3-6

 ずっと待っていたと言わんばかりに玄関扉の鍵が瞬く間に開いた。誰が来たのか分かっているからであろう、スピーカーから伊藤の声は流れなかった。

「いらっしゃい。明けましておめでとう。バイトお疲れ」

 扉が僅かに開かれ伊藤の顔が出てくる。久しぶり、と言えばそうだが実際に会わなかった期間よりも、もっと長いのではないと錯覚してしまうくらい伊藤の外見は様変わりしていた。磯村は真っ先に髪の毛に目がいった。

「随分と派手に染めたね」

 直近の姿と思われた例の写真ではまだ髪の色は黒であった。そこから鮮やかに変身しましたと主張するように暖色系の薄いピンクに塗り替えられていた。

「驚いた? 期間限定だけどね」

 磯村を中へと招き入れた。扉を閉めて前を向くとそこには伊藤が満面の笑みで立っている。これが芸能界に入った者の貫禄か、伊藤は以前と比べて明らかに堂々と佇んでいた。上は黒く、袖がふんわりとした長袖のブラウス、下はタータンチェックのロングスカート。普段の部屋着ではない、よそ行き、来客用の服であろう。そして伊藤の服装に対する趣向が変わっていると感覚的に思った。さすがファッション雑誌のモデルに選ばれただけある。それに加えてもしかしたら高校生であるという基準で測れば、金銭的にも少し余裕ができているのかもしれない。

 バイト帰りというのもあるがいつも通り適当に選んだ服で来たのが恥ずかしくなってきた磯村。彼女はどんどん己を磨き美しくなっていた。

「明けましておめでとう。会いたかった」

 そう言うやいなや伊藤は両手を磯村の首に回して寄りかかりながら深い口づけをした。音にするなら、まさにぶちゅーというやや品に欠けた音かもしれない。

 心の準備も何もできていなかった磯村はだまし討ちでも遭ったかのように気が動転して扉に背中がもたれる。しっかりと受け止めてくれなかった伊藤は踵を浮かせてしまい唇が離れてそのまま磯村の胸に飛び込むような形になった。挙げ句、磯村は靴脱ぎ場で尻もちを着いてしまう……。

「ご、ごめん。大丈夫?」

 体が崩れ落ちてしまうと分かった瞬間、伊藤に怪我がないように配慮したつもりだが慌てて確認する磯村。

「うん、平気」

 ゆっくりと、哀愁が漂うような口調で返す。伊藤は磯村の身体に寄り添い両手で包み込まれていた。

「ごめん。俺、日本人だからいくら付き合っているとはいえ挨拶でキスする習慣はなかったわ」

「それ言うんだったら私も日本人だけど」

 欧米かっ、とツッコミを入れたくなったがなぜ伊藤がこのような行動をしたか、その溢れんばかりの真意を存分に浴びた磯村はしんみりとする。

「とりあえず起きようか、下も靴が置いてあって汚れているし」

 そんな事は言われなくても勝手にそれぞれが体勢を立て直す流れになってもよさそうであったが、そうでも言わないと伊藤はずっとこのままでも構わないのではないかという気がしての一言であった。

 スカートを両手で払い磯村から離れる。それに続いて立ち上がり靴を脱いだ磯村は背を向けている伊藤をそのまま抱きしめた。

 彼の方から抱きしめて来るのは実は珍しい事であった。先ほどのトラブルを失態と捉えていた。これを笑い話で済ませてはいけないと。

 一人で寂しく夜道を歩いて来た。だが俺は一人だと思わないように支えてくれたのが彼女である。今日も笑顔で出迎えてくれた。それには感謝しかない。

 伊藤を振り向かせた。ショルダーバッグを肩から下ろして、マフラーと黒ぶちの眼鏡もなぜだが外して床に置く。

 あの日とは違うキスをした。このまま、徐々に激しくなっていくその手前、

「まって。お蕎麦が伸びちゃう。つづきはそれからで」

 少しの間からそれを聞いてふふっと笑ってしまう磯村。それは逃げの一手かい? そんなことがあるはずがないような事を邪推をしてしまうくらい、最高潮に達しようとしていた気持ちに水を差された一言。伊藤はただ純粋に作った料理を気にかけただけだと直ぐに修正はできたが、なぜこっちがその気になっている時に限ってという自己中心的な考えもあった。男はやはり欲情すると理性を保てないのか。

