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想定していない事が起きると頭が真っ白になり固まってしまう。それはたとえもしもこういう事に遭遇してしまったらこうしよう、といつの日かにイメージしていてもだ。いざ自身に降りかかってきたら何もできないというやつだろう。
ただ横から明らかに自分を呼び止める声が聞こえてきただけなのに、殴られたような衝撃が上から下へと体中に走る。
なぜ話しかけられた? 来る人が限られるこの空間に自分の知り合いなどいないはず、真っ先にそう思った。それと同時に反射的にその声が聞こえて方向へと首を動かす。誰だ? 私に声をかけるのは。その声の主を見た時に思いの外、早く納得してしまった。まさかまた会うとは。どちらかと言えばもう会わなくて、というよりは会いたくないと言い切ってしまっていい人物だった。なぜそういう人に限ってまた巡り会ってしまうのか、人生とは上手くいかないと思わざるを得ない瞬間の一つである。
「やぁ、また会ったね」
「えっと……」
わざと覚えていないフリをしてしまっていた。本当に忘れてしまっていればどれだけいいものか。だが人間というのは嫌な記憶の方が頭に残りやすいのかと思うくらいある日突然、何度もわいてくる。それでも関わりたくない人に対して思わず取ってしまう態度の一つである。
「覚えていない? ほら、もう1年前くらい前になるけど君に声かけて、スカウトした」
スカウトという単語をやや強調した。覚えてはいる。心の中でそう答えた。ただなんでこんな所にいるのか、そこに思考が巡ってきたが血液の流れが詰まってしまったかのように上手くその先へと流れない。
「こういう所に足を運ぶという事はやっぱり興味あるんでしょう?」
覚えている、覚えていないの返事をする前に次の質問を振る。確かに自分は演劇には興味はある。なるほど、それをイコール芸能界にも興味があるのではないかと結びつけたかのか。
「今日は知り合いが出演しているから来ただけです。奇遇ですね、どうしてここに居るのですか?」
「だってご存知、今日ここでは演技を学ぶ専門学生の卒業公演がある。今年の4月からうちの養成所に入る子もいるから観に来たんだよ」
それを聞いて納得はした。まだ30代後半だろう、若さも故の活力もみなぎっている。それでもその歳で社長という立場にいる人物。今、彼は何か目的を成し遂げようと密かに心を燃やしているようであった。眼鏡の先にある瞳もメラメラ燃えている。
「またこうして会えたのは、これはもう運命としか言いようがないと思うんだけど、あの時、何もリアクションがなかったという事はそういう事なんだよね?」
「えぇ、まぁ。一応あの後、よくよく考えはしましたけど、やっぱり不安の方が大きかったので、そんな気持ちではやっていけないだろうなというのが正直なところです」
「そんなの最初はみんなそうだよ。そういう自信というのは後々に付いてくるもんなんだって」
「それに、私、実は演劇より音楽の方が興味あるんです。もしもそういう世界に入るなら音楽の方でと思っております」
「あぁ、音楽か〜……」
右手の掌を首筋に添えて初めて困ったような顔をした。どうやら音楽に関してはパイプがなく手の及ばない分野なのだろうと察する事ができた。
「えっ、なに、そのつまりいずれは音楽の道に進もうって決めているの?」
「……いえ、それは色々とこっちにも事情がありますので多分、普通に就職するだろうとは思います」
「そんなのもったいないって! よし、分かった、その夢は僕の言う通りにすれば叶える事ができるって保証するよ。いいかい、最初は女優やタレントの世界で成功するんだ。そうして人気も出てくればゆくゆくはその音楽の道に進む事も可能になるよ」
いきなりの提案には動揺を隠せいない伊藤。自分の好きな事、両方に手を付ける事ができるという美味しい話ではあるがそもそも果たしてそんなに上手くいくのか懐疑的にならざるを得ない。
「いえ、そんな、もしもやるなら中途半端な実力でやりたくありません。しっかりと勉強して実力を付けて臨みたいです」
「大丈夫、君にはその素質は充分あるから。この世界の事を知ればいずれは自分は向いている、実力があるって気づく日がくるはず」
