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何事もバランスが大事だと思う。小学生時代、「将来の事も考えなきゃいけないからここは少し貯金する」と言いトレーディングカードゲームのパックを1つ減らした友人がいた。その歳でもうそんな事を考えているのかと思った。しかしその選択も積み重ねれば後になってから賢明だとも評価できる。幼少期の玩具など殆どは興味が次第になくなり捨ててしまうか、他人にあげたりして手放してしまうのだから。
中学生にもなればテストが近づかない限り在宅での勉強などしない人と、高校受験も見据えて遊ぶのを極力我慢して塾に通い夜遅くまで勉学に励む人で分かれた。磯村は前者である。
そんな磯村は今となってはもう少し勉強しておけば良かったと思う事がある。分からない事があれば直ぐにでも専門知識を持った教師に質問する事ができるというのは学生の内だけだ。
別に全くしていなかったわけではない。高校に進学してからはそんな自分を少しでも改めようと良い成績は取っていた。が、それも結局はテストが終われば頭からポロポロと覚えた事が地面に落ちていてしまってそのまま風に吹かれてどこかへ飛んでいってしまっている事に気がついた。
特に音楽にのめり込むようになってからそれを通して様々な事に興味を持ち始めた。洋楽を聴くようになってからは英語力をもっと身に付けたいと思い始めた。それでいつか日本ではライヴをなかなかやってくれない海外アーティストのライブを観に海を渡る。
音楽と言っても、その曲が生まれたのはその当時の時代背景とも無関係ではない、むしろ密接に関わっている。これから生きていくためにもこの国はどういう歴史を辿ってきたのかを知るのも良いかもしれない……。
当時はその意味に気がつかなくても後々、歳を重ねてからようやく気がつく事ができたというのはよくある。学生の身分を卒業してからもっと勉強しておけば良かったというのはその典型であろう。
だがきっと学生時代に勉強漬けの毎日を送っていた人は逆にもっと遊びたかったと思っているのかもしれない。将来のため、大手企業に就職するために頭の良い学校を卒業する、その先に待っていたのは一人になっても生活はできるかもしれないが、仕事に追われる日々。遊びたい時に遊べるのは子供、学生の内だけだったと思い知らされる。たまに有名大学出身の若者が聞いて呆れるような事件、事故を起こす事がある。頭が良いはずなのになぜ? というような。それもここまで溜まっていたものを一気に発散させるべく後先考えずに突っ走ってしまう故なのかもしれないと思っていた。ずっと狭い世界で、机の上で勉強してきて世間知らずというのもあるかもしれない。だから、バランスが大事なんだと。
今日も楽しかった。こんな美しい、人柄も申し分ない女性が自分にだけ特別な視線を送ってくれる。そして、自分と二人っきりの時間を過ごしてくれる。これだけで我が人生に悔いなし、と言い切ってしまうのは大袈裟か。それでも永遠にこのまま、幸せが充満して包まれた時間が続けばと心からそう思う。
残念ながらそういう訳にはいかない。そこだけに神経を集中させて、今だけを楽しんでいるとあっという間に時間は過ぎてしまう。やがてこのままでいいのかと、突きつけられる時が来る。それが頭をかすめると、歯を食い縛り顔を歪める。
何事もバランスが大事だ。今だけではなく、未来、将来を考えた行動も必要になってくる。
愛おしい眼差しで磯村を見つめる伊藤。最後はギュッと抱きしめ合い別れた。あの希望に満ちた眼は今も、そしてこれからにも期待でワクワクしている眼である。高校卒業後の進路で悩んでいた時、高梨拓実は進学したい大学も目処が立ち、その先の見通しが立っていると知ったら、心底羨ましかったのを覚えている。今の伊藤を見てもそう思わないはずはない。
この状況をなんとかしなければ——