「逆にこっちの気持ちは冷めちゃうかもしれないけど」

 おでことおでこを突き合わせて磯村は言った。

「えぇ、どうしてぇ?」

 今まで大人の雰囲気を醸し出していたのにいきなり小学生にまで戻ってしまったかのような声を上げた。

「うそ、うそ。時間はたっぷりあるんだし、先ずはせっかく作ってくれたお蕎麦を食べようか」


 リビングに入り伊藤はガスコンロの前へ向かい、磯村はテーブル前の床に座る。

「あのさ、こういう私でも平気?」

「えっ、どういうこと?」

「化粧が濃かったり、派手な髪の色をしている女性は苦手っていう人もいるじゃん。恭一はどうなのかなって」

「そういうこと。う〜ん、似合っていればいいんじゃない? 無理していないで自分の良さが引き出させていれば」

「今の私は?」

「最初は驚いたけど、よーく見てみれば似合っていると思うしいいんじゃない? そんな髪の色が似合うって凄いと思うくらいだし」

「そう、よかった」

 ホッとしたような笑顔を見せた。

 待たせることなく海老の天ぷらが二匹、添えられてやって来た年越し蕎麦。それを磯村の前に置くと伊藤は隣に寄り添って来た。

「俺の分だけ?」

「そう、私は先に食べちゃった。二人分を同時に作るのが難しくて」

「そっか。あっ、ちょうど眼鏡外したのは正解だったな」

 箸を取り食べかかろうとして気がついた。この湯気では眼鏡が曇ると。それを理解すると伊藤は笑い声を上げる。

 常時、二人の膝から太もも、肩、上腕辺りはくっ付いていた。伊藤はただニヤニヤしながら磯村を見つめていた。それには率直に食べにくいと磯村は思わざるを得ない。

「なに、ずっと見ているの?」

「えっ? 別にいいじゃん。美味しい?」

「うん、この青ネギがなかなか効いている」

 とは言ったもののこの至近距離で美女に見つめられては味に集中できないというのが正直なところであった。これで落ちない男はいない。

「ふふ。ちょっと着替えてくるね。これだと暑かったわ」

 そう言いながら立ち上がり扉へ向かうが「あっ!」

 伊藤は足を滑らせて両手を床に付けてしまう。「大丈夫か?」

磯村は心配そうに声をかけるが「大丈夫。ごめんね、おどろかせて」

 急ぐようにリビングへ出て行き玄関の左側にある部屋へと入って行った。

 「暑いか」

 この言葉に引っかかった。この冬も真冬、1月1日になにを言っているのかと思うところだが確かにこの部屋は服装によっては暑いと思うかもしれない。なぜこんなにも暖かいのか、磯村は自分の家ではここまで安心するような暖かさに包まれたことはないと思う。

 室内を見回した、後ろを向いた時にその正体を見つけた。リビングに隣接してもう一部屋ある。そのふすまが開放されておりオイルヒーターがリビング側に寄せて置かれていると分かった。駆動している時の音もなくこうして一人にならなければ気がつかなかったかもしれない。設定温度は24度。これは暑いと思った磯村は断りもなく温度を1度下げたのであった。

 伊藤が着替えている間に食べてしまおう、ここで食べるペースを一気に上げた。

 平常心を取り戻したからか、味を濃く感じられる。それにしても蕎麦を食べる間しかあの服装でいなかったのなら、最初からいつも部屋で着ている動きやすい服でも良かったのではないかと思いつつ次はどんな格好で来るのか、そこも気にはなる。

 飲み干すつもりはないがつゆを一口すする。どんぶりを机に置きこの後どうなるのかと考えた時にいよいよ心の準備をしておいた方が良さそうであった。

 蕎麦をご馳走になったら帰る、そんなわけがない。このまま泊まりだ。そのため磯村は下がいつも履いているズボンだと寝る時に動きにくいということでいつも就寝時、履いているジャージだけ持ってきた。

 彼女と初めて一つ屋根の下で過ごす夜。どうすればいいのかいまいち分からなかった。両手を床に置き天井を見上げる。部屋を照らす電気が眩しい。

 眠気が襲って来た、その時に伊藤が戻って来た。磯村は眠気が吹き飛び目ん玉が飛び出るように驚く。暫く伊藤の格好を上から下へ、下から上へと首を往復しながら観察した。その様子を見た伊藤は「あっ、もちろん下は履いているよ」

