3-3

 世間は休みムードだというのに——これが逸れた道を歩む者の宿命か、などと思いつつ孤独を感じないわけではなかった。

 昨日、これから1年間は英語をみっちり勉強すると約束をした。そしてファミレスを出た後、高梨は実家にある英語の参考書を貸すと言ってきた。それを聞くと反射的にしかめ面になりそうになるも、それをなんとかこらえて、

「でも、そんな学校で勉強するような事をやっても、現地の人からしてみたら不自然な英語しか身に付かないって聞くけど……」

「それは話す、コミュニケーションを取る場合だよ、きっと。英語の歌詞を書けるようになりたいのに基本的な文の成り立ちとか勉強しないでどうするんだよ」

 無意識にやっぱり勉強をしたくないと思っているからこんな事を言ってしまうのか、その通りの事を言われて納得するほかない。

「よし、善は急げだ。今日のうちに貸すよ」

 なんと高梨はその日のうちに渡すと言いだした。夜も22時過ぎ、遅い時間帯と言ってよかったのでそこまでしなくていいと磯村は言うも高梨は聞かなかった。

 一旦、駅で別れたのち高梨は参考書をリュックサックに入れてわざわざ自転車に乗って磯村の自宅まで届けたのであった。

「迷わず30分で来れたよ、イメージしていたよりは近いと思ったわ。ただ帰りは坂道を登らなきゃいけないからきついと思うけど」

 この言葉だけを言い残し、用が済んだらと思うと無駄話をする事なく颯爽と消えていった。

 ここまでされると明日からでも取り組まないわけにはいかないと、両手で抱えている渡された7冊の参考書を見つめながら思う。

 マンション内の駐車、駐輪場を通り過ぎながらどんな参考書なのかざっと見てみる。中学1年生の英語……そんなタイトルが目に飛び込む。そこからやり直せという事か。確かにもうそのレベルの英文しか読めないかもしれない。中学生、高校生で習う文法の解説が書かれた本が4冊、そしてそれと比べれば分厚い、ちょっと専門レベルの難しそうなタイトルの本が3冊。その一冊にリスニング能力を高める事を目的とした本もあった。聞き取る能力を高めて外国人とコミュニケーションできるようにもなってくれ、学校でやる勉強だけでは会話する力は身につかない、そんな話題が出た事を考慮するチョイスのような気がした。

 高梨はきっと中学生の頃から受験勉強に励み今の大学に入れている。そんな勉強漬けの学生時代を過ごしている人だからこそ持っている参考書というような印象だ。

「辞書がどこかにあったな」

 ボソッと呟く。父親が中学校に入学したと同時に買って来てくれた英語辞書がある事を思い出す。現役時代は殆ど活用する事はなかったが今こそ、その時が来た。部屋のどこかにあるはずだ、何処に置いたか記憶を辿る、そう思うと急いで探さなければという衝動に駆られた。こうなってしまうと夜、遅いから明日という風にはならないたちであった。


 部屋の中をガサガサと音を立てて探し出した。埃を被っていたものの、机の下から直ぐに見つけ出す事ができた英語辞書。これも高校卒業後は部屋の掃除を月に何回かはしており、今後も必要がなさそうな物は捨てるなり区別しておいた効果である。

 雑誌類の大半は処分した中、とりあえず残しておくという判断をしたのは間違いではなかったと下から掘り出した時に思ったものである。

 それに加えて高梨から借りた参考書には単語の読み方、意味を解説するページはなかったので、ますますこの辞書があって良かったと身に沁みる。例文が幾つも、ニュアンス別に載っていたのも有り難かった。英単語の意味くらいであれば今やネットでも調べれる時代だが、この辞書にはそのネットで検索してもお目にかかれないのではと思うくらい丁寧に解説されていた。

 インターネットというものが普及して無料で触れられるものが増えたが、そればかりに頼るのも考えものかもしれないと意識を改めるきっかけとなったかもしれない。今の磯村にこの辞書はお金を払う価値がある物として映っている、それを買ってきてくれた父親に今更ながら感謝の気持ちが芽生えたがそれを伝えるにはもう遅い。

 ちょっと休憩しようと両腕を天井に向けて伸ばしたりしてストレッチをする。時計を見ると気がつけば3時間が過ぎていた。ここまで幸いにも解りやすい参考書でありストレスも感じない。いざやってみたら楽しいと感じたのも意外であった。

 ふと最近は家の中で過ごして、3時間というものがこんなにも早く経ったと思うのは久しぶりかもしれないと振り返る。そして勉強、というものにこんなにも打ち込める今の自分が半ば信じられない。もう学生の身分ではないにも関わらず。なぜこのやる気、集中をあの時は出せなかったのか。時間が経てば人も変わるとはこのことか。

「あの時は、やらされていたんだろうな」

 そう独り言を言いながら立ち上がる。昼食を食べるのにもちょうど良い時間なので自室を出てリビングへ向かった。

 中学生の時を思い出す。頭の良い、テストの点数がどの教科も90点台、80点台だと机の上におでこを付けてひどく落ち込んだ生徒も居た。そこまで必死になって勉強できる人はみんな、ほぼ例外なく難関校の合格を目標にしていた。

