さっきまでの笑顔が嘘のように、彼女の目は閉じられた。それでもどこか満足気に微笑んで見えるのは気のせいだろうか。今にもお兄ちゃんと声を上げてくれそうなのに。もうそんな言葉は聞けない。僕をお兄ちゃんとは呼んでくれない。横たわる彼女の横に寝転ぶ。さっきよりも星空が広がる。手を伸ばせば掴めそうだ。それを掴み取ろうとしてやめた。

 手の感覚がなくならない。あの細い首の温かさ、腕に触れる髪が。彼女が存在していたことを証明する。

「真波……」呟かれた言葉は闇に包まれた。


 僕はただ彼女の横に寝そべっていた。悲しみも恐怖もなく、ただ時が流れていく。少し前まで横で感じた体温。背中に感じ温もり。それはもう存在しない。段々と冷たくなる真波。隣にあったはずの安心感はもうないのだ。

 真波との生活が思い出される。物置で語り合った夜。自分の夢を語ったあの場所。共に星空を眺めた時の心地よい風。星空を眺めるあの美しい横顔。


 もし何かが違っていたら君は死ぬことはなかったのではないか。僕が声を上げれば変えられたかもしれない。もっと早く現実を受け入れていれば。僕が今まで必死に勉強していたことは何だったのか。良い成績を獲り続けても何の意味もなかった。彼女を救うことすらできなかった。他に勉強すべきことがあったんじゃないのか。

 いや、無駄だ。僕に救うことなんてできなかった。真波の願いを叶えることが僕にできた唯一の方法だ。ならば受け入れよう、この現実を。そして僕にできることをすればいい。


 僕は一生忘れることはないだろう。この手の感覚と、真波瞳に映る満天の星空を。足元に何かがあたる。拾ってみればあの写真だった。現実より綺麗な星空が滲む。彼女の冷たい頬に触れる。

「真波……」嗚咽と共に吐かれた言葉。

僕は君に何もしてあげられなかった。それでも君は僕を許してくれるのか。僕を受け入れてくれるだろうか。

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