 白を基調として真ん中にモノクロで欧米の人と思われる女性の写真がプリントされている着丈が90センチ以上はある長いロングTシャツをたくし上げた。その下にはジャージ素材の黒いショートパンツを履いていた。結ぶ紐、端のラインは白い。

 そこを気にしてしまったのが見透かされて恥ずかしかったので少しでも話題を別のところへ持っていこうとした。

「今度はそれで寒くないのって聞きたくなる格好してきたね……寒くないの?」

「うん、平気かな。だってこのオイルヒーターあったかいし」

 そう言いながらオイルヒーターの元へ歩み寄る。この暖かさを頼ってこんな格好をしてくるなら設定温度を下げるのはまずかったかと頭を過る。だがそれを告げる前に伊藤は磯村の方へ方向転換して飛びかかるように屈みながら抱きしめてきた。

「こっちの方がやりやすいでしょう? あの服あんまりシワにしたくないし」

 それが何を意味するのかは察しがつく。女性の方から進んでそんな事を言う時代になったかと、なんでこんな心境になったのか理解できない事が浮かぶ。確かにさっきのスマートカジュアルな装いと比べたらやりやすいのは間違いがないが。そういう意味でも伊藤は先ほど拒んだのか。

「ちょっと待って。お椀片付けるよ。そのくらいはした方が……」

「そんなの明日でいいって」

 と言いつつもここに置いたまま万が一倒したら面倒な事になるとか思ったのか立ち上がりささっと台所の流しへと移動させた。

 それ一つの行動を見ても彼女の挙動が明らかにいつもと違うと分かる。簡単に言えばもはや頭の中は性の事でいっぱいなのであろう。

 周りから一目置かれる存在の彼女。そんな人が今は視野が狭くなりある欲に支配されていた。そんな一面を見て彼女も人間なんだと思った。人間が持つ最も基本的な欲求が曝け出されて。

「じゃあ、歯磨きしていい?」

「えっ?」

 思いもよらない単語が飛び出して振り返りきょとんとしてしまう。

「俺、1日2回は歯磨きしないと気が済まない性格なの」

 言っている事は本当であった。そのために最近では高校の修学旅行の時にしか使った記憶がないトラベル用歯磨きセットを探し出して着替えと共に持参したくらいだ。が、食べ終わってそのままにされている食器を気にかけるといい今度は自分が逃げているのではないかと思えてきた。玄関での自分はどこへ行った、そう自問する。答えはその場限りの勢いが失われた? いや、もっとその下にある、それをもたらした動機が薄れつつあるのだと判断した。なぜついさっきは五本の指をかけたか、それをもう一度思い起こさせた。

「わかった、一緒にしよう」


 二人が同時に歯を磨くには窮屈と感じる、なんとかギリギリ入れる広さであった。肩をくっ付け合いながら鏡の前に立ちシャカシャカとそれぞれのやり方で歯を磨く。

「こうして鏡の前で並ぶとやっぱり碧、背高いね。何センチあるの?」

「167」

「170はないのか。それでも女性にしては高い方だけど」

「よく言われる。最初に話した時の第一声が背高いね、だもん」

「場合によっては男子より高いって事もあったんじゃないの?」

「うん。だからたまに悔しいのかわからないけど、それでバカにされた事もあるし。まぁ、相手もほんと160どころか155センチもない男子だったから彼は彼で同じように背低いことをいじられていたんだけどね。男子にとって背が低すぎるはコンプレックスになるよね」

「そうね。逆に背が高いのをコンプレックスに感じる女性もいるし。181センチあった小学校時代の担任がそうだったんだけど、たまにそれを引き合いにして、周りからよく言われたけどそれでもめげずにに生きてきたみたいな話をしてたな」

「ふ〜ん。私は特に何とも思わないけどね。むしろそのおかげでモデルに適しているって言われているからよかったよ」

「それは言えてるな。たまに美容院で男性ファッション雑誌に目を通してモデル募集の広告とか見るんだけど条件が身長175センチ以上とかあるんだもんな。どんなに容姿が良くても、自分ではどうしようもできない身長で駄目だって言われるならほんと選ばれた人がなれる職業って感じはする」