伊藤は彼氏の将来に憂いはないのか、信じて疑わない。あの励ましの言葉は今は、いや本音を言えば最初から綺麗事にしか聞こえていなかった。相性というのも大事かもしれないが、そんなもの多少、妥協しても何より将来が安泰、経済的に安定している方がよほど心置きなく二人だけの時間を楽しめるのではないか。なんだかんだ今の世の中は金だ。金さえあれば大体のものは手に入る。そういう風にできているのだろう。
そんな思考に陥りがちになってしまうのは何より磯村本人がここまでなに不自由なく生活する事ができたからだ。周りを見れば我が家は他の友人より収入の多い家庭である事にある時から気がついた。それが原因で何かしらの我慢を強いられている人を何人も見てきた。
もしも自分が家庭を持つなら妻には、子供をつくるなら子にもそんな我慢はなるべくさせたくない。何故なら自分がそうして育ってきたのだから。
どんなに人間性を褒められようとも結局は金さえなければ何の価値もない、宝の持ち腐れ。その価値観に照らし合わせれば伊藤の存在は重荷とも見ることができなくない。
自分なんかとずっと付き合っていたらやがて苦労する事になるぞ——そうならないためにもやはりなんとかしなければならない。
伊藤が所属する予定の事務所は恋愛は容認しているのだろうか。人気のある芸能人、アイドルの交際、結婚報道にネガティヴな反応をするファンは一定数いる。これからその人気者になろうとする人物にもう彼氏がいると聞いたら? スカウトした社長はどう思うのか。いっそのこと別れてくれと迫られて俺たちは別れる事になった……そんな展開が訪れないかと期待してしまった。
君は華々しい道を進み、俺はそれとは無縁の裏路地のような道を進む。そんな真逆の道に進む君の背中に向かって「バイバイ」と言った。そうできたらどれだけ楽になるだろうな。
想像の中だけの物語を考えるのはここまでにしよう。バスを降り目の前に広がる景色に意識を戻した。ちょっと深いところまで堕ちてしまった気がする。そのまま歩いてたら車や自転車が来た事に気がつかずぶつかってしまう可能性もあった。目を覚まそう、そう思い夜空を見上げれば綺麗な形の満月があった。そのまま5秒ほど立ち止まっていると後ろから声をかけられた。
「あっ、やっぱり磯村だよね?」
クイックモーションのように首を後ろへ振る。不意に声をかけられると誰しもが毛立つようにビクっとする。陽気そうな男の声、顔を見るとお前かというように上下に細かく頷いた。「あぁ、達也か。久しぶり」
達也とは中学生時代の同級生である。どうやら同じバスに乗っていたらしい。駅のバス停で磯村の数人後ろに並んでいる時からもしやと思っており、ここで思い切って声をかけてみたそうだ。
「なんか磯村、卒業した時よりかっこよくなっているね。最初、正直磯村ってこんなかっこよかったっけ? って疑っちゃったよ」
「そうかな。達也も髪の毛、茶色に染めちゃってなんか雰囲気変わったね」
「本当は金に染めたいんだけどね、さすがにそこまでするとバイト先が許さないから」
急に訪れた再会に二人は軽く立ち話を始めた。最後に見た姿の記憶とやはり違いがあると時の流れを感じたくもなる。もうあの頃には戻れないのかと思うと悲しいような、寂しいような感情も互いに程度の差はあれど確かに込み上げていた。
「磯村は高校に入ってからは彼女できたの?」
「えっ、う、うん。おかげさまで」
「やっぱりできるよな。実はさぁ、同じクラスに嶋野っていたじゃん? あいつお前の事、好きだったらしいよ」
「そうなのっ? ほとんど話した事もないけど」
「好きになったタイミングが遅かったんだよ。中3の秋くらいに気になり始めたって聞いたから。その時期ってもうみんな進路の事で大忙しだったじゃん」
「へぇ〜なんか信じられないな」
「磯村って中3になってから急に背が伸び始めてスリムな体型になったじゃん。さっきも言ったけどそれで急にかっこよくなった磯村を見た一部の女子がびっくりしていたみたいだよ」
