3-7

「そこへ、眩しい笑顔をした碧が目の前に現れた。そのあまりにも眩しすぎる笑顔に俺は思わず……ふぅ。まぁ、こんなところかな」

「……なに、それ。本当の話?」

「本当さぁ。何なら証人だっている。ほら、いつも俺のライブの様子をカメラで撮ってくれている西田麻里っていう女性、覚えてるだろ? 実はあの人もその場に居たんだよ。同じ大学に通っていて仲が良いってことで付き添っていた。信じられないならその西田さんにも聞いてみるといい」

「私、連絡先とか知らないけど」

「そうか。もしも本当に聞いてみたいならまた後日、本人の承諾も得て連絡先教えるよ」

 磯村から聞かされた話は最初の感想通り「本当の話?」だった。だが磯村はその話を淀みなく、ただ淡々と、それでいてしっかりと暗記した文章を必死で思い出しながら読むのではなく鮮明なイメージが頭の中で出来上がっていて話している、そのような印象を持たせた。伊藤の直感では、嘘を言っているようには見えない、それもまた事実であった。

「細かい所は置いておいて、とりあえず大まかな流れは話した。これで納得しただろう? 碧にそんな疑念が生まれたのは俺の周りにまだ漂う幻影でも見てたからだと思う。隠しているつもりでもそこを察知されるのは、やっぱりそう簡単に断ち切れないっていう証なのかもな。特に最初の頃は自分でもかなり引きずっているっていう自覚はあったよ」

「あの曲も」

「うん?」

「あの曲も、つまりそういうことなの?」

 あの曲だけで十分に通じた。何からし思う事はあるだろうとは予想していたが、ここまで晴れぬ疑いを持たれていたということは、そこに結びつけてしまうのはしょうがないことだろう。

「そう。でもあの曲を作ったからこそ、いい加減に区切りを付けて、一歩を踏み出そうっていう気になれたんだよ。餞別せんべつみたいなもん」

「実際はどうなの?」

 間髪入れず質問した。

「効果はあったんじゃないかな。血反吐を吐きながら作った甲斐があって、おかげさまで好評だし。これでバンド活動を本格化させようっていう気になれた。新しい進むべき道筋ができた。あっ、碧もツイッターで宣伝ありがとうな」

 そのまま泥沼には陥らず復調の兆しはある。それは分かったと思いつつも結局、一番重要なのはこれであると気がついた。その最後になるであろう質問を投げかけた。

「じゃあ、私のことは今どう思っているの? なんかその話が本当だとやっぱり私の早とちりもあって、仕方がなく付き合ったみたいになってるじゃん」

「碧には感謝しているよ。だって、あそこで碧が現れてなかったら俺はきっとホームレスみたいにあのベンチで最後は倒れたままになっていたと思う。そこに手を差し伸べてくれたんだから」

「感謝……それだけ?」

「……さっきも言ったけど俺は碧のことは恋愛対象として有りっていう眼では見ていた。そういう意味では好きだよ。でも正直、こんな傷を抱えている今の俺が、碧の求めているような好き、愛しているって言うの? それを求めているなら、まだ無理なのかもな。どこかでまだ彼女を見てしまうような気がする。特に俺達がこれからやろうとしている最中には。だって」

「もういいっ!」

 ここまで話して遠慮などいらないと思ったのでまことの心をぶつけた。それは伊藤を壊してしまう恐れもあったが俺と付き合うということはそういうことだとはっきり言った方が良いと判断した。もう変なわだかまりを残したまま接するのはやめた方がいいと。


 嗚咽しながら膝を抱えてそこにおでこを当てていた。もうすぐで成人を迎えようとしている女性が幼稚園児のように大泣きしている姿を見るのは辛いものがあった。

 本当は今日、最高の幸せな夜を過ごすはずだと胸をときめかせていた。その期待を砕き、その破片を踏み潰して粉々にしてしまった。その果ての姿である。どんどん痛みは増していき胸が張り裂けそうになる磯村。互いに深い傷を負っている。今できることは——

「ほら碧。こっちを向いて」

 半ば強引に体ごとこちらに向かせた。伊藤にはもう抵抗する力は残っていないのかもしれない。ただなされるがままに動くであろう。

 這いつくばって敷布団へ移動させて、そのまま人形のように力なく崩れてしまう伊藤。うずくまるような形になった。なんとか上半身を浮かせて腰を太ももの辺りに乗せる磯村。そのまま背中から優しく、包み込むように伊藤を抱きしめた。