「恭一はいくつなんだっけ?」

「176」

「おめでとう。ギリギリ満たしているじゃん」

 互いにはっきりと何を言っているのか一語一句聞き取れているわけではなかったが大まかなニュアンスは伝わり会話は成立していた。こんな雑談をしていると思いのほか磨く時間がいつもより長くなっていた。日常生活で行なっている単なる作業に誰か一人加わった事によりその時間がいつもより何倍にも楽しく思えた。この感覚を味わったのは久しぶりだと磯村は密かに思っていた。

 伊藤が先に口をゆすぎ洗面台の出入り口前に移動した。それに続き磯村も溶けた歯磨き粉を吐き出し口をゆすぐが、「……あのさぁ、お湯って出ない?」

「お湯? あぁごめん。うちのアパート、深夜帯になるとお湯が出にくくなるらしいの。深夜にシャワー浴びる人がいるとその音でうるさいって言ってくる人がいるとかで」

「でも、出ないわけじゃないんだろう?」

「う〜ん、でも出るまでに時間がかかったとか、あんまりあったかいお湯は出ないとか言ってたような……なに、水でうがいするのが嫌なの?」

「いや、違う。理由はこれ」

 横にある突っ張った伸縮棒に掛かっているバスタオルを拝借して手を拭いた。水分が十分に拭き取れたと確認すると不意打ちのように磯村は両手を伊藤の両頰に当てた。

「きゃっ! 冷たいっ」

 たまらず手のひらが触れた瞬間に首を下に振りその手から逃れる伊藤。事情を分かっていない人がこの様子を見たら触られるのが嫌で拒否したという風に思うだろう。この反応は予想通りだったが地味にショックを受けた。

 怪訝そうな表情を浮かべ伊藤は磯村の顔を見た後に視線を両手に移した。そしてゆっくりと自らその手へと伸ばし何かを確かめるように軽くタッチして、その温度を感じた。

「なんで、こんな冷たいの?」

「さぁ、なんでだろう。俺にもよく分からない」

 冷凍庫から取り出したアイス? いや、それよりも冷たいかもしれない、とてもこれが血の通った人間の手とは思えなかった。

「この手で碧の、例えばあんな所やこんな所を触っても耐えられる?」

「うっ……」

 それを想像したのか、さっき束の間感じた冷たさと照らし合わせて自分がどういう反応をするのかを見立てた。答えは苦痛とも言える悲鳴をあげるだ。

「夏だったらひんやりして保冷材みたいって言われて喜ばれるんだけどね」

 この何気ないつもりで言った一言であるが伊藤にはある影が一瞬、過ぎった。


 「ここ、普段は碧のお母さんが寝ているんだよね? そう思うとなんか落ち着かないな」

 どうすれば温まる? という問いに単純に暖かい部屋に居れば次第に触っても耐えられるレベルまで落ち着くと言ったのでオイルヒーターで十分、室内が温まっているリビングに隣接する部屋に布団を敷いて留まる事にした。本来は伊藤の寝室に移る予定であったらしい。

「私も自分の部屋が良いけど、気温の低い場所に移ると直ぐにまた冷たくなるんでしょ?」

「そうだね……」

 リビングも含めて電気は消された部屋。温まるまで肌には直に触れないようにという注意を払い二人は伊藤の母が使っている敷布団に横たわっている。街灯の明かりが一筋、室内に入ってくるとはいえそれは完全なる闇を多少和らげるだけに過ぎない。さらに伊藤は磯村から背を向けているのでどのみち顔は見えない、が耳元から声が聞こえてくるのでその度に表情が脳裏に浮かび上がってくるような気がしていた。今、伊藤は磯村を眼で見るではなく心の眼で見ている。

「こんなんだったら私の部屋をオイルヒーターで暖めておけばよかった。やっていくうちに暑くなるのかなって思ったんだけどね」

 その発言に苦笑いをしたくなるが、実際はどうなのかと考えを巡らせてみた。

「じゃあ、なに、恭一って冬はいつもこんなに手冷たいの?」

「そう、なのかな。少なくとも家ではそうかもね。エアコンの暖房くらいだと手まであったまらないから。だからこのオイルヒーターはいいなって思う。これだったら体の芯まであったまりそうで」

