【土曜日】(前編)

 昨日のものすごい夕立がうそのように、今日も積乱雲が高く大きく、朝から地平線のあちらとこちらとで、ぴんとはりつめたような青空だった。何かすてきなことがおきるような、そんな予感をさせる夏の空……そしてこの日のことをすばるは、何年たっても忘れることはなかった。

 今日は別の所に行こうと云った少女の後をついて歩く。とっておきの場所だよと、自慢そうに笑った。話をしながら、林をぬけていく。脚首までもない下草と落ち葉が一面に広がるしっとりとした林の中、誰が踏み登ったのかわからないかすかな山道が、上へ上へと延びていた。すばるたちの息が荒くなっていく。先を歩く少女のシャツの背中が、いつの間にか汗で濡れていた。リュックを背負ったすばるも汗でびっしょりだ。

 どれぐらい時間がたったかわからない。登るにつれて、空気がだんだんと、すうっと澄んでいくように感じた。最後は急に険しくなった、もう崖と云ってよいのではないかと思える細い山道を、木の枝をつかんでほとんどはい上がるようにして登りきって、開けた場所に出るとそこは……

「うわあぁぁ……」

 思わず声がもれた。山の中腹の、ビルぐらいある大きな岩の上から、すばると少女は遠くの山々や谷を、はるかに見下ろしていた。

「すごい、すごい……!」

 まるで世界を世界の外から眺めているみたいだった。どこまでいっても深緑色と淡くやわらかな黄色がかった緑が溶けあい、見たこともないぐらい山々は遠く大きく果てがなく、谷は吸いこまれてしまいそうに深かった。何にもさえぎられることのない、真っ白な積乱雲。そしてうんと高い場所にある青い青い空。吹きぬけていく風は、山のものと云うより、もう空の偉大さに近かった。そこには、ただのひとかけらの人工物もない。

 それは、すばるが生まれて初めて眼にした世界の広さ、大きさだった。これまで自分が知っていた世界とはまるで規模が違う、自分の身体がどんなに小さかったのか、初めて気がつかされる大きさだ。

 不意に風景がぼやけた。涙が流れていた。何だこれ……と思いながら、でも少しも不自然に感じなかった。理由はわからない。哀しいわけではない。ただ止まらない。静かに流れる。すばるの中の重たいものが消えていく。代わりに身体の中に何かが結晶していく。ずっと遠くまで心が飛んでいけるような、拡散していけるような気がした。

 ……ずいぶん長いこと、そうしていた。涙はいつの間にかとまっていた。少女が隣に座って微笑んでいる。すばるが座ると、水筒の冷たい麦茶を、無言で手渡してくれた。

 岩のはるか下からは、低く轟きながら風が吹き上げ、その風に乗って鳶が輪を描いている。特に何も話す気にはならなかった。ただ時々麦茶を飲み、岩の上からこの風景を眺めているだけだった。

 風と天だけが、何かをささやいている。ここはきっと、自分が知っているよりずっと高い場所なのだ。多分、今自分はものすごく大切なものを眼にしているのだ。


 夏の空がかたむきはじめた。うっすらと夕方の気配がただよいはじめ、クマゼミやアブラゼミの、他を圧するような声にまじって、ヒグラシのものさびしげな鳴き声が聞こえる。

「帰ろっか?」

 少女がうながした。すばるもうなずく。立ち上がると、少女が小さく声をあげた。

「ツクツクボウシが鳴いてる……」

「え、どれ?」

 はじめは気がつかなかった。でも耳をすましているうちに、たしかに他の蝉たちにまじって、ボィッシュツクツク、ボィッシュツクツクって鳴き声がかすかに聞こえてきた。少女は無表情でじっと聞いている。耳をすませていると、その声はィヨロ、ィヨロ、ィヨロ……と小さくなっていき、やがて山の気配の中に吸いこまれるように消えていった。

(――その次はツクツクボウシ鳴きはじめるの。そうなると、もう夏も終わり)

 少女の言葉を憶い出した。

(夏が終わるのか……?)