 そこから何もすることはなかった。ただ磯村が顎を肩の上に乗せて伊藤から香る匂いを味わっているかのようである。数十分が過ぎたところでようやく伊藤が枯れた声を発した。

「なに、しているの?」

「なんであの時、俺は伊藤に身を投げて抱きしめたか。それは血が垂れ流れている傷口を塞いで欲しかったからだよ。こうして二人が重なって温もりを感じれば、それが少しずつ癒えて塞がっていくような気がしたんだ」

「うぅっ!」

 その言葉を聞くと伊藤は瞼をぎゅっと閉じて勢いよく振り向き磯村を押し倒した。瞳からは涙も絞りだされる。

 二人はそのまま味わうように体を擦り合わせて感じ合う。身体中が満たされていく、そのはずだったが直ぐに乾いてしまう。だからもっと強く激しくなる。それはまるで満たせば満たすほど乾いていく欲望そのものであった。

「きょういち……」

 伊藤はだらんと口を開きキスを求めた。一番深い。彼女が許すのなら、求めるのなら喜んでする所存であった。

 彼女を傷つけたはずである。それなのになんでこんな事をしているのか解せなかったが川が流れるように、それがごく自然で当然のような気もした。今はこのままこの流れに身を委ね行き着くところまで過ぎるのを待つだけである。


 二人は息を切らしている。溢れる強い想いはあれど体がついていけてなかった。

「ねぇ、もう手も十分にあったまっているでしょ? もっと深く感じたい。一つ、になろう」

 最後の言葉をじっとりとした口調で、そう要求した。磯村は手の甲をおでこに当てて確認した。

「うん、もう汗で湿っているしちょうどいいんじゃない。でも、ちょっと待って」

 半回転して仰向けになる磯村。右手首を両目に乗せて息を整えている。暇だったとはいえ一仕事終えてきた身であると自覚せざるを得ない。眠気も容赦なく襲ってくる。

「じゃあ、今度は私が上になるね」

 磯村と比べればまだ体力が残っている伊藤。抑えられない欲を躊躇なく行動に移した。

「手が邪魔」

 有無を言わさ右腕をどかした。数秒、至近距離で見つめたのちしゃぶりつくような口づけをした。そのまま舌を口の中で掻き回す。

 伊藤の顔がちょうど頭上の窓から入ってくる街灯の光により照らされている。目を凝らせば表情を伺えなくもない。その無我夢中な顔は本能のままに動く動物のように見えた。人間から理性を取り除いた顔だ。

 幼い頃にカブトムシを飼っていた。餌である昆虫用ゼリーを所定の位置に置くとそのカブトムシは余程、腹を空かせていたのかもの凄い勢いでゼリーの汁を吸い尽くしていた。

 倒れている自分に跨り体中から流れ落ちる蜜を舐め回そうとしている伊藤はそのカブトムシとなんら変わらないのではないかと思えた。そんな姿はあまり見たくはなかった、が自分も先ほどまで似たようなことをしていたのかもしれない。

 つまりはみっともないと思っていた。なぜこんなことをするのか分からなくなってきた。萎えてくる気持ちも知らずに「脱いでよ」と上着を脱ぐように求めるが気がつけば既に大きく捲られて上半身の肌がさらされていた。そして伊藤も同調するように上に着ている二枚のシャツを脱ぎ始めた。

 しぼんでいた気持ちはそれによって再び膨張し始めた。何かがもの凄い速さで上昇してきた。それは瞬く間に頭の天辺まで到達して、思考が停止する。

 両手を後ろに回してブラジャーを取り外している。それでもう駄目だった。分かっていた。衣服越しからも膨よかな胸をしていることを。

 見とれている間に伊藤が磯村の上着を脱がし始めた。両手を伸ばさざるを得なくなる、やや乱暴に脱がされた。

「ふふ」

 そんな不敵な笑みが聞こえたような気がした。

「なんだ、きょういち、こう言っちゃ失礼だけど、意外と体、鍛えているんだね。細いな〜っていつも思っていたからガリガリな体を想像してたよ」

 そう言いながら磯村の胸に自身の横顔を当てた。ご指摘の通り磯村は毎日とまではいかなくても2、3日に一回のペースを崩さず、軽い筋トレをある時期からやっていた。今日、その成果が他人から見ても出ていると確認する事ができた。特別、きついトレーニングをしていたわけではない。無理はしない程度に、それでも続ければそれ相応の結果は出る。継続は力なりをまさに実感した瞬間である。しかも付き合っている彼女から褒められる。見事に目的は達成された。

