【土曜日】(後編)

 完全な暗闇。その中にいても、樹々のにおいを知ることはできるし、風の音も耳にすることができる。いつの間に、こんなに轟々と風が吹くようになったのだろうか?こんなに空は真っ暗だったろうか?

 どこをどう走ったか憶えていない。虫の声が聞こえ、風の轟きが聞こえていた。その風に運ばれるようにすばるは駆け、気がついたらこの廃屋にいた。

(――すばる、お母さんといっしょに……)

(――お父さんとお母さん、ずいぶん話し合って……)

(――すばるに話したら、きっとショックを受けると思って……それに子どもにむずかしい話だから……)

(――そげんこつ、こん子ん前で云わんでん……)

(――すばるはもう子どもじゃない……)

(――ちょっとやめて、あなた……)

(――お前こそ、もっと冷静になれ!わかるか、すばる。お父さんたちは……)

(――あなたはすばるのことなんか……)

(――いい加減にしんさい!)

(――こっちへ来て……)

 記憶の断片――父さんと母さんの姿をしたあの“のっぺらぼう”の口のあたりだけが、ぬるぬるとうごめいていた。爺ちゃんと婆ちゃんの声もはるかに遠い。

 言葉ばかりがすばるの頭の上を行き交う。すべてがもやの中、かすみ、歪み、色彩を失った情景が切れ切れに流れ、飛び去っていく。

 すばる、すばる、すばる、すばる……すばるの名前を連呼する大人たち。

 何だ……あの人たちは、一体何を云っていたんだ?

 父さんも母さんも、みんな勝手だ。どうしてボクをかき回すんだ?大人たちの勝手な話なのに、すばるの名前を口にすれば、自分が間違っていないように聞こえるとでも思っているんだろうか?少しでも自分の云っていることが正しくなるとでも?

 勝手だ、やめてくれ、もう、もう……こんな……何もかも、何もかも……

 夏のはずなのに、身体をつつみこむこの冷たさは何なのだろうか?身体中が震え、歯が鳴る。ひざをかかえて小さくなっていなければ、体温が際限なく流れ出してしまいそうだ。

「---、---」

 気がつかないうちに、何度もその名を呼びながら、すばるはしゃくり上げていた。


「何泣いてんだよ」

 どれぐらいそうしていただろうか?不意に、暗闇から声がした。いや、声と云うより、夜気がかすかに振動したような気配だった。

「---?」

 その声に、縁側までにじりよった。廃屋の前の庭に、いつの間にか少女が現れていた。こんなに暗いのになぜか、少女の姿だけは、はっきりと見えた。

「ばか!アタシはもう、行かなくちゃいけないのに、いつまでもめそめそして!まったく……こんな風に引き止められたのは初めてだよ!」

 少女の言葉は荒々しく、突き刺さるようだ。すばるが知る少女とは、どこか違う質量の大きさがあった。眼の前にいるのに、どうしてもそれ以上近づくことができなかった。

「だって……」

 その言葉の響きに圧倒され、声にならない。

「何が、だって……だよ!ちゃんと話してみなよ、意気地なし!すばるの父さんと母さんが来たんだろ?」

「やっぱり……だめだって……離婚するって。ボクを爺ちゃん家に預けてる間に、何度もふたりで話したけど、もうだめだって。母さんがボクを引き取るって」

「親が離婚する子どもなんて、世界中いくらでもいるだろ!自分だけ特別だと思うなよ、甘ったれんな!」

 少女がしゃべるにしたがって、夜気が強くなっていくような気がして、その強くなった夜気に、徐々に少女は溶けこんでいくようだった。轟――と何かの音がする。林をゆらす風の音が、どんどん強まっている。

「どうして、自分たちばっかりで決めてしまうんだよ!ボクが爺ちゃん家にいる間に何もかも、どうして?ずるいよ!」

「そんなの知るか!大人には大人の事情があるんだ。すばるはどうしたいんだよ」

 かずあの言葉に衝き動かされるように、すばるの唇は激しい言葉を生み出した。

「離婚なんていやだ!どうしていっしょに暮らせないんだよ。ボクはどっちとも離れて暮らすなんていやだ!」

 自然と言葉が口から流れていた。父さんにも母さんにも、誰にも云えない言葉が。それを云ってしまったら、三人の関係に自分の意思が割りこむことになってしまう。

 そう、とても入れるように思えない、入るのが怖い大人の世界の事情に、脚を踏みこむのが恐ろしかったのだ。

「だったらそう云えよ!父さんと母さんに、爺ちゃんに婆ちゃんに。独りでうじうじすんな!だからすばるは誰を見たって“のっぺらぼう”にしか見えないんだよ。あれはすばる自身の姿なんだよ!」