一体この人は自分の何を知って次から次へとこんな事が言えるのか。唖然とした気持ちになる。しかし目の前にこんな夢のような話が舞い込んでいる、次はあるのか? 二度ある事は三度あるとは思えないような貴重な話であるのは間違いない。これも断ってしまったらと思うと……。
当初、見込んでいた未来よりも明らかに輝かしいような事が待っているかもしれない。そこまで言うなら、「あの、私の家、そんな裕福な家庭じゃないんです。凄い魅力的なお話だとは思いますけど、もしも失敗した時の事を考えるとどうしても踏ん切りがつきません。正直、私の不安というのはそこによる部分が大きいかもしれません。これについてはどう答えますか?」
キョトンとした表情になる男。だが直ぐに軽く笑みを浮かべた。
「なるほど。そういう事か。大丈夫、この世界売れる人間というのは最初からある程度、決まっているんだ。これだけ僕が説得するという事はつまりこれから僕は君を猛烈にプッシュするって事だから。もちろん君がどれだけ与えたれたチャンスをものにできるかにもかかっているけど、でも君はきっと良いパフォーマンスをする、そうだろう?」
そんな話をこの場でしていいのかとも思ってしまったが、君を信頼しているとも聞こえた。与えられたチャンスをものにできれば扉は開かれる——私にならできる、その言葉を聞いて浮かんできた言葉はそれだった。この人は他人を見る目があるのかもしれない、そう思わせた。
季節の移り変わりを感じるという事はまた年がぐるりと一周して、ここへまた戻ってきたとでも言うのか、それを気づかせてくてるきっかけをくれる。出会いと別れの季節と言われている春はそれがより一層、胸に染みる。
まだ冷たさの方が強いが、それでも確実に春の温もりも含まれる強い風に当たりながらここまでの1年間はどうだったか? そう自問した磯村。ようやくかつての平穏を取り戻しつつあり、またよく思考を巡らせて、新しい一歩を踏み出す事ができるかもしれないと簡潔に評価した。
だが今やっている事は次へと繋がるのか? ただその場限りの発散で終わっていないか? いつまでもこのままではいけないとも理解していた。磯村の進むべき道とも言えるものはまだ見つかってはいない。
「恭一」
ゆっくりと丁寧に紡ぐようにそう声をかけられた。聞き慣れた声でも、どこかいつもより機嫌が良い声色のような気がした。最近は思うように伊藤と接す事ができていないと思っていただけにこれは少々、意外に思った、それにはどこか安心する。
「どうだった、祐太郎の卒業公演は? 来ていない俺にもわざわざメールがきて、どうやら卒業したら次は大きい劇団の養成所へ入るみたいだよ。なんか着実に前へ進んでいるなって気がするよ」
「そうなんだ。もうっ、凄い良かったよ。最初に観たやつとは比べ物にならないくらい成長していた。永井さんもほぼずっと出ていて、やっぱり学内でも評価されているんだなって思えた」
「そっか。祐太郎はいいな〜自分に向いているものがあって、しかもそれに向かって頑張っているんだし」
「私もね、それが見つかったかもしれないの」
「え?」
これが今日、一番話したかった事と言わんばかりの調子で嬉しそうに話し始めた。
伊藤は偶然と言えばそうだが、これはまさに言い換えるなら運命としか言いようがないあの日の出来事を詳細に話した。1年前、ここの駅周辺で声をかけられてスカウトされたあの芸能事務所を経営している社長、
あまりにも、良い言い方をすれば熱心に、悪く言えばしつこく捲し立ててくる芝はさらに信じられないような条件も提示した。
伊藤はどちらかと言えば音楽をやりたい、でもやるなら先ずは勉強をして知識と技術も身に付けたいと言うと芝はその音楽を学ぶ場を提供することに決めた。永井が卒業した専門学校には他に音楽を学べる学科がある。そこに学校側が設けている特待生制度を使って入学させても良いと言うのだ。その特待生制度でもしも入学する事ができれば学費が審査の結果次第で減額される。その中でも一番高い評価を受けた者はなんと全額免除される。
学費を出す余裕のない伊藤だが、芝が言うに伊藤はその全額免除される可能性が充分にあると熱弁した、いや、必ずやそうさせると言った方が正しいか。
流石にそれは言い過ぎだと思った伊藤であったが、どうやら誰かからの推薦を貰った上で受ければその可能性はグンと高まる。その推薦人となるのはもちろん芝だ。