「あっ、そう言われてみればたまに話した事もない女子から用もないのに度々声かけられた事あったわ。おはようって挨拶くらいだったけど」
「だろ? 中2まではどちらかと言えばぽっちゃりして地味な磯村が急に変身したから、どうにかして仲良くなれないかなとか考えていた女子が、声でもかけてなんとか近づこうとしたんだよ」
「そういう事か。それまで女子から声かけられた事なんてないから戸惑ったよ。どういう事って。でも、正直、自分でもかっこよくなったとは薄々気づいていたけどね」
「いうね。今は大学に行っているの?」
「えっ? う、うん」
思わず嘘をついてしまう磯村。今は学校も行っておらずフリーターと堂々とは言えない後ろめたさから咄嗟についてしまった嘘だった。
「俺さぁ、高校途中で辞めて今はフリーターなんだ。この先どうしようかなって思っているところ」
まさか高校を中退したという違いはあれど磯村と同じ境遇だとは思ってもみなかった。こうなってくると正直に話した達也の方が立派にも見えてくる。余計に嘘をついてしまっった罪悪感が増幅して胸に迫ってくる。
「そうなんだ。どうして辞めちゃったの?」
「あの時は、なんかだんだんと勉強する意味も、学校に行く意味も分かんなくなってきて、それで嫌になって辞めちゃったんだけど、今になって少し後悔している。この世の中、高校も卒業してない奴の未来なんて真っ暗も同然だって気がついてからは。辞めてから色々と考えて、やりたい事見つかったんだけどさ、それで学校に入って勉強したいってなってもその資格があるのは高校を卒業した人だけ、その現実を知ったら無理やりでも卒業しておけば良かったって思っている」
「あぁ、やっぱりそうだよね。進学するにしても就職するにしてもやっぱり最低、高卒である事が条件だよね。でも、だったらやり直せばいいじゃん。今からでも高卒の資格を取る事はできるでしょう」
「そうなんだけど、そうなるとやりたくないもない勉強をしなくちゃならないし、そう思うと、どうしてもやる気が一気になくなって、それでどうしようか悩んでいるところかな」
「やりたい事をするにはやりたくない事を先ずはしなくちゃならないかってやつか。難しいね。そのやりたい事って何なの?」
「スポーツトレーナーみたいなのになりたくて。俺、サッカー好きだしそういう所に関わりたいって思っているんだ」
「なるほどね。部活もしっかり3年間続けたし、そういうスポーツの分野は向いているかもね」
近況をある程度、話し終えたところで別れた。この会話の後に生まれた感想は、今まで狭い視野で考えていた、といったところか。そして確かな心境の変化を自覚した。
誰もが上手くいっているわけではないと——
磯村の身近には人生が上手くいっている人ばかりであった。それを見て今の自分と比べるとどうしても劣等感が生まれる。
だが日本、もっと言えば世界には多くの人々が暮らしている。当然、自分のように人生が上手くいっておらず思い悩んでいる人などごまんといるはずである。
達也は、はっきり言って磯村より状況は思わしくない。いくらやりたい事が見つかったと言ってもそのための必要な努力を渋っているあたりどこまで本気なのか疑わしい。
その点、磯村は高校を卒業している。達也の言う『あの時』に頑張った分、選択肢は広い。
あの時もっと頑張っておけば良かった——そのような状況に陥らないためにも、今から備える、できる事をやって然るべきである。今さえ楽しければ良い、その考え一辺倒は過ちであるとより強く確信した。
何事もバランスが大事だ、将来、未来を見据えた行動も起こさなければ。それを胸に磯村は家路を辿った。歩きながら再び空を見上げると月、点々と見える星を綺麗だと思った。この世界はあまりにも広い、その空の先にも世界は広がっているのだから。
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