第8話 オニコさん
店内は土曜の割に相変わらず静かだった。
オニコさん以外には、俺と同い年ぐらいのカップル客が二人掛けの向かい合わせの席に座って、一時間ほど前から追加注文もなくイチャイチャと話を続けているだけだ。
見せつけやがって。
帰れよ、チクショー。
……いや、帰ると家でもっとイチャイチャするか。
許す、帰るな。
このままいろ。
酒飲みすぎて勃たなくなっちゃえばいい。
自分で考えて空しくなった。
やれやれと思いつつ、厨房を覗いてみる。
厨房にいる店長と調理担当の社員も、今日はヒマそうだ。
先ほどからスポーツ新聞を広げて、二人でなにやらずっと話している。
明日は日曜だから、おそらく競馬の話だろう。
京都には祇園に場外馬券場があるし、京阪電車に乗れば淀競馬場もあるので競馬ファンが多い。
日曜はこの店も休みだし、競馬好きの二人はレースの予想に余念がない。
まあ、貧乏学生の俺にはギャンブルなんてする余裕はないし、そもそも未成年で学生の俺が馬券を購入することは出来ない。
店長たちの話には入れないし、今のところは特に用事もなさそうなので、俺はオニコさんのところに戻る。
オニコさんはすでにタバコを吸い終わっていた。
「着替えてきました」
「ご苦労さま。かといって、亮太がモテるようになるとは思えないけどね」
「そんなことは、わかってますよ」
俺はオニコさんの言葉にぶすっとして答える。
そんな俺の様子を見て、オニコさんが手を口に添えて笑った。
俺の知っている同級生の女の子たちと違い、オニコさんの笑い方は、その渾名とファッションに似合わず意外とおしとやかだ。
たった一つしか年齢が違わないはずなのに、とても大人に見える。
「でも、オニコさんと会うの久しぶりっすね。この間の冬合宿以来ですか」
「そうね。合宿から帰ってきて、そのまま実家に戻ってたし」
「オニコさんの実家ってどこですか?」
「群馬の高崎」
「お、BOØWYの出身地。そりゃ遠いっすね」
「うん。だから、長期休みの時しか帰んない」
「まあ、そうですよね。俺なんて、この春休みは帰省してないです。バイトが忙しかったんで」
「今日は、これが二本目のバイトなんでしょ? よく働くわね、勤労学生」
「貧乏バンドマンなだけです」
「そうとも言うわね」
オニコさんが再び笑う。
後輩の俺が、ゆっくりオニコさんと話せる機会は、このバイトの時ぐらいしかない。
モテない俺が、こんな美人と話せるだけでも、このバイトをやっていてよかったと思う。
そんなオニコさんが、この居酒屋「いろは」に来るようになったのは昨年の秋ぐらいからだった。
◇ ◇ ◇
あれは、去年の十月のことだった。
俺はその夜もMajestyのバンド練習後に、いつも通り「いろは」でヒマな店内の店番をしていた。
男性3人組のグループしかいない店内に、引き戸の音が静かに響いた。
「いらっしゃ……て、オニコさんじゃないですか」
「あれ? 君はマジェの……」
「はい。Majestyのベースの井澤亮太っス」
マジェというのは、軽音部内でのMajestyの略称である。
ちなみにオニコさんのバンドは「All Bad Reasons」。
略称はオールバッドだ。
「やっぱり、そうよね。一回生で覚えてる子って、あまりいないんだけど、マジェは一回生のバンドの中では目立ってるからさ」
オニコさんは、俺が案内した一人客用のカウンターに座りながら言った。
軽音部女性部員の中でも群を抜いて美人のオニコさんには、部内のみでなく学内外にまでファンがいる。
だからライブはもちろん、部のミーティング中でさえも、後輩の俺たちはオニコさんと話す機会など全然なかった。
出会って2秒後には女の子に連絡先を尋ねる久慈でさえ、オニコさんとはほぼ話したことがないはずだ。
それなのに、俺のことを覚えてくれていただけでも奇跡である。
これは俺がすごいのではなく、尚樹や久慈などの目立つメンバーがいるMajestyに在籍している最大の恩恵である。
ホント、Majestyやっててよかった。
「亮太は、いつからこの店でバイトしてるの?」
俺が出したおしぼりで手を拭きながら、オニコさんが聞いてくる。
「大学入ってすぐです。もう半年になります」
「そうなんだ。家の近くに、こんな雰囲気のお店があったなんて気付かなかったな」
「ま、ごらんのとおり、それほど流行ってる店でもないですしね」
厨房から店長の「やかましわ!」というツッコミが飛ぶ。
ヒマで時給も高くはないが、ここのバイトが長続きしている理由は、この気安さでもある。
店長の趣味で有線が洋楽ロックをかけているのもポイントだ。
店は「いろは」なんて古臭い名前なのに。
そして一番重要なのが、店長の作る賄いがドチャクソウマい。
これ、とても大事。
「オニコさんは一人でよく飲みに出たりするんですか?」
「んー、そんなに。週に1、2回ぐらいかな」
大学生にしては、充分ハイペースだと思うけど。
「よかったら、これから贔屓にしてや。亮太の先輩ならサービスするし」
店長がカウンターから付き出しを渡しながら、オニコさんに言う。
「じゃ、そうさせてもらおうかな」
オニコさんは、付き出しの筑前煮の味を確かめてから言った。
その言葉の通り、それからオニコさんは、最低でも週一は店に顔を出してくれるようになったのだ。
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