 すばるには信じられなかった。こんな大きなものが消えていくのか?

 すばるにとって夏が終わるってことは、いつの間にか夜、クーラーを使う必要がなくなるってことで、こんなに急激に終わるものではない。まだ何もかも夏の装いをしているというのに、すごく不条理な気がする。

 ふたりは行きとはまるで違って、言葉少なに山道を下った。廃屋にたどり着き別れた。例の小道を下りようとしたすばるに、少女が道の上から声をかけてきた。

「何?」

 振り返って訊ねる。

「ばいばい」

 少女が笑いながら、小さく手を振った。かたむきつつある林の影に隠れて、表情はそれ以上よくわからなかったが、すばるはその声の調子に、胸がざわざわするものを感じた。手を振り返したが、少女はもう何も云わなかった。

 そう云えば、別れぎわに「また明日」と云わずに「ばいばい」と少女が云ったのは初めてだったと、もどる途中に気がついた。


 * * *


 爺ちゃんの家にもどって夕飯を食べ終えたころ、来客があった。“のっぺらぼう”のお面をつけたふたりだ。母さんがすばるの名を呼んだ。父さんは何も云わなかった。すばるは自分の胸の中に、小さいが硬いしこりがあったことを憶い出した。

 爺ちゃんと婆ちゃん、父さんと母さん、それにすばるが座敷に座る。婆ちゃんがふたりにお茶を出す。

 父さんと母さんが、爺ちゃんと婆ちゃんに何か話している。度々自分の名前が出るのはわかったが、大人たちが何の話をしているのか、さっぱりわからない。言葉はとどくのだが、自分の中に入ってこない。

 いつも笑ってる婆ちゃんが、ひどく心配そうに何か云っている。母さんが哀しそうなお面で、何か云っている。父さんは無表情のお面をしたままだ。爺ちゃんがしかめっ面をさらにしかめて、時々渋いお茶を飲むだけで何も話さない。

 暗くなりはじめた外から、カナカナカナカナ……と虫の声がする。風の音も聞こえる。あぁ、あの虫の声、あの虫何だろう?明日、少女に訊かなくっちゃ。ぼんやりそう思ったが、何もかも夢の中にいるように、現実感がなかった。すべてに、もやがかかったような感じだった。

 どれぐらいそうしていただろう。不意に母さんが立ち上がって、すばるの身体を抱き寄せた。何か云っている。云っているけれど、何もわからない。何を云っているんだろう?他の三人も口々に何か叫んでいる。すばるを抱きしめる母さんの腕に、ぎゅうっと力が入る。痛い……母さんのその力に、すばるはうめき声をあげた。

 どこで風が吹いている?――風?どうして風が?

 疑問に思う間もなく、耳の奥で風がどよめき、無数の虫がささやき、もやの中から、誰かのあざ笑うような声が聞こえ――

 すばるの中で何かがはじけた。

「――やめろッ!!」

 叫んだ――ような気がした。身体の奥から暴力的な何かが湧き出し、抱きしめている母さんの身体を激しく突き飛ばした。それははっきり憶えている。

 誰かが叫ぶ声。急にもやが晴れ、いきなりたくさんのものが、すばるに流れこんでくるみたいだった。それに敗けないように、何かを叫んでいた。でもそれは、頭蓋骨の裏側にむなしく響いただけだった。爺ちゃんと婆ちゃんの顔、父さんと母さんの貌。家の中がぐにゃりと歪み、いきなり明度が落ち、立っていられなくなった。

 轟――と、どこかで風の音がした。家がきしむように、悲鳴をあげた。屋内なのに闇が迫ってくる。

 叫びつづけて走り出した。靴をはいたかどうかも記憶にはない。走っていた。薄い墨のような宵闇の広がる中を、すばるは夢中で走っていた。

 カナカナカナカナ……と鳴く虫の声。風がものすごい速さで雲を運び、すばるはその夜風に乗るように、闇の中をどこまでも走っていった。


(つづく)

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