「やっぱり服は邪魔だね。こうして直に肌に触れた方がより恭一を感じられる」

 それは同感だった。そうすることによって何かじんわりと広がって体を駆け巡るものがある。胸の柔らかさが心地よい。乳房の僅かな出っ張りも感じられる。


「うっ、ううっ……」

 急に濁った声が聞こえてきた。

「どうした?」

「なんか、虚しくなってきた」

 伊藤も一旦、我に返った。そう瞬時に受け取った。高ぶった気持ちはやがて地に落ちていく。自然なことだ。

「碧もちょっと休めって」

 それに従い磯村の体から降りた伊藤。磯村の脇にすっぽり入る形になった。

「やっぱり、今のままだと私が乞食みたいに恭一を求めて、言う事を聞いてもらっているみたい。実際にそうなんだろうけど」

「乞食ってなんだよ。よくそんな単語、使うな」

「恭一はただ抱きしめただけだった。そこから先は私が求めたからでしょう」

「……」

「もっと、私がどうのこうのというより、恭一の方から一方的に求められたい。変な遠慮なんてしないで、好きな人の言うことだったら喜んで従っちゃう、そういうもんだよ」

「そういう女性を引っ張っていくのが足りない部分だっていうのは心当たりあるかも」

「私たち付き合うの

「それは、申し訳ないけどそうとも言えると思う。掌を返すようで悪いけど現実問題、たとえ碧があのタイミングで現れなくても多分、俺は深夜になったとしてもフラフラ歩きながら最後は家に帰っていたと思うし。うっ」

 なぜか脇腹に軽く一発パンチをお見舞いされた。

「でも、でも怖いのがあの偶然がなかったら私達、付き合っていないんじゃないの?」

「どうなんだろうな。それは誰にも分からないよ」

「私はもしかしたら、無いかもしれないって思っている。だって私はもっと親しくなりたいって思っていても、自分から連絡先交換しようって言ったりする勇気すらなかったもん。それでも、さりげなく、今思うと違うな、けっこうわかりやすくあなたが好きだって態度でアピールして、あとは恭一の方から歩み寄ってくれるのを待っていた。でも恭一があんな状態じゃ……」

「……少なくともしばらく他の女性とまた付き合おうっていう気にはなっていないと思う。それこそ2、3年は」

「その時には私はもうバイトを辞めているかもしれない」

「まて。そもそも碧が芸能界に入れたのは祐太郎の卒業公演を観に行って、そこでもたまたま芸能事務所の社長に遭遇したからだろう? それができるのは俺と付き合わないと駄目だ」

「今の私は恭一と付き合っていてこそってことか」

「あるとすれば最初に声をかけられた時に、オッケーするかどうかだと思う。それだったら俺は関係ない」

「……きっと恭一と付き合っていなくても断っていたと思う。だから、やっぱり今の私は恭一が居てこそなんだね。私も感謝しなくっちゃ」

「高校卒業するまでバイトを続けたとしても、碧はその後は進学しないで就職。俺と付き合うこともなく、社長から将来を見込まれて専門学校に進学もできなかった。そう思えば悪い人生でもないんじゃないか」

「上手くいっていないのは恋愛だけか」

 こんな綺麗な女性なのに、恋愛が上手くいっていない。人生とは不思議なものだとつくづく思う。やはり誰にでも思い通りにいかず思い悩んでいることは一つや二つはあることを目の当たりにする。それはあなたは特別な存在だと認められた人も例外ではない。

「あの時もしも出会っていなかったらとか、こうしていたらとか考えることもあるけど、そんなこと考えたって過去に戻れることはないんだから変に不安がるのは止めろ。総合的にみて悪くはないって結果が出ている、良かったでいいじゃん。こういうもしもっていう話はここでおしまいにしよう」