芝は実業家であり、芸能事務所の経営者とある程度の影響力を持った人物だ。そんな者が推す子であれば学校側の期待も高まる。卒業生が有名になればその宣伝効果は絶大、その未来への投資と思えば学生一人、2年分の学費くらいは安いものだという捉え方もできる。
シンデレラストーリーのような話である。そしてその代わりに学業と平行して芸能活動もしてほしいというものであった。最初は雑誌などのモデルを想定しているなど具体的な話も飛び出ている。
その話を聞いた磯村。まさかこんなにも身近な人物が大スターへの階段を登ろうしている事にいまいち現実味がわかなかった。しかし同時に伊藤なら有り得る話だと思えた。
初めて伊藤を目にした時、何か他とは違う雰囲気を感じ取った。ある意味、易々と近づき難いオーラのような。
彼女の太陽のような笑顔を見ただけで心に小さな花が咲いたような幸せな気持ちになれる。この人ならそう遠くない未来、誰もが成し遂げられないような何かをするのではないかと予感、期待をした。
その直感は見当違いではなかった。それは自分に見る目がある事も意味して、感性にも自信が付く。
「そうか。やっぱり碧はそういう人に見られる職業が似合うんじゃないかとは思っていたよ。こんな綺麗な人が普通の職場にいるなんてちょっと勿体ないって思ってたし」
「社長もそう言っていたよ。そんなもったいない! って大きな声で言われちゃった」
茶目っけたっぷりの表情で言った。それを受けて笑いながらも磯村は、
「だったら、最初に声をかけられた時からもっと俺からも背中を押せば良かったかもな」
「ううん。きっとこのタイミングだったんだと思う。あの時だとまだ私自身もそこまで乗り気じゃなかったというか、本当にそんな道を進むの? って現実として見る事が出来なかったし。でも将来の事を考え始めたこの時期、そこに永井さんが舞台上で輝いている姿を見て、それで、咄嗟に私もあっち側にまた立ちたいって思ったの。そこでまたあの社長が現れて……」
「心境的にも合致していたってわけか」
「うん、結果的にそこを上手くつけ込まれちゃって」
「そんな、上手くはめられたみたいな言い方」
「だって、道が逸れないかの不安はあるよ。本当は音楽やりたいって言ったのに気がつけばそんな暇はなくなっているみたいな」
「あぁ、そうか。そんな事も考えているんだ。碧ってそこらへん大人だよね。普通だったら舞い上がっても良いような状況だと思うけど」
「やっぱり早いうちから今まで守ってくれたお父さんがいなくなると、早く自立しなきゃって思うのかな。自分で考えて決めて、生きていかなきゃって。お母さんもショックでそこまで頼れなかったし」
「なるほど。どんな辛い事があってもちゃんとそれを生かして成長したのは立派だと思う……」
まだ磯村が何かを言おうとしていた時に伊藤は割り込んでこう言った。
「それは恭一のおかげでもあるんだよ。恭一の考え方も聞いて、改めてそういう生き方をしようって思えた。きっと実感はないと思うけど、恭一がいたから今の私がいると私は思っている」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけど、碧は、別に俺と出会わなくたって輝かしい未来が待っていたと思うよ」
「なに言っているの!?」
伊藤が声を荒げた。怯む磯村。
「ど、どうしたの?」
「私と恭一が出会わなくてもって、そんな事、言わないでよ。そんなの想像しただけで怖くなる」
「ごめん、たまに俺、突き放すような言葉を言っちゃうんだよね。でもきっと俺がいなくても、碧は、うっ……」
不意に伊藤は磯村の唇を奪った。ここで磯村の口を塞いだのはそれ以上、先の事は言わせないという意志が見えた。
「大丈夫。自信を持って」
そう磯村の眼前で囁いた。万一にも彼女の心が離れない限りはこの関係は続くだろうと悟る。
「やっぱり私には恭一がいないと駄目。私は私でこれからやりたい事をやるし、恭一もやりたい事をやればいいけど、最後は私達二人は自然と、磁石のように引きつけ合い、こうしてまた触れ合う。そんな関係がずっと続けばいいと思う」
磯村はまだどうして伊藤がここまで自分に惹かれるのか分からないでいた。
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