弁当箱

三崎伸太郎

第一話

弁当箱

                三崎伸太郎


たとえば、この様な話があるかもしれない。

毛の短い雑種の白い犬が歩いている。雌犬である。乳房が幾つも垂れ下がって揺れている。

こんな雌犬に若い雄犬が恋をした。

子犬が産まれた。

若い雄犬は、雌犬と子犬のために餌を集めた。

子犬は、やがて大きくなり、どの犬の血統を引き継いでいるのか、大きく堂々として品格がある。

雄犬は、雌犬と自分よりも大きくなった子犬のために餌を集め続けた。

そして、子犬が大きくなり親犬の側を離れた後、雄犬は病気になった。

秋の日、澄み切った空に水晶宮のような月が浮かんでいる。雄犬は、ぼんやりと目を上げて月を眺めた。雌犬はするすべもなく、自分の垂れ下がった乳を雄犬の鼻先に持っていった。雄犬は乳房に鼻先をつけ、雌犬に抱かれるようにして死んだ。


恭子は、目覚めた。

未だ早い夜明けである。夫の志郎は昨年死んだ。

横のベットには、夫の使っていた寝具類が未だそのままの状態で置かれていた。

恭子は夫の志郎よりも七歳も年上であった。

「志郎さん。起きなさい」昔と同じようにベットに向かって声をかけてみた。

寝具は微動だにしない。

ベットは静まり返っている。

あそこに夫の志郎が寝ていた。ベット・カバーが少し盛り上がって、一人の人間が寝ているようにも見える。

恭子は六十二歳である。小さな洋品店を持っている。

一人息子の洋介はロス・アンゼルスの大学で医学を専攻している。

恭子は夫の志郎のことをあまりよく知らない。

夫の志郎は日本で何をしていたのであろう。これといった経歴のない人間であった。彼とはカナダで知り合った。

相手のほうが声をかけて来たのである。恭子が勤めていた日本領事館の玄関で「あの・・・・・・」と、若い男が彼女に声をかけた。

恭子は当時三十五歳だった。とっくに婚期が過ぎて、結婚と言う夢が薄れている時だった。

「領事館はどこです?」と若い男は聞いた。

「あら? サインが見えなかったかしら?」

「サイン?」

「ほら、ここ」恭子は、日本国領事館と大きく日本語で書いてある看板を指差した。

「ああ・・・・・・日本語で書いてあるんだ・・・・・・」

若い男は、のんびりと、さも感心したように看板を眺めている。

「分ったかしら?」

「ええ、どうも・・・・・・」若い男は白い歯を出し、顔を崩して微笑んだ。ふと、恭子は何か暗示のようなものが、自分の中で身動きしたのを覚えた。

(なんだろう?)と思ったが勤務時間が迫っていたので、事務所に向かって歩き始めた。エレベーターの前まで来て振り返ってみると、若い男はまだ看板を見上げている。ふと、可笑しさが込み上げた。

数日後、カフェのテラス・テーブルでビールを飲みながらアン・セクストンの詩集を読んでいると「こんにちは」と、誰かが日本語で彼女に声をかけて来た。

本から目を離して見上げると、領事館で会った若い男が微笑んでいた。

「あら? どうしたの?」と聞く前に、若い男は相席の椅子に座った。片手に、ビールの入ったピッチャ(大きいジョッキ)とコップを持っている。

「こんにちは」と、彼は再び言って恭子に頭を下げた。

「どうしたのですか? 今日は」

「いえ。休みですので、気晴らしにビールを飲みに来たのですよ。すると、見たことのある女性が目に入ったというわけです」

「記憶力のよいこと」

「特別です」

恭子はブルーのジーンズにTシャツ姿だった。相手に若く見えたのだろうと思った。

「セクストンですか?」と男は、恭子の手にしている本を指差した。

「ええ、知っているの?」

「僕も詩を書いています」

(詩を書く?)要するに生活能力のない男の子とよ、と大学時代の友人が言った言葉が思い起こされた。

「詩を?」

「そうですよ。だから、知っている」と、彼は言いビールをピッチャからコップに注ぎ込むと口にした。

「ああ、美味しい。カナダの気候はドライだからビールがうまいや!」大きく両手を広げて空に上げた。



恭子はベットを見続けている。志郎と出会った時の若々しい彼の姿が思い起こされた。


寝起きの悪い夫の志郎を起こすのは恭子の仕事であった。彼女が声をかけると「うん・・・・・・」と、彼は返事をするが起きてはこない。

恭子は、志郎のベットに近寄ると夫のくるまっているベット・カバーや毛布をそっとはがす。暖かい志郎の身体が現われるのである。恭子は、犬の腹をさするように志郎の腹を軽くなでる。

