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玄関で靴を脱ぎ暗い廊下を歩き自室へ向かう。右側にある部屋、そこのドアを見る度に今、その部屋は空洞であると思わざるを得ない。時があの日から止まったままとも言えるか。いつもこの時間だったら磯村は知らない女性歌手が歌う曲が聴こえてきたり、何やら楽しそうに話す声が聞こえてくる。部屋の中には当然一人しか居ないので電話をしていると考えるのが普通であるが、学生時代の友人とはもう連絡を取り合っていないと母親から聞いていた。特に高校時代の友人はいじめられていた時の事を思い出すという事で頑なに接触を拒んでいた。ある日、退学後を心配した友人から連絡が来た時にはパニック状態になり、母が登録していた電話番号、メールアドレスを全て消した上でその連絡がきた人からは着信、メールを受信しないように拒否設定にした。
なら一体誰なのか。数少ない心を許している友人なのか、今だったらネット上で知り合った人という事もあり得る。結局は心のどこかで誰かとの交流を望んでいるのだと思う。しかしそれさえも相当勇気と気力のいる行動である、何をするにしても難しい体となってしまっていた。遠い、それでも必ず訪れる将来、彼女が一人になった時はどうやって生きていくのだろうと憂いていたところでの、自殺であった。
こんなにも最後は希望も何もなかった、悲しい結末を迎えた人がいた。なんで私はこんな目にあわないといけないのかと何度も泣き叫んでいた。一度人生を狂わされたらそこから立ち直るのは困難である。そこに陥るか否か、これはもう運としか言いようがない部分もある。事件、事故に巻き込まれないか、災害もある。そして平気で、無意識の内に他人を貶めようとする人と遭ってしまわないか。そんな危険と隣り合わせの中、実は生きている。
磯村は時おり生きていくのが怖いと思ってしまうようになる。だから今この胸の中に、確かにある幸福を強く抱きしめた、感謝の意を込めて。
夕食を食べ、風呂にも入った。歯も磨き後は寝るだけである。電気の点いていない部屋、ベッドの上で磯村はいつものように後頭部を両手に乗せて天井をじっと見つめていた。
むくりと起き上がり数秒、静止した後に部屋の電気を点けた。折りたたみ式の机の下に一冊のノートがあった。それを取り出しページを開いた。
そのノートには磯村が高校を卒業してから書くようになった文章、日記、詩とも言えるようなものもある、それらが書き記されていた。
小学生の頃から先生に授業で書いた作文が上手いと褒められて、文章が書くのが得意だと自覚していた。これが数少ない自分の誇れる特技だと思うまでに。
好きな音楽を聴いていると素晴らしいと思う歌詞にも出会う。そして自分もこんな歌詞を書きたいとも思うようになっていた。音楽活動をしているとよりその想いは強くなっていた。
所詮は他人が作った武器を借りているに過ぎない。己の力では作れないから、その武器を貸してもらいまるで自分の物ように酔って、快感に浸る。それではちょっとお金がかかっているカラオケとあまり変わらないんじゃないのか、終わってしまえばその武器は持ち主の元へ勝手に帰っていく。いくら上手いと言われても虎の威を借る狐だ、それではもう満足できない事に気がついた。
自分というものを音楽で表現したらどうなる? その断片になり得るものはこのノートに、誰にも見る事はできないまま眠っていた。
磯村は高梨に思い切って相談してみる事にした。先ずはメールで。
『あのさぁ、急な話で悪いけど拓実って作曲ってできるの? 俺達が今やっているバンド活動ってコピーした曲しかやっていないわりにはそれなりにお客さんも来てくれて上手くいっている方だと思うんだけど、それでもこの身内だけで楽しんでいるような調子のまま活動しているのは少しもったいないと思うんだよね。せっかく目を、耳を傾けてくれる人がいるなら今度はオリジナルの曲を作ってみない? 作詞は俺がする、それで拓実にその作曲をお願いしたいんだけど……』
このようなメールを送ってみた。引き受けてくれる見込みはあった。なぜなら高梨はきっと……。
返事を待つ事もなく磯村はまた何か書きたいという衝動に駆られていた。この気持ちを胸にしまっておくままにはできない、その一心で。
何を書こうか? そう思った時、真っ先に浮かんだのは……忘れよう、忘れようとなんども言い聞かせた過去であった。ようやく平常心を取り戻しつつある矢先、またその傷口を抉る行為に等しい事をするのか? そう思ってしまうだけで既にもう遅かった。
鮮やかにあの日々が蘇る。ここは自分の部屋であるはずなのに、この空間は眩しすぎる思い出で覆われる。
笑い声が聞こえてきた、自分の名前も呼んでくれている。スローモーションのようにゆっくりと振り返り自分に笑顔を向けてくれた。
「……っ!」
誰かの名を、嗚咽するように苦しい声で呟いたようであった。そのあと、俯き右手をグーにして握り締めた。
そんなわけがなかった。そう簡単にスパッと見切りをつけられるはずなどない。それを思い知らされた。今、この胸の中に竜巻のように渦巻き、心を揺れ動かしている状態がそれを証明している。
それは原動力でもあった。体中がそれに支配されて、突き動かされているように磯村は筆箱からシャーペンを取り出して白紙のページに言葉を刻みつけた。必死に、目をそらさずに向き合った、シャーペンを押し付けるように、これが文字を書く行為なのか疑いたくなるほどに強く。
『おっ、いいね〜。磯村もそこまでやる気になってくれてなんか嬉しいよ。よし、じゃあ、いっちょ、やってみっかぁ!』
今、自分は壮絶で、息も切らすような状態である。それに反して高梨の返事はあまりにも軽いと言えた。今だったら立場は逆かもしれない。そんな軽い気持ちで臨んでもらっては困ると。そのくらい殺気立つものがあった。
まだまだ完成というには程遠いと思うが、なんとなく今の気持ちというものは書けたと自己評価する。それによりなんだか少しだけ気分が楽になれたような気もした。
自分の思っている事を文章にする。あの震災で心に傷を負った人が、そうする事によって同じような効果が生まれるとたまたま観たニュース番組で聞いたのを思い出した。
これは必要な事なのかもしれない——あの時の事を浄化するかのように、綺麗さっぱり清算するには何か形として作り、それを天に突き上げて別れの言葉を叫ぶしかない。
そう考えればここまでの流れ、展開は上手く運ばれているのではないか。失意のどん底だったあの時をおもえば、そこからなんとか無理やりにでも歩き出して、最初はただのらりくらりとしていただけだと思っていたが、弱くても、希望の光が隙間から見えてきていた。
その思惑通りにいかないかもしれない事も頭の中にはある。それでも今はこうするしかないと心に決めた。これをやり遂げた先に、また次のやるべき事が見えてくるはずだと。
「それを繰り返すだけだ」自室の床で仰向けになりながらそう呟き、人生とはそういうものだと一つの答えを出したのであった。
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