「部屋が暖まるまで時間かかるのがネックなんだけどね。えっ? あっ……」

 この状態で、誰も邪魔をする者はいないのにただ布団の上で横になっているだけというのはやはり物足りない。磯村は上から伊藤の耳たぶのした辺りに口づけをした。

「ふふっ、くすぐった〜い。あっ! あ、あっ……」

 今度は右手で胸の膨らみ部分を掴み揉みだした。許された者とはいえ久々にテリトリーに侵入された。まだ慣れていない、その戸惑いが溢れる感情に僅かでも含まれていた。

「本当だったら、ここからシャツの中に入れたいんだけどね。まだちょっと冷たいと思う」

「そういえば聞いた事がある。手の冷たい人って心から優しい人が多いんだって」

「俺も聞いた事あるな。それってなんでなの?」

「理由は分からないな。でも恭一を見ればそれも納得するな」

「じゃあ、こういう時も優しくしないとな」

「お手柔らかにお願いします。私、ここから先は初めてだし」

 その刹那、余計な事を言ってしまったと思った。私は初めて、だが磯村は? そう思ってしまったらもう止められない、そこが気になってしまう。確か以前にも彼女が居たと言っていた、なら……。

「そっか、俺たちまだキスしたりほとんど衣服越しから軽い前戯みたいな事しかやってないもんな」

「ゼンギ……なにそれ?」

「うっ、そうか知らないか……まぁ、本番前の準備体操のようなもんだよ」

「なるほどね!」

 もう直ぐ卒業とはいえ彼女はまだ高校生だ。自身もそういう言葉は高校を卒業してから、有り余る時間があったが故にネットで調べて知る事になる。自分がそうなら現時点で知らないのも不思議ではないかもしれないと些かギャップを感じた。ましてや磯村が初めての彼氏ならこういうのに興味を持ち始めるのはまだまだこれからだ。

「恭一は、その、もう経験あるの? この先も……」

「へっ、おれ……?」

 我ながら震えた、間抜けな声が出てしまったと思った。なにも浮気の疑いを追求されているわけではないのだから普通に答えればいいのだが『以前』の彼女について思い出すのは磯村にとってはタブーに近いものがある。伊藤はそれを知る由もないが。

「……うん、俺はあるよ。一度だけ」

 心ここにあらず。まるで機械の音声が流れたように言い放ったが『一度だけ』は強調した。

「そうだよね。なんかキスとかはもう慣れている感じもあったし、やっぱりあるよね」

 落胆の色を隠す事はなかった。こっちは初めての彼氏、初めての肉体関係、なら向こうもというのが理想だったと認めた。

「そんな落ち込むなよ。付き合い始めた当初から前にも彼女がいたというのは話したじゃん。それで別れてくれて感謝するみたいな事言って……」

「あの時はまさか付き合えるとは思ってもみなかったから、そっちの嬉しさの方が大きかったんだろうね。けど、改めてこうして一番深い関係になろとしている手前、その前に相手はもう先にやっている人がいるっていう現実を突きつけられたら、やっぱり少しは悲しくなっちゃうんだよ」

「これが、年上と付き合うって事だよ。こっちはもう付き合い始めた時点で一足先に高校卒業しているんだから」

「分かってる。でもまだ恭一と同じ歳でも経験ない人だって世の中にはたくさんいるし、このくらいの年齢だったらまだそういう希望くらい持たせてよ」

「うん、気持ちは分かるよ」

「ところで……」

「なに?」

 そう言いかけるものの伊藤は言葉に詰まった。この先の事を言っていいものなのか迷っている様子であった。

「今更なんだけど、もう一度聞くね。……いや、やっぱりいい」

「なんだよ、気になるじゃん。そこまで言ったんだから最後まで言えよ」

「……じゃあ……言うねっ」

 そう言うと伊藤は起き上がり正座をした。磯村を見下ろす形になった。なぜ姿勢を変えて改まるのか、理解できない磯村。そのままよく見えない伊藤の顔に視線は移して固まってしまった。

「そうだよね。この際、私たちが一つになる前に確認した方がいいのかも。この疑問を晴らさないで先にはいけない……あの、私のどこが好きで、なんで私と付き合いたいって思ったの?」

