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 夜が明けた、窓から入ってくる陽射しで天気の良さがうかがえる。家には既に磯村以外の家族はいなかった。部屋を出て薄暗くひんやりした廊下を歩き洗面台へ向かい顔を洗う。リビングへ向かうと冷蔵庫を開けてポカリスエットをコップに注ぎ喉を潤した。仕事帰りに母親がいつも買ってきてくれる菓子パンを手に取る。朝起きたらいつも繰り返している一連の作業を終えると、バイトの時間まで何をすればいいのか、特に決まっていない事が多くまた部屋に戻りベッドで横になるまでがお決まりなのだが今日は違った。昨日の夜、半ば勢いに任せて書いた詞、と思うものを改めて見直してみた。

 自分の字が下手だとは自覚していたが特別直そうとは思っていなかった。他人が読む場合に限りいつもより丁寧に書こうと心がける程度で。それが仇となったか、自ら筆を進めて書いた字にも関わらずなんて読むのか解読に時間がかかる箇所がいくつか見受けられた。しかもこれは単なるメモではない、これほどまでに弊害となる日がこようとは思いもしなかった。今やパソコン、スマホで文字を入力する事の方が多いかもしれない時代にアナログ手法を採用した自分を恨んだ。

 読めないと言ってもこの文を書いたのは昨日の自分である。思い出す作業はわりとスムーズにいった、おかげでまだ覚めていなかった頭には良いウォーミングアップとなる。これをいずれ高梨にも見せる時がくると考えれば一刻も早くデジタルデータとして記録させた方がいいだろう。

「……」

 いま一度、この詞を見つめる磯村。早くもここはこう直した方が良いという修正するべき箇所を見つけた。昨夜はなりふり構わず感情的になり過ぎたと振り返り反省もした。この詞には辛い、悲しい過去の記憶が詰まっている。それをなんだか他人事のように、そんな情などの背景は一旦無視して、どうすればもっと良くなるか、その一点のみに集中して見ている自分が嫌だなと思った。が、それも必要な事だと言い聞かせた。これを音楽として昇華させるのなら、間違いなく。まだまだ時間はかかりそうだと、これから取り組むべき事を思うと少し、ため息もこぼしたくなったがここで投げ出すわけにはいかないのは言うまでもない。いざという時の逃げ道など無いのだから。



「えっ、大学行っていなかったの!?」

 そういえばそうであった。いつの間にか隠すという意識は完全に消え失せており、それがいつの間にか周知の事実へと都合よく変容していた。

「ごめん、あの時は高校卒業して進学も就職もしませんって言うのが恥ずかしくて嘘言ってた」

 オリジナル楽曲制作に向けて電話で話しをしていた時、またいずれ直接会わなければいけない日が来るであろうから互いの都合の話題になった。そこで磯村がポロっと言ってしまったのが「俺はね基本バイト以外、特に用事はないから拓実次第だよね」

 高梨が戸惑ったのは、その言葉を聞いた時の間で電話越しからも伝わった。

「はは、そうか、磯村、今フリーターなのか〜」

「2年経ってようやく明らかになった真実だね」

「……まぁ、磯村の人生だし、それに、だからと言ってこれに関して支障がないから別にいいけど。それでどんな感じ? あれから3日経ったけど」

 この嘘によって誰かが実害を被ってるわけでも、損をしているわけでもない。なんだか調子が狂ってしまったのは事実だが、これについてはもう話すのは止めにしようという流れになった。

「ちょっと待って、なんかもう出来上がってもいいんじゃないみたいなノリで聞いているけど、そんなたかが3日くらいで出来るもんじゃないでしょう」

「まぁ、それもそうか。でも音楽なんだからあまり詞に拘り過ぎてもね。やっぱりメロディ、鳴っている音で決まるもんじゃないの。世の中には歌詞は意味不明だけど、サウンドが良くて評価されている曲なんてたくさんあるよ」

 音楽である以上、やはり音が全て、歌詞にそんな時間をかけるもんじゃない。そんな風に受け取ってしまいこちらとの姿勢に溝があると認識した。当然、磯村は歌詞を、言葉を大事にしたい、自分にできる事はこれしかない以上は。こういうズレに対してこれからどう折り合いをつけていくか、いずれ訪れるであろう苦労にも意識がいく。

