第4章 雨川雫という人物

 その日はずっと女と話していた。彼女は僕の抜けている記憶を補うように色々と話してくれた。

 僕の名前は雨川雫。杉並区にある私立白鷺高校特進科の二年生。公式テニス部に所属しており、二年生ながらエースを務めているらしい。テニスは小学生の頃からやっていて、大会ではいつも賞状をもらっていた。普段わがままを言わない僕が初めて自分からやりたいとぐずったそうだ。

母親がピアノの先生をしていることから僕もピアノを習い、ヴァイオリンも習っているらしい。どれもいい成績を残している。学業も成績優秀でスポーツや音楽などオールマイティにこなす、いわゆる優等生タイプだ。それを鼻にかけることもなく、だれにでも分け隔てなく優しい。そのため周りからの人望も厚い。

それが雨川雫という男だ。これが僕なのだ。そんな漫画の主人公みたいな人が世の中にいるのか。全くもって実感が湧かない。それでもそれが僕だと、この人の瞳が訴えかける。


 その後も女はずっと僕のことを話していた。生まれた時のことから、何が好きで何が嫌いかまで細かく。永遠に。遠くを見つめながらどこか誇らしげに話すその姿はまるで恋する少女のようだった。

 面会時間を知らせる放送にも気付かないくらい楽しそうだった。遂には看護師さんが声を掛けにきた。

「あら、ごめんなさい。雫と話せるのが嬉しすぎて時間を忘れていたわ」手を口元にあてて笑う。

「雫くん目が覚めてよかったですね」看護師さんも僕達に笑い掛けた。

「本当に皆さんには感謝しているの。私の雫を助けてくれてありがとうございます。それじゃあ雫、お母さん帰るね。また明日も来るからね。」母は帰る支度をしながら言った。

最後に僕の頭を一撫でして部屋を出る。部屋を一歩踏み出してから僕に手を振る。そして看護師さんに一礼をして、また手を振って出て行った。足音が遠くなる。


「素敵なお母さんでよかったわね。あなたが目覚めるまでずっと付きっきりだったのよ」看護師は僕のところに来て微笑んだ。足元の布団を綺麗に掛け直してくれる。

「本当にずっと付きっきりだったの。私達が心配するくらいにね。とても愛されているのね」そう言って看護師は部屋を出ていった。


誰もいない部屋で僕はさっきまでの会話を鮮明に思い出す。テニスにピアノ、ヴァイオリン。僕を愛おしそうに見つめる視線。そして想像する、僕が目を覚ますまで心配そうに側にいた女の顔を。

「僕は愛されているのか」誰もいない部屋に木霊する。ズキリ。右手が痛みと熱を持つ。布団に押し込め、左手で掴む。


 気づけばその痛みは引いていた。

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