「わ、わかった。やめてくれ。こそばい」と言いながら、志郎は起き上がる。

「コーヒー、出来ているわよ」

「うん・・・・・・」志郎の眠そうな返事を背後に聞きながら恭子はキッチンに戻るのである。

志郎は、世渡りが下手だった。つまらない正義感から何度も会社を解雇された。其のたびにコツコツ貯め込んでいたお金が消えて行った。

「おかしい? 俺達にはお金がない。一体誰が持っているのだろう?」志郎は自分を慰めるようにつぶやく。

恭子は七歳年下の夫を見ながら、小さな責任を胸に抱えた。私がこの人の一生を駄目にしているのだろうか、それとも私と彼との運命なのかしら。

志郎は、生活が苦しくなると恭子に「成田山の御神籤(おみくじ)」の話をする。

ほら、みてくれ。二十歳になった時、成田さんで御神籤を引いたんだ。一番籤でね、ほら、これと小さく畳まれた紙片を恭子に突き出す。

「ぼくの人生は宝石の塔の如しとかいてあるだろう? 人が仰ぎ見る人物になると書いてある」

恭子は、手渡された紙片に軽く目を当てる。確かに一番籤で縁起のよいことが書いてある。しかし、片隅の方に「台所は火の車」とあるのが気になった。この部分が当っているのである。

「確かに当っているわ・・・・・・」恭子は小さな声を出した。

志郎は満面の笑みを浮かべて満足そうに御神籤を恭子の手から取り上げる。

子供を産み育てる母親の勤めからか、夫の価値を低く見すぎているのかもしれないと考えてみた事もあった。

「火の車の台所」で子供を育て、生活した。志郎もまじめに働いた。

そして、少し台所が豊かになった矢先、志郎はあっけなく死んでしまったのである。

どういった巡り合わせだったのであろうか。確かに、志郎とあっていなければ豊かに暮せた。でも、子供を産み育てることはなかった。

女としての幸せは、子供を産み育てることなのかしら。それが正しいのであれば男の幸せは何なのかしら?

夫の志郎は幸福な人生をおくったのだろうか。朝、恭子のつくった弁当を持ち会社に出かける。会社では何をしていたのだろう?

弁当はいつも綺麗に食べられていた。

「お弁当箱・・・・・・」恭子はつぶやいた。

志郎の使っていた弁当箱は、恭子が日本に帰郷した際に買い求めた物である。楕円形の重ねで、塗りの良い物だった。

キッチンに行くと、収納ケースから弁当箱を取り出した。弁当箱は、小さな花が蓋に描かれている。黒塗りの丸い楕円の中を見ると、夫の姿がチラリと見えたような気がした。

「あら?」

重ねてある上の箱を持ち上げて下のを見た。

(フジの花をみようか?)志郎の声が聞こえたように思えた。夫は花が好きだった。

恭子はエプロンをかけた。

志郎に持たせるように弁当を作った。

弁当を包み、軽く化粧をすると車をフジの花のある場所に走らせた。

「志郎さん。フジの花を見せてあげるわよ」志郎の笑みを浮かべた顔が思い出される。

大金持が残した森の中の邸宅が公園になっている。屋敷の一つの庭にフジの花が見られる。志郎が恭子と子供を連れてよく来た場所である。

場所が森のなかにあるせいか、訪れる人が少なく、そのことが志郎の気に入りだった。

フジの花は満開である。高く組まれているフジ棚から、たくさんの大きなフジの花がたれさがっていて、ミツバチが数匹飛んでいた。

恭子は、フジ棚の近くに設けられているベンチに座ると、色鮮やかなフジの花に見とれた。

「きれいだね」志郎の元気な声が弁当箱から聞こえてきたような気がした。

恭子は弁当を手に取った。包みを広げると、二段重ねの黒い器が現われた。器はフジ棚から射す光を受けている。

夫の志郎が勤める会社で弁当箱を広げる姿が浮かんでくる。

あの人は、この弁当箱のお弁当を食べた。春、夏、秋、冬と四季を通して弁当箱を広げた。お弁当を食べながら何を考えたのかしら。

恭子は自分のひざの上にある弁当箱の蓋を取った。自分がこしらえた弁当である。上のおかずの器をひざの上に移しかえ、白いご飯の器を片手に取った。

梅干が白いご飯の真ん中に埋め込まれている。志郎は梅干が好物だった。

「ぼくは、うめぼしと魚肉ソーセージとキュウリが好きです」と、志郎が恭子に言ったことがある。恭子は子供のような人だと思った。確かに、志郎は何歳になっても子供のようなところを死ぬまで残していた。子供を得た後、恭子は家庭に子供が二人いるような感覚になり、憂鬱になった覚えがある。

でも、私にとって大切な人だった。恭子は涙ぐんだ。

一つのフジの花びらがヒラヒラとまるで長い時間を濃縮したように大気の中を動き、やがて白いご飯の上に落ちた。

花びらはハートの形をしていた。

「志郎さん!」恭子はフジ棚を見上げた。

フジは淡い紫と白、五月の光の中である。


おわり


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弁当箱 三崎伸太郎 @ss55

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