「でも、過去に戻りたいのは恭一でしょ? あの曲の歌詞を聴けば分かる」

 胸に針が突き刺さったような痛みが走る。それは急所を突いていた。反射的に左胸を右手で押えてしまった。

「ごめん、今の発言は軽率だった」

 慌てて陳謝する。不意に嫉妬心からなる言葉の暴力が出てしまった。手を出してくるかもしれない、咄嗟にその恐怖も過ったが磯村は立ち上がるという行動に出た。

「まだ、まだあの過去を乗り越えられていない。それは認める。だから、俺がもっと強くなるまで暫く会うのは止めよう」

「えっ、なにそれ」

「碧も言ったけど俺達は付き合うにはまだ早かった。だから無理が生じた。そんな無理をしなくても付き合えるまでにはもっと時間が必要なんだと思う。その時が来るまでは、お互いそれぞれがやるべきことをやろう。碧は4月から進学、俺はバンド活動をするための準備期間ってことで」

「ちょっと勝手に決めないで。それにその時って私達、今度はいつ会えるの?」

「先ずは2年後、碧が学校を卒業する頃に近況を報告し合おう。それでどう変わっているか確かめ合う」

 意外にも具体的な数字が出てきた。それによってその提案に呑み込まれてしまう気さえしてしまった。

「2年も会わないの? その間に他の女と付き合っていましたなんてなったらどうするつもり?」

「俺はない。あるとすれば碧さ。もしもそうなったらそれはそれで受け入れる」

 確固たる決意が沸き上がっていた。磯村の全身からは湯気か、そんなものが上がっているようにも見えた。

「私もあるわけないでしょうっ!」

「じゃあ、大丈夫だな。2年後にまた会おう」

 磯村は善は急げと言わんばかりに脱がされた上着を着た。あまりにも迅速に動くので止める気さえ起きない。あぜんとした表情でただ眺めている。リビングに置いてあるバッグを手に取り、どんどんと足音を立てて玄関へ向かう。

 靴に足を入れた時だった。バッグの中から不穏な音が大音量で鳴り響いた。

「うわぁ、なんだ」

 この音は、聞いたことがある。人間を不安に、パニックにするために作られた音、緊急地震速報の音だった。いつまでも聞きたくないと急いでバッグからスマホを取り出して止めるが、この音が鳴るという事は危険が迫っている事を意味していた。

「うあぁぁぁー!」

 伊藤がつんざく悲鳴を上げてこちらに向かって来た。いや、突進して来た。

「へぇ?」

 またしても玄関で磯村は伊藤を受け止めて倒れた。この場合は倒されたというのが正しいが。頭を打たないように踏ん張った。それと同時に揺れがやって来た。最初は小刻みに揺れていたがいきなり大きく揺れた。その後はフェードアウトしていくように静かになる。家具等が揺れる音も鎮む。

 揺れは20秒ほどでおさまった。早速、スマホで調べてみると千葉県で震度4の揺れを観測したそうだ。一番揺れが強かった震源地も思ったほどの震度ではないことに安堵するが、それでもあの音は心臓に悪い。ツイッターでは新年早々、緊急地震速報かと不満の声で溢れていた。そして地震はおさまっても問題はまだあった。

「碧、もう揺れはおさまったよ。早く離れてくれ」

 言われた通りに離れるものの、その瞳は命乞いしているように潤んでいる。先ずは上着を……とも言いたくなる。

「もしかして帰るつもりだった?」

「そうだけど……」

「嫌っ、帰らないで。あの音を聞いたらもう怖くて一人で居られなくなった」

「そんな、小学生じゃないんだから」

「だって今、深夜3時だよ。こんな真夜中にあんな音を耳にしたら、落ち着けないよ。お願い」

「……わかった。一緒にいよう」

 結局、留まることになった。関係はないと言われたらその通りだろうが、この地震は今宵、二人を引き離さないために起こったものだと思いたくもなった磯村。


『縁』がある。全ての出会いは縁だとあの背が高い先生が最初の挨拶で言っていた。縁があるから私達は出会えたと。

 きっと伊藤とは特に強い縁で結ばれている。2年間、会わなかったからといって切れることはないと根拠はなかったが確信めいたものが今、込み上げた。

「気分転換にシャワー浴びていい? 汗を流したい」

「う〜ん、やっぱり朝になってからね。苦情は言われたくないし。それにまだ途中なのにもう汗流すの?」

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