3-5

 遂に越してしまった。今までは少なからずこの日を迎えるにあたって高ぶるものがあった。この時期ならではのテレビ番組を点けながら近所のお寺が鳴らしている除夜の鐘に耳を傾ける……。

 天井を見ながらそう思い返し、首を元の位置に戻す、目の前に広がる現実を見た。ガムや飴菓子などが陳列されてある棚がレジ台を挟んで眼前にある。店内は年中、変わらず白い発光で照らされている。夜間、周りも静かだからか商品を冷やしている冷房の音がやや耳障りなくらいに聞こえる。

 見飽きた光景を前に今が1月1日なのか、疑いたくなった。多くの国民がそれぞれの正月休みを過ごしていることだろう。現に今日は平時と比べれば段違いで客の出入りが少ない。暇すぎてタバコが収められている引き出しを一つひとつチェックして向きが統一されていなければそれを直した。中には逆さまに立てたれている物もあったので思わず「ちゃんと入れろよ」とぼやいてしまった。そんな独り言を言っても誰も振り向く者はいない。

「では、お疲れ様です」

「あっ、はい、お疲れ様です」

 ガタンとバックヤードへ通じる扉が開く音がして直ぐに明るい声でそう言う者がいた。ヘルプでやって来た他店のアルバイトスタッフが一足先に帰って行ったのだ。この誰もが休みたいと思う時期、年中無休で営業しなければいけないコンビニが人集めに苦労するのは言うまでもない。そのためいつもより人員を削っている。それでもやっていけるくらい暇になるのは救いだ。磯村も本来、深夜0時に帰れるところだが深夜帯で働く人数を2人から1人に減らしているので、念のためもう少し、あと1時間残ってもらう事になっていた。普段、深夜帯で働く人の意見によると深夜1時から早朝6時までの間は目に見えて客の来店が少なくなるというのが根拠としてあるそうだ。それでもこのくらい暇であれば一人でも良さそうなものだが万一、普段は起きないトラブルが起きても対応できるようにどの時間帯も最低2人のスタッフを配置するというのが決まりとしてあるのも後押ししていた。従業員の事を考えてくれている決まりではあるが今に限って言えばそれが仇となっている。早く、帰りたい、その一心の磯村にとっては。

 こういう役割を担わされるのはたいていフリーターというご身分の人だ。磯村もマネージャーから出てくれそうな人という眼で見られている。学生、家族がいるパートのおばさん達はみな何かしらの事情で出られないと言うのは経験から分かっている以上は。12月はいつも隣に居た峰倉も今日はさすがにいない。裏で3台あるレジの1台を精算している深夜勤務の人もそれに該当する。ここでも世間の枠組みから外れている者というレッテルを自虐的に貼り、勝手に疎外感を感じてしまう。

 いや、待て、そういう訳でもなかった。先程まで一緒に働いていた吉田というアルバイトは大学生だと言っていたのを思い出した。別に今日限りで、もう会う事もないであろう人の個人情報を知りたいとは思わなかったが向こうがお喋り好きなのか、暇だというのもあいまって次から次へと雑談を話してくるうちに大学に関する話題にもなって判明した。どうやら大学はこの駅が最寄りで、いつも通っているからこの周辺は馴染みがあるという。それを聞いた途端、傷口を刺激された。という事はこの吉田という人物はおそらく……。

「僕はこれから就職関連であまりもう出られなくなるので、こういう休みの時に稼ぎたいんですよね。ほら、大晦日、正月さんがにちに出勤すれば特別手当も出るじゃないですか?」

 吉田が所属する店舗はできる限り稼ぎたいという人が多いから深夜帯以外は順当に人員を埋める事ができたとも言っていた。それで人手が足りない他店へ回った。やはり同じ看板を掲げていてもそれぞれ事情は異なるのか。

 ともあれ『世間』と違う事をしている、その自覚はあるし自らの意思でやっている、はずなのだが、こうして周りに誰もいない空間にポツンと身を置いた時、無性に寂しくなるのは確かだ。

 ふと目をやった時に大勢で作られた輪があるのを見つける。自分もその中に入りたい、入ればそれだけで安心するような気がした。小学生の時、中学生の時、そして高校生の時も何度そう思った事か。

 その価値観を改めていきなり一人でも寂しくはないと言っても、今まで積み上げてきた経験の影響は大きい。そう易々と過去の自分と決別できないのだと思い知る。そう、過去の自分だったとしても完全に無かった事にすることはできない。頭の中、記憶の地層に、己の背中に幾つも重なっている影としてこれからも存在し続けるだろう。


