【金曜日】
街ですばるの周りにいる人たちは、みんな“のっぺらぼう”だった。
いつのころからかはわからないが、肉色の奇妙なお面をつけて、時々その場に応じてしゃべったり、笑うまねをしたり、怒るまねをしたりする。でもそんなことをしていても本当は無表情で、何の感情もなく、すばるをじっと見下ろしている。自分たちに近づいてくるのではないかと観察していて、そして中に決して入れさせまいとしている。
街中どこに行ってもそうだ。誰も彼もそうだ。みんなみんな肉色の“のっぺらぼう”だった。気味の悪さにめまいがした時も、保健室のベッドに横になっていた時も、すばるの顔を覗きこむみんなの貌は、身震いがするほどに得体のしれない、うつろなものだった。
父さんと母さんはさすがにそんなことはなかったが、すばるには居心地が悪かった。ふたりとも一生懸命で、すばるのことを好きでいてはくれるけど、ふたりはお互いのことをもう好きではない。
すばるは父さんと母さんの三人で暮らしているわけじゃない。父さんとすばる、母さんとすばる。二組の親子が、三人で、ひとつの家の中で暮らしていたのだ。だから時々、ふたりも他のみんなと同じように、得体の知れない“のっぺらぼう”になってしまう。そんな時、すばるはすごく哀しくって不安だった。
でも爺ちゃんと婆ちゃんは違った。お陽さまの下で、ふたりのしわだらけの顔は、はっきりしている。爺ちゃんはあまり笑わないけれど、笑う時は笑う。婆ちゃんはいつも笑っているけれど、もっと笑う時はもっと笑う。“のっぺらぼう”だったことなんて、一瞬もない。
そして爺ちゃんや婆ちゃんと同じように“のっぺらぼう”じゃない少女に出会って、本当に驚いた……何でだろう?
だから爺ちゃんや婆ちゃん、それに少女といっしょにいると、すばるは不安を忘れた。
* * *
朝からすばらしくいい天気だったのに、お昼の太陽がやや西にかたむくころになると、急に重たそうな雨雲が広がりだした。広がりだしたと思ったら、あっという間に空をいっぱいに覆ってしまい、どんどん下がりはじめたように感じられる。どこからともなく遠く雷も聞こえる。蝉の声がいつの間にかやんで、気味の悪い静けさだ。空気がなまぬるく湿っぽい。
「嵐がくるぞ」
林を歩いていた少女が、急に駆け出す。すばるがつづく。遠くで鳴っていたかみなりの音がうんと近くなり、稲光が時折フラッシュのように青白くきらめく。林は急速に、日暮れ時のように暗くなっていく。
林をぬけ出すと同時に、ビー玉ぐらいもある大粒の雨粒が、ひとつふたつと落ちてきて、たちまち滝のような豪雨となった。かみなりと稲光が追いついてきて、閃光と轟音がふたりを追い立てる。ものすごい夕立だ。
奇声をあげながら、ふたりはしぶきをあげて廃屋の中に飛びこんだ。途端にものすごい音をたてて、すぐ近くにかみなりが落ちた。 屋敷が揺れるような衝撃だった。
「ぎゃあッー!」
すばるも少女も、耳をふさいで、敗けずに大声をあげて笑い転げる。ふたりの声をかき消すように、たてつづけにかみなりは落ちる。天をふたつに引き裂くような轟音だ。地までが轟きゆれる。雨もまるで水の壁のように厚く、地面や屋根を打つ音は、まるで小石が激しくぶつかっているようであり、むこうの林すら何本かの木が薄ぼんやりとした影となって漠然と見えるだけだ。まだ昼すぎなのに、夜になったような暗さで、獲物を求めるように閃光の腕を伸ばす稲光だけが、世界を一瞬だけ照らす。
声が枯れんばかりに叫びつづけていたふたりは息がつづかなくなり、へとへとになって、畳がすっかり上げられてむき出しになっている床板に寝転んだ。走ってきて叫んで、すばるの胸も少女の胸も、これ以上できないぐらいに、大きく勢いよくはずんでいる。
ようやくひと心地ついて、お互いをよく見ると、頭から脚の先までびしょ濡れになっていたせいで、身体中、廃屋のほこりにまみれてしまっている。ふたりとも顔まで真っ黒だ。おかしくなって、またお腹が痛くなるまで笑い転げた。
その後もう一度外に飛び出して、まだ勢いのやまない雨を頭からあびて、互いに水をかけあい、身体のよごれを洗い流した。
かみなりが恐いので急いで中に駆けもどると、真夏だけどさすがに身体が冷えていた。鳥肌がたち、奥歯がかちかち鳴って震えが止まらない。
すばるは着ていたTシャツを脱いでしぼると、少女もTシャツを、そしてショートパンツまで何のためらいもなく脱ぎ去って、白い下着だけになった。すばるは驚いて、あわてて眼をそらしたが、少女の方はまるで無頓着で、その薄く細い身体を隠すことなく、すばると同じようにシャツとパンツをしぼっている。
少女の胸にも腰にも仕草にも、クラスの少年たちに恥じらいと好奇心でひそやかに後ろめたく覗き見られる同級生の少女たちの身体に漂っているような気がする、ささやかな大人の気配も妖しさもみとめられなかった。それでもすばるの胸はかすかにざわめき、腰にかけた指が止まった。
「何してんの、風邪ひくって。早く脱ぎなよ」
少女は屈託なく、前髪から水がたれるのを、しぼったシャツでざっとぬぐう。少女の唇も色を失って震えている。ぬぐった髪の毛がぐしゃぐしゃに乱れたまま、縁側に座りこんだ少女の方を見ないようにして、すばやく下着だけになる。あまり露骨にならないように、意識的に少女から少しだけ離れて座る。
「ちょっと髪!濡れてる!」
「わッ!?」
膝立ちになった少女が、すばるの頭をいきなり自分のシャツで乱暴にぬぐう。眼の前で少女の両腕がわっしゃわっしゃと動き、真っ黒に焼けた胸がちらちらと見え、すばるは顔を伏せてぎゅっと眼を閉じた。
「風邪ひくって云ったでしょ」
「……ありがと」
ぬぐい終わった自分のシャツを縁側に広げると、少女はすばるの背中によりかかって座った。ひんやりと湿った背中同士がくっついて気持ちがいい。少女の体温を感じて、ぎこちなく動いていたすばるの心臓は、ようやく落ち着きを取り戻した。どきどきしたのが、少しだけ気恥ずかしい。
「すごい雨だね」
「うん、こんなのめったにない」
所在なく口にしたすばるの言葉に、少女が感心したように答える。空は相変わらず宵闇のように暗く、屋内も奥がはっきりしないぐらいだ。
まだ雨はやまない。稲光もかみなりも過ぎ去っていない。広い広い海に漕ぎ出した小舟のように、ふたりはちっぽけだった。廃屋の中、世界でたったふたりになってしまったような不安――でもそれは、すばるには理解のできないほのかな温もりを持っていた。
「川はきっと、すごく水増えてるよ、明日行ってみようか?」
少女の言葉も、どこかさびしげだ。
「うん」
すばるは小さくうなずいた。裸の背中をあわせたままふたりは、その後雨がふりやむまで何もしゃべらずに、お互いの体温を感じていた。
(つづく)
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