「えぇっ?」

「なんであの時、私を抱きしめたの? 本当に私の事、好きなんだよね?」

「ちょっと待て。落ち着けって。どうしたの急に?」

 最後は涙声に近かった。捲したてるように質問する伊藤を宥めようと磯村も上半身を起こして伊藤と同じ目線に立つ。いじけているような表情をしているようであった。

「私、気がついたの。まだあの時の疑問に答えてもらっていないって」

 心当たりがない、斜め下を向き考える仕草を見せる磯村。そちらが気づかないようならこうするしかないというように伊藤はまた口を開く。

「じゃあ、一つずつ聞いていくね。なんで私と付き合いたいって思ったの?」

 あの日を思い出す。まだ伊藤が敬語で磯村に話しかけていた時——それに磯村は。

「それは、人をす……」

「好きになるのに理由なんてないって言ったね」

 磯村が言い切る前に伊藤がスパンとそこに被せて言う。両肩がビクっと上にあがる。それは恐怖からくるものであるかのように。

「それはそうだと思う。恋愛対象として見られる人って会うだけでも勝手に胸がときめくもんね。それを恋って言うんだろうね。次の質問。なんで私をあの時抱きしめたの?」

 それになんて答えた、記憶を探る。確か……。

「碧があんなに近くに寄ってきたから、思わず抱きしめた」

「そう言ったね。そんな何も、前後の流れもなくもなくいきなり無言で抱きしめるくらい私の事が好きだったんだよね?」

 なぜか「そうだよ」とは即答できなかったが小刻みに首だけ縦に振り異論はないという意思表示だけはした。

「……これだけだったら別にそんなおかしな所はないと思うけど恭一、あの時はひどく落ち込んでいたからベンチに座って休んでいたんだよね? その理由は?」

「姉貴が亡くなった事がまだ受け止め切れていなかった……」

「そう。あの日は色々とキャパオーバーの事が起きて頭が回らなかったけどさ、よくよく考えてみるとなんか納得いかないよね。そんな精神状態だったのに、いくら好きな女性が近寄ってきたからって抱きしめるの? 別にそれでもおかしくはないよ。だってひどく落ち込んでいる時には誰かに抱きしめてもらいたいっていう人はいるもんね。でも、だったら、あの時私を抱きしめたのは恋愛感情からくるものではなくて、ただ慰めてもらいたかったからじゃないの? それを私は舞い上がって勘違いしたっ、私の事が好きなんだって……違う?」

 遂に核心を突いた所にきた。聞くのが怖くなる核心に。伊藤の頰には雫が一筋、流れている、それは声色からほぼ間違いなかった。俯き黙っている磯村、伊藤は最後の力を振り絞り聞いた。

「私の事、本当に、好きなの?」


 数秒の沈黙すら耐えられず息を吐いた磯村。観念したかのような一息だった。「よっこらしょっと」と言いながら後ろにある洋服タンスに背中を委ねる。

 当たっているんだ、伊藤はそう確信した。魂が頭上から抜けていくような脱力感を味わう。ポンと触っただけで倒れてしまうほどに。

「なるほど。よく気がついたね。まるで名探偵の推理を聞いているかのようだったよ。いや、さすが女の勘は鋭いって言うべきなのか」

「じゃあ……」

「いや、厳密に言えば勘違いはしていないよ。俺も碧の事は恋愛対象として見ていた。見ていたけど、もう付き合う事はできない事情があったんだよね。それはもうそれを聞いたら誰もが諦めるしかない事情が。でも、俺が碧を抱きしめた時にはもうそれは無効になってしまった。いつ無効になったかと言ったら、なんと俺と碧があの日ばったり会う数分前」

「なにそれ、どういうこと」

「ごめん碧。俺は嘘をついていた。碧はあの日、直ぐに実はお父さんが亡くなっているって告白してくれたのに俺は未だに本当の事を隠している。これだけはたとえ俺達が結婚する事になっても話す事あるのかなって思っていたんだけど、もう隠し通す事は無理みたいだね。そこに疑問を持たれてしまった以上は。もしも話すなら、できればもう少し落ち着いてから、何かの拍子で自分から話すのが理想だったけど。今みたいな碧は見たくなかった」

「なんなの? ねぇ、なんなの?」

 四つ這いになり詰め寄る伊藤。もはや何がなんだか分からない。所々、見せた動揺は消え失せて腹を決めてどっしりと構えている磯村を見て、話したくない事を告白するのになぜなのか。一体どんな話が飛び出すのか固唾を吞む。

 伊藤も洋服タンスに寄りかかり体育座りをする。

 

 一度、伊藤の顔を見た後に正面の白い壁を見つめながら話し始める。その調子はまるで子供におとぎ話を聞かせるようであった……。

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