第3章 重なる

 ベッドの横にあるリモコンを手に取り、操作する。ベッドをもう少し起こして辺りを見渡す。真っ白な部屋の中にいた。ベッドが一つあってその上に僕はいた。またも消毒の匂いが鼻をかすめる。この独特な匂いと機械的な雰囲気。ここは病院だと改めて実感した。  

目の前に小さな水道があった。その上にある鏡に、僕の顔が写っている。頭には包帯が巻かれていた。少し距離があるが顔は認識できる。

鏡を凝視する。さっきまで僕の右手を握っていた人と心なしか似ていた。くっきりとした二重、鼻は僕の方が筋が通っており、高かった。それでも醸し出す雰囲気というのだろうが、纏っている空気感がそこはかとなく似ていた。

横から光が差し込むのを感じて振り返ると窓があった。その先には緑が広がる。病院の横に山があるようだった。風に吹かれて木々が揺られる。僕はどうしてこんなところにいるのだろうか。


 しばらくしてノックの音が部屋に響く。医者が一人でこの部屋に戻ってきた。

「少しいいかな?」

この人が僕の担当医だそうだ。僕の体調を心配した上で、これまでのことについて少し説明してくれた。僕は一週間近くものあいだ目を覚さなかったそうだ。

病院の近くで何かの事故に巻き込まれて、夜中にここに運ばれてきた。たまたま近くを車で走っていた大学生が、僕が倒れているのを発見したそうだ。ただ彼らは僕を発見しただけで事故に関しては何も知らないし、関わりもないらしい。対応が早かったこともあり、一命を取り留めたそうだ。そしてその時に頭を強く打ったショックで記憶が曖昧なのだろうと。


 「記憶に関しては何をキッカケに戻るか分からないから、心配せず、気楽に行こう。それよりも安静にして、早く怪我を治すことに集中しよう」そう笑顔で話してくれた。

そして彼は母にお礼を言うように言った。目を覚ますまでずっとそばにいてくれたそうだ。

「記憶が曖昧なことは知っているから安心して話すといい。もしかしたら何か思い出すかもしれないからね。また何かあったらいつでも僕を呼んでくれ」

 医者にお礼を言うと、彼は笑顔で返してくれた。

 そうか事故のせいでここにいるのか。そもそも何で事故にあったんだろう。夜中に運ばれて来たと聞いたが、そんな時間に何をしていたのか。たまたま発見されたということは、僕は一人でそこにいたのか。全く思い出せない。ただ包帯が巻かれているということは、そこそこ大きな事故だったのだろうか。助かってよかった。

 でもどうして包帯の巻かれた左手じゃなくて、何もない右手が痛いのだろうか。両手をよく見比べる。この手の痛みについては聞いてみよう。そう思って顔を上げたが、医者はもういない。今はまだ右手の痛みは引いている。大丈夫。きっと大丈夫。自分にそう言い聞かせた。

 

 コンコン、ガラッ。扉が開いて女が入ってきた。こちらを微笑みながら入ってくる。ピンと伸びた背筋、膝丈までの白いワンピースがふわりと揺られる。そこから出された足には黒いヒールが履かれ、コツコツと音を立ててこちらに来る。堂々とした立ち振る舞い。しかしこちらに向けられた瞳が揺らいでいる。僕が座るベッドの横に腰掛けると真っ直ぐこちらを向いた。揺らぎが小さくなり、瞳が重なり合う。


「雫なのね」

震える声で、それでも芯のある声でそう呟かれる。女の右手が顔の横に伸びる。掌が頭をなぞり、口元辺りまである髪を解かす。その掌は冷たかった。それでもどこか温かい、安心感が伝わってきた。

「気分はどう。私のことはわかるかしら」

さっき医者が説明していた。この人が僕の母親なんだろう。お母さん。その言葉を口に出そうとして辞めた。いや、出せなかったのかもしれない。

 一瞬だけ視線を下に落としてしまった。さっき母親だと知ったばかりだ。頭ではそう認識した筈なのに、その言葉は心に留まることなく落ちてしまった。その思いが行動に移ったのかもしれない。何も応えることができない。女は少しばかり寂しそうな表情を見せる。が、すぐに微笑んだ。

「そうよね。そんなにすぐには思い出せないわよね。私はあなたの母親よ」

「お母さん……」今度は言葉が音に乗った。

「そうよ」

女はとても嬉しそうにこちらを見つめる。右手に手を伸ばして、軽く触れる。まるで壊れ物を扱うかのように、大事に。そして愛おしそうに。

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