「では、お疲れ様です」

「はい、お疲れ様でーす」

 いつも挨拶の時だけは愛想が良くなる深夜アルバイトスタッフが高めの声で返した。あれから誰一人として客は来店しなかった。1時間突っ立ているだけでもお金が貰える、そう考えればこの時期の深夜帯勤務も悪くはないと、強引にでも良い面を見出した。これが『世間』から外れた者が受けられる恩恵というやつだと。

 自動ドアが開かれると寒気が全身を襲う。たまらず顔をしぼめる磯村。いつも乗っているバスは祝日ダイヤというのもありとっくに運行を終えている。このまま歩いて家に帰るのであればちょっとした苦行だが、そうではなかった。そもそも退勤する頃には帰りのバスが無くなっている、そう強く主張すれば今日のような退勤時間は無しにする事もできた。交通費は貰うが歩いて帰る、これも厳密に言えばルールに違反している。マネージャーもそれは分かってはいただろうが今回だけだし、人員を埋める事を優先して目を瞑って磯村に頼んでみるのだろう。

 そういった穴を突かずにこの退勤時間で働く事を今年は呑んだ。今日に、今年に限り帰る場所は自宅ではないからだ。


 伊藤が正月の日は一緒に過ごそうと誘ってきた。クリスマスも互いの都合が合わなかったしそこに異存はなかったが、今までと様相が異なる。大晦日の日から1月2日まで伊藤の母親が実家へ帰省する。高校2年生までは毎年、娘の伊藤も共に帰省していたが今年は留守番する事を選んだ。それはなぜか、詳しい理由は話さなかったが。磯村は伊藤しか居ない自宅へこれから出向く。ちょっと遅いが年越し蕎麦も来る時間に合わせて用意してくれているという。

 気がつけば磯村も高校生になってから母の実家に帰省する事がなくなっていた。それぞれいつの間にか自分の事を優先し始めてそっぽを向き親の両親を寂しがらせるのか。それは磯村の家にも誰もいない事も意味していた。ただし父親は別の理由である。磯村の父は今、2年前から祖母の介護のため基本的に寝泊まりは実家で、仕事帰り夕飯を食べに顔を出す程度になっている。認知症の症状はあるが身体に染み付いた生活習慣はこなしており、一人で歩けない事はないから楽な方であるものの、いつ転倒してもおかしくないくらいには足腰が弱っているためなるべく一人にはしておけないからだ。

「なんだかみ〜んなバラバラになっちゃったな〜」

 周囲に誰もいないことをいいことに大きな溜息の代わりにこんな言葉を吐いた。家族、親戚一同、団欒だんらん、そんな時代が確かにあった。それはもう戻ってこないし、再びやって来る事もないような気がした。

 昔を思い出し、それに浸り懐かしむ事が多くなったと最近思う。叶うのならもう一度手繰り寄せたい過去もある。なぜ前を、未来を向けないのかは分からない。

「ここか」

 スマホの画面をじっと見て確認する。住所を教えてもらい辿り着いた。横断歩道を渡ったら右に曲がりそこから5分ほど歩き今度は左に曲がると住宅街になっている一画がある。ここへ来るのは今日が初めてであるが元が慣れ親しんだ街なのでネットで調べて地図を見た時からなんとなくここら辺かとイメージはついていた。外壁は白い3階建てアパート。そこの2階に伊藤の住む部屋がある。数段の階段を上がり念のため出入り口前のプレートに刻まれているアパート名を見て、教えてもらった名前と一致しているかも確認する。

 開放されてあるガラス張りの扉を潜り抜け右側には部屋の数だけポストが設置されていた。いつものような調子で階段を上がると足音が予想以上に響いた。時間帯も考えると慎重に上らざるを得なくなる。

 随分、変わってしまった。過去は振り返るとよく見通せる。前を向き今に視線を移すとそれだけは言える。環境、関わる人、何もかも変わってしまった。

 その象徴とも言えるのが彼女という存在か。彼女ともまたいつの日か目の前から消えてしまう事はあるのだろうか。あるとしたらどういう時? あまり良い未来ではなさそうだ。まだ先は見通せない、濃い霧の中を歩いている気分だ。だが手を伸ばせばそこには扉がある。磯村はボタンを押してチャイムを鳴らした。

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