「わかった、じゃあと4日は待って。一週間で作ってみせる」

「了解。いいか、大体一曲にかける時間なんて4分から5分なんだからあんまり論文みたいな長い文章書いてもしょうがないって事だけは理解しておけ」

 良いアドバイスかもしれない。そう言われてみて確かに自分は一つの長編物語でも書いてしまうんじゃないかというような勢いがあった。歌詞カードを見れば分かるがほんの数十行しか割かれていない。また冷静になれた、ちょっと他人の歌詞を参考してみようと思う。



 対照的とも言えるが互いにそれぞれの道も歩み始めた。磯村がオリジナル楽曲を作り始めたように伊藤も4月からとある女性向け雑誌の専属モデルになると決まっていた。こういう事実を知るとますます伊藤が遠い存在に思えてくる。こっちは言うなれば『みかん』と文字が書かれた段ボールを机代わりに孤独の作業をしている、一方の彼女は女性なら誰もが憧れるような雑誌のモデル……不釣り合いだという気持ちは常にあった。おかげで伊藤は5月にもバイトを辞める事になるそうだ。4月から既にほとんどシフトには入っていない。二人が唯一、日常生活において接点があった場所、何より出会った場所、そこから伊藤がいなくなる。寂しいようで実は、ホッとしているんじゃないかという自分も居た。まだ自信が持てそうにないと心の中で伊藤に謝った。

 羨ましい——やはり率直にそう思う。家族と同等、それ以上の親密さ、それが恋人同士という間柄である。そんな近しい存在が華々しい世界に身を投じて、これから活躍を期待されていたら嬉しいはずがない。だが、それでも一人の人間としてそんな感情も込み上げてくるのも極自然であった。もっと言えば、嫉妬も含まれるか。明日に、未来に希望を抱いて生きている人間を見たら人は少なからず抱く感情。自身がそれとは程遠い境遇なら尚の事。

 恋人相手にこれなら、他の人達はどう思うのだろう? 負の感情を何ら抱かないのは両親くらいではなかろうか。そう、だから釣り合わないって言っているんじゃないか。

 彼女を見て俺も頑張ろう、そう思うには伊藤の居る世界の次元が違い過ぎるような気がする。事務所の社長に二度、説得されて芸能界デビュー、なんて羨ましいのだろう、住んでいる世界が違う、そう思って当たり前だ。

 初めて会った時から今日こんにちまで、どんどん伊藤碧という人物の良さが更新されていく。自分がここから更新するには?——

「お疲れ様でした」

 深夜帯に働くスタッフと交代する際にいつもの挨拶をした。もはや慣れたものとなったこのアルバイト。来年もここにいるなら高校時代にやっていたバイトより長く働いている事になる。レジなどをやっている最中でもこんな事を考えながら働く事ができるようになっていた。裏の事務所内の壁に貼られてあるシフト表、それを見ると伊藤の今月の出勤回数はたったの2回であった。学校が始まる前の僅かに残っている春休み期間に2回来ただけ、その2回に磯村はいなかった。


『あぁ〜今月はほんと会えないねっ、ごめん、こっちも忙しくなって。ねぇ、今日、実は撮影で帰りが遅いんだけど、ちょうど恭一がバイト終わる頃と同じくらいに帰ってこそれそうだから少しでも会わない?』

 

 今日の朝にきたLINEのメッセージ。撮影という単語には妙な感慨を抱く。これから約一ヶ月ぶりに伊藤と会う事になっている。ロッカーから鞄を取り出し、スマホをチェックすると新着メッセージが届いていた。どうやら伊藤はもうあの広場にいるみたいだ。

「お疲れ様でした」

 レジの前を通りもう一度、同じ言葉を言う。ボタンを押して自動ドアを潜り抜け外の空気を吸う。彼女はどんな表情で待っているのだろう? 早く来ないかな、そんな顔しか想像できない、それは当たり前である。

「(時間が経てばおのずと答えは出るか)」

 今はこの儚くも、甘いひと時にただ身を委ねようと思う。それも時間が経てばやがて泡のように弾けて消えるかもしれない、それで良いと思った。あの時に味わった絶望と比べれば全然マシである。

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