 学校で良い成績を取る必要性、目的があったのかないのかで決まる、カップラーメンにお湯を注ぎながら磯村はそう頭の中で分析をしていた。

 今の磯村にその必要性、目的はある。その違いだ。しかもテストが終われば、卒業すれば忘れても構わない、そんなつもりでもない。これからの人生で直接的に末永く役に立ってくれるだろうと思うものに取り組んでいる。モチベーションが低いわけがなかった。

 表情筋が上がる。この目的を定めて行動している今が心地よかったからだ。なによりこの変わりばえしない退屈な日々をどうにかしたいと思っていたので、これは願ってもいない事だ。

 あともう少しで3分が経つ。このカップラーメンを食べたら、また取りかかる。それが楽しみでしょうがないと思うくらいだ。そして夕方になったらバイトに行って……引き締まった生活をしている、何もする事がないからベッドの上でゴロゴロして、いつの間にか数時間寝ていた、なんて事はない生活とはこんなにも素晴らしいものなのか、磯村はこれを続けていこうと誓う。それと同時にフタをめくった。


 食事の後は少しの間、ベッドで横になる習慣がある。このまま起き上がる事はなかった、ということがないように細心の注意を払いつつも、ウォークマンを手に取り音楽を聴く。ほんの少しのだけ聴くだけだと言い聞かせながら。

 ウォークマンの機能であるシャッフル再生を使った。流れてきたのはデュラン・デュランの『Ordinary World』だった。不意にも胸が痛んだ。この曲を聴きながら電車に乗ったあの日、電車がなぜ遅れていたのか、何も知らず電車に乗ったあの日。

 そういえばこの曲をネットで検索した時に、歌詞の和訳が掲載されているとタイトルで分かるサイトがあったのも思い出した。この曲にはどんな意味が込められているのかついでにまた検索して調べてみることにした。

「……」

 気がつけば涙が目尻から流れていた。そう自覚した時、曲の再生を停止して急ぐようにそれを右手の甲で拭った。

 無意識に涙を流していた? そんな事は初めての経験かもしれないと思うと動揺は隠せない。

 同時にこの曲こそ、拠りどころになれる曲だったと気が付いた瞬間でもある。この曲に巡り会えたこと、それは自分の人生においてとても意味のある事であった。そうに違いないと固く信じた。

『縁』というものは存在して、それは苦しい時であれば、その出会いによってこれからの人生の助けになる。そんな出来事とはこの様なことなのだろうと今、体験したのだ。

 スマホから軽快な電子音が鳴る。LINEからのメッセージ、送り主は伊藤だ。そう分かった瞬間、意味深な間ができる。伊藤碧、という存在を今一度、噛み締めた。

 磯村は確信する。これも『縁』だと。そこから『救済』という言葉の方がしっくりくるように浮かぶ。

 失意のどん底に急転直下で落とされて、項垂れていたあの日——

 鳥肌が立つ。やはり、まるで誰かが仕組んだようなタイミングであった。その誰かとは誰か? 神でもいるというのか?

 ハートの絵文字、写真、『どう?』という文字の順で送られていた。そういえば最近は会えていないと思いつつLINEを開きメッセージを確認すると……。

 ベッドの上に正座しながら、伊藤の背中が惜しげもなく晒されていた写真であった。両腕は胸を隠すように組んでいて、画面を見る磯村に視線を合わせるように振り向いている。唇をやや尖らせているその表情は誘惑しているようにも見えた。上半身は裸なのに対して下はデニムのパンツを履いている。撮影場所はあまりにもリアルな生活感が溢れておりまだ実際に行った事はないが自宅のような気がする。もしも仮にこれが、仕事で撮ったとして、あまり考えたくなかったが、それでもそれはないと九割九分、ほぼ断定していた。が、その線の可能性も一応、考えたとしても、仕事で撮った写真を一番親しい身内だったとしても送っていいものなのか? もっと根本的には……彼女がこんな格好になる事を承知でこの世界に入ったとは思えない。

 そうなると完全なるプライベート写真ということになる。カメラマンはいない、なら一人でどのようにしてこの構図で撮れたのか疑問にも思う。

 頭は働くも硬直する磯村。逆にこうも考えられる。仕事では絶対に引き受けないが、磯村のためだけなら——

 可愛い彼女が彼のためにサービスショットを送ってくれた、磯村にとってそんな微笑ましい事ではなかった。

 そういえば最近は会えていない——

 スマホを横に置き左右の手のひらを両目に当てた。足を床に付けベッドに腰掛けている様子はまるであの日、ベンチに座り込み前屈みになって俯くさまと一致する。

 磯村の頭の中で『Ordinary World』が再生されていた。

「どいつも、こいつも、こんな事しやがってっ」

 嘆くように、吐き捨てるように言った。

 返事、何かしらの反応は返した方がいいが、今すぐにはできない。それよりも今はまた英語の学習を再開させなければ、もう少し落ち着いてから。こう思えるだけで今までの自分とは違う気がした。

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