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 不思議としか言いようがない。改めて伊藤から送られてきた写真をまじまじと眺めた。こんな男なら誰もが喜びそうな写真を見ても、情欲のような感情が殆どわいてこない。いくらいきなり声をかけられてスカウトされるような美女でも上半身、背中くらいではなんとも思わないのか? いや、そうだとしてもここまで無関心でいられるわけがない、健全な男子なら。

 よく見ると下着がズボンからはみ出ている事に気がついた。なぜだかわざと、意図してそうしているように感じた。それなのに相変わらず気持ちはフラットなままだ。女性の方から進んで身体を張ってくれているのに申し訳ない気持ちにもなる。

 心的外傷、トラウマとはこの事を言うのか。頼むからもう止めてくれ、そうとしか思えなくなったと分かった。

 既読が付いてしまった。いつまでも返事をしないともどかしく思うかもしれない。磯村は今度は自分の目の前でその格好をしてくれというような返事をした。こういう写真は送らない方がいいとは言えなかった。もしも『なんで?』と聞かれたら、返す言葉と言えば……

『もしも俺達が万が一……』この後の言葉を言うとまたいざこざが起きそうであった。


 何やら胸にしこりができた状態でバイト先に出向いた。伊藤の返事は直ぐにきた。磯村のためならどんな格好でもすると言わんばかりのテンションであるとうかがえる。ここまで身も心も捧げられると嬉しさよりも気が重くなるのはいつものことだ。やはりまだ彼女の想いを受け止め切れる事はできないみたいだ。一体なぜこんな前向きになれない人間になってしまったのか。

 ロッカーにショルダーバッグを入れて自分の制服をその横に設置されてあるハンガーラックからかき分けて取り出す。後ろから声が聞こえてきた。

「あっ、磯村さんだ。また一緒なんですね」

 磯村より少し遅れて事務所に入った峰倉美里みねくらみりはゆったりとした口調で話しかけた。今年の9月からアルバイトとして働き始めた19歳の大学生。ここまで一度も身勝手な理由で欠勤、遅刻をする事なく働いているので磯村は真面目な子と見ていた。

「なんか今月はずっと一緒だよね」

 働き始めた当初は夕方から21時か22時までと働いていたが、せっかく夜間の時間帯も働ける年齢とマネージャーから提案されたので11月から深夜帯に働く人と交代するまで働く事にした。それは磯村と同じ時間帯に働く事を意味していた。

 峰倉が磯村に近づいてくる。磯村は邪魔にならないようにロッカーの前から離れようとすれ違うように抜けようとするが、「あっ、ごめんなさい」

 肩と肩がぶつかった。磯村はなんとか避けようとしたはずだがなぜかぶつかってしまった。それは峰倉の方は敢えてぶつかってきたからではないかと咄嗟に推測してしまう。峰倉の顔を見るとトロけるようにニヤついていた。

 彼女はいつも自分を意識してくれている。客がタバコの銘柄を告げると手の空いている時はいつも先に取って渡してくれる。話すとおっとりしてフワフワしている印象なだけあってその素早さには驚くべきギャップである。

 12月に入ってからは不可解なことがあった。彼女は磯村より一時間早く、23時に退勤できる。磯村が帰れるのは日付けが変わる深夜0時だ。帰るタイミングは被る事はないはずなのだが、彼女は退勤時間を過ぎても働いていた。23時以降はバックヤードの飲料が保管されている冷蔵庫に入り商品の整理をしたり品出しをしている。

 そして、磯村が帰れるタイミングに出てきて一緒に店を出る。昨日、初めてそのような事になった。今宵も昨日と同様の事の流れになっていた。

「峰倉さん、なんで頼まれてもいないのに残業しているの?」

 もしも好き好んで残業しているなら理解できない、そのような口調で質問した。

「えっ、それは、やっぱり納品された商品を倉庫にしまうだけじゃ、中途半端だと思って」

 日本の職場では決められた時間通りには到底、終わらない量の仕事があるのが常である。だが最近はマネージャーの方から指示がない限りやり残しがあっても残業はしてはならないと明確に決まり事として周知された。峰倉のやっている事はこの店ではありがた迷惑の部類に入る。

「今はもう残業はするなって言われているんだからダメだって。タイムカード押した時間見れば残業したっていずれ分かって注意されるよ」

「タイムカードはちゃんと定時に押しているんでその心配はないと思います」

 磯村は余計に驚く。それはつまりサービス残業を意味していた。なぜ、なぜだ。そんな言葉が頭を駆け巡った。こんな人が存在するなら日本の長時間労働など改善されるわけがない。まさか頼まれてもいないのに率先して残業をする、そんな人種もいるなんで夢にも思わなかった。しかも彼女はまだ19歳という社会人としての自覚もまだそこまで芽生えていないであろう歳。給料は貰えなくても働きたいという人がいるなら、それは生まれ持った資質で歳は関係ないのであろうか。