「うそだ!」

「うそじゃない、甘えるな!父さんも母さんも好きだろ?だったら思い切って云ってみろよ。逃げるな、とっとと自分の世界にもどれ!」

「そんな……わかってるよ、でも……でもボクなんかが、いくら云ったって……!」

 ほとんど地団太を踏むように叫んだ。

「わかってない!」ひときわ大きく、少女が叫び返す。「何でも自分の思いどおりになるわけないだろ!だめかもしれない、でもやらなけりゃ確実にだめなんだぞ。悩んでたってしょうがないじゃないか!」

 轟――と風が吹きぬける。すばるは何も云えなかった。

 長い沈黙があった。その沈黙がつもっていくように、世界が重みを増していった。少女の姿は、もう完全な闇と同一になってしまっていた。

「もう夏が終わる。アタシも行かなくちゃ」静かにさとすように、少女が云う。「だから……だからね、すばるも子どもの時間を、そろそろ終わりにする時なんだよ」

 少女の言葉に、不吉な響きを感じた。

「---?どこに行くの、---?いやだ。行くな」

 震える声。一瞬、不気味な間が空き、風の音までがやんだ。何かを期待するかのような間だった。

「……だったら……」

 得体のしれない静けさの中、少女の言葉だけが耳にとどいた。それはかすかに、妖しい笑いをふくんでいるように感じた。

「すばるも来る?」

 轟――と、これまでにない強い風が、廃屋の後ろから前へ吹きぬける。身体中に鳥肌が立った。少女の言葉は、とろけてしまうほどに甘く、そして何かしらぞっとさせるものをふくんでいた。自分なんて、とうていはかり知ることのできない、深い深い……ぞっとするような何かを。

 廃屋自身が意思を持っているかのようにぎしぎしと家鳴りし、林の音はすべてを呑みこむかのように轟いている。

 轟――!

 その轟きに思わず身震いをした、そのほんのわずかな間に、いつの間にか深い暗闇が広がっていた。何も見えない。さっきまで見えていた少女の姿、屋内の様子すら、濃くなった夜気につつまれて、いくら眼をこらしても見えない。膝をついている縁側の感触だけが、かろうじて上と下とを判別することができる。

(---といっしょに……行く?どこへ……?)

 轟――!

 嘲笑うかのように、さらに夜気が濃くなっていく。

「---!」

 恐怖にかられて叫ぶ。

 背中から、何か得体の知れない圧倒的に大きな何かが、近づいてくる気配がする。それといっしょに行ってしまったら、もうもどることはできない、そんな何か。振り向いてはいけない。振り向いたら、すべてを持っていかれそうな何かが近づいている。

 轟――!

「アタシといっしょに、すばるも来る?」

 また声がした。轟音の中、今度は耳元でささやくように近くに感じた。

 迫っている。何かが来る――いや違う。何かが去ろうとしていた!

 轟――!

 もう正気でいられないほど、闇に轟音が響きわたる!何もかも呑みこむ暗い風が吹きぬけていく!

 しびれるような恐怖。

 暗……

 でも答えられない。

 何と答えたらいい?わからない。

 答えなければいけないのに、答えがわからない。何も考えることができない。絶望の悲鳴も助けを求める声も、暗闇に呑みこまれていく。

 轟――!

 すさまじい轟音に支配された完全な闇の中のどこか遠くで、誰かがすばるの名を小さく呼んだ。聞こえるはずもないのに、しかしすばるの耳には、はっきりと届いた。

 ……暗。

 ……闇。

 その瞬間――身体中の力をふりしぼって、すばるは心の奥底から、世界を引き裂くように、絶叫していた。

 すばるの言葉を、すばるの何もかもなど、颶風がまるで一枚の木の葉を軽々と呑みこんでいくように、巨大な夏の夜気が世界を圧して、そして轟々――と駆けぬけていき……


 何も聞こえなくなった……

 夜気は相変わらず濃い。でもこの静けさは何だ?まるで……何か大きなものが通りすぎてしまったかのような……

(ばか……)

 姿は見えないが、また耳元で声がした。

 あぁ……すばるは思った。少女がそばにいる。変わらず暗黒の中、何も見えないが、すぐそばにあの少女はいる。背中がふれているのは縁側だから、自分は今、仰向けになっているんだなぁと考える。

「---?」

(……帰りなよ。みんな待ってるんだから)

「……うん」

 すばるは素直に小さくうなずいた。自分が何を選択したのか、あるいはしなかったのか、わかっている。身体中の力がぬけていき、意識が遠くなっていく。

「もう、夏が終わるんだね?」

 すばるが訊ねる。

(そう、もう会わないよ……)

 少女が答える。

 頬を何かが撫でさすって、去っていった。かすかに、笑い声が聞こえたような気がした。あの夏のにおいのする笑顔が、想い浮かぶ。

(ばいばい)

 少女の声。おそらく、すばるが最期に耳にするあの少女の声。とうてい伝えきらないだろう想いをすべてこめて、すばるも別れの言葉を口にした。

「ばいばい……」

 夜気は薄くなっていく。淡くなっていく。何かが遠ざかっていく。それを感じつつ、眼を閉じる。

 ……深い眠りがおとずれた。


(つづく)

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