 ロッカーの前で磯村はここで働き始めてから初めてと言っていいくらい厳しめに注意した。峰倉は直立不動で、俯きながらも黙って聞いている。

「俺はもうここで2年くらい働いているから分かるけど、ちゃんと労働に関する法律は守ろって意識が根付いている店なの。場所によってはその善意に甘える所もあるかもしれないけど、ここでは絶対にしちゃ駄目だからね」

「はい、分かりました」

 性に合わない事をしたので一つ息を吐いた。言いたい事を言った後はもう切り替えていつもの調子で話しかけた。肩を並べて店を出る二人。帰る方向は同じであった。昨日は何も会話をする事なく別れたが2日連続で流石にそれは気まずいと思った磯村は……。

「ここから家近いの?」

「はい、歩いて帰れます」

「そうなんだ。近くていいね。俺はバスだから」

「こんな時間までバスあるんですか?」

 飛び跳ねるようにびっくりする峰倉。その様子を見てそこまで驚く事かと首も傾げたくなる磯村。

「うん。数少ない深夜バスが走っている路線なんだ。あと一本で終わるから逃せないよ」

 束の間の会話であった。別れの挨拶を一言済ませて磯村はバスターミナルへ行くため階段を降りて、峰倉はそのまま真っ直ぐ東口広場を通り抜けた。

 その数十メートル後ろには伊藤が見張るように二人を凝視していた。いつから居たのか、この瞬間を目撃するために待ち伏せをしていたようだった。

「今日もか」

 他人にはとても聞き取れない小さな声でこう言った。


 なぜこんな事をしてしまったのかは分からない。昨日もたまたま伊藤が所属する事務所が主催した忘年会の帰り同じくらいのタイミングで、今日は少しそれより遅いと思ったが、かつてバイト先で働いていたコンビニから磯村と知らない若い女性が出てきたところを見てしまった。当然その知らない女性はそこで働く新しいアルバイトと思うのが普通である。が、あの店の内部事情を知っている者からして気になるのはあの時間に二人が同時に店を出る事は有り得ないということだ。どちらかは1時間前、23時にあがれるはず、なのになぜ。退勤時間に変更があったのであろうか? まだ自分が辞めてそこまで経っていないのでそれはないんじゃないかとみた。

 伊藤は帰る方向が同じなので無意識に彼女を追っていた。駅から離れて最初の横断歩道。昼間は歩行者も車も絶え間なく行き交う場所も今の時間帯はさすがに静かだ。彼女はそのまま真っ直ぐ歩いて行った。伊藤は横断歩道を渡ると右に曲がることになるので追えるのはここまでだ。この先にある長い坂道の所々に建ち並ぶマンション、アパートの一帯のどこかに住んでいるのだろうと予想した。

 伊藤とはまたタイプが違う女性ではあるが、女性として魅力があるのは間違いない。多くの男性が可愛いという第一印象を持つであろう。

 だからといって磯村が裏切るはずがない。そこは信じる。それでも自分の知らないところで他の女性が本気で磯村を狙っている所を見てしまったからにはあまり気分が良いものにはならない。

 磯村は誰が見てもかっこいい、多くの女性が惹かれる。バンド活動でもそこそこ人を集められてそれは分かっていたことなのに、こうして目の前でそれを具体的に見せつけられてようやく実際に起こり得る現実として認識した。

 悔しいのは現時点で彼女の方が磯村の日常に入り込めているという点だ。同じバイト先で働いている以上は何もしていなくても普段の生活を送っているだけで自然と顔を合わせる。今の伊藤と磯村はそうではない。

 きっとそのような境遇のカップルは世の中にたくさんいる。その隙間を狙って男は別の女と接触をするのか……!

 そこからいわゆる浮気にまで発展するのは容易に想像できた。いや、磯村に限ってはそんな事はないともう一度言い聞かせるが、なんだか気にくわないのは間違いない。伊藤と会えなくても別の女で補える、そんな事は許さない。

 伊藤は一刻も早くまた磯村と会いたいと強く思う。彼の頭の中を自分で一杯に埋めつくすくらいに濃い時間を過ごしたい。できるだけ早く、そしてもっと多く。あの願いも叶えてあげたい。

 ……この溢れる想いはあと3日経てば満たされるはず。キリっとした表情になり頷きながら力強く一歩を踏みしめた。

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