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 1年が過ぎるのはあっという間だ。最近、特にそう思う事が多くなっている。思い返せば幼い頃は1年どころか1日が過ぎるのもとてつもなく長く感じた。例えば小学校の僅かな休み時間、たったの20分かそこらである。その時間内で校庭まで走りドッジボールやバスケなどに全力で打ち込んだ。決してあの時は短いとは思わなかったはずである。そこだけを切り取っても濃密な時間を過ごしたと断言できるし、あの時の身軽さはもう失われつつあると自覚する。

 その行動力をもう一度取り戻したいと思っても、どうしても先ずは余計な事を考えてしまう。これが大人になったという証か。やがてそれは面倒臭いとなり結局、何もしないまま時間だけが過ぎてしまう。そんな日々が少しはマシになったのもあの子供の時のように無我夢中に打ち込めるものができたからに他ならない。

 歌う、という事に対して遊び、趣味という感覚から少し変わった磯村。プロとしてデビューしたいとかは思わなかったが今、自分がやるべき事はこれだと決心して自分はどう歌っているのか、その癖などを自己分析までし始めて改善に努めた。まさに先の事はあまり考えず『今』を楽しんでいるわけであったが一方の伊藤はそうもいかない。

 来年、高校を卒業する。進路を、進学ならどんな勉強をしたいのか、就職なら……といった感じで数年後の将来を見据えた選択をしなければならない。しかし選択肢はそれほど多くはなかった。

 一家の大黒柱を子供に一番お金がかかり始める時に亡くしてしまっている以上は進学は厳しいというのが現状であった。娘には申し訳ないが就職をして一刻も早く自立してほしいというのが母親の本音。そう分かっている中でも当然、迷いは生じる。

 どんな職に就くべきか? 磯村はそこを明確に決める事ができずに高校卒業後は進学も就職もしなかったと言う。その意見を聞いて確かに今後の人生の、願わくば老いるまで付き合っていく事を前提とした選択をそう簡単に決めてしまえるはずはないというのも一理ある。むしろ多くの人が考えなさすぎなのかもしれない。

 慎重に、よく吟味したうえで決めるのが至極、真っ当だ、それが正しい。そうするにしても、その考える対象すら絞り込めていないのもまた事実。伊藤も磯村が直面した悩みを抱え始めた。

 彼女がそんな事で頭がいっぱいでなおかつ、やや伊藤の存在すら忘れてしまっているかのようにバンド活動に没頭する磯村を見て、少しその意思を示したかった。私の事を忘れないでというメッセージを。今、二人の距離はやや離れている。

 

 2月に卒業する先輩達に頼まれて、お見送りのライヴをするらしい。そのライブには足を運ばず伊藤は永井祐太郎が通う専門学校の卒業公演を観に行く事を選んだ。

 磯村の人気は鰻登りだ。個人のツイッターやインスタグラムを本格的に始めたのもそれに拍車をかけた。最近では大学の在校生、関係者でも、磯村の身内でもない全くの外部から来た客も数人現れ始めたらしい。性別はもちろん女性、その若い女の子に囲まれてチヤホヤされている様子を彼女が好ましく思う事は難しい。いくら彼女という立場でも、その磯村のファンは知ったこっちゃないという勢いで迫ってくる。こちらも芸能人でもないし、そういう関係だと公表しているわけではないが決して居心地の良い場所ではなくなってしまっていた。

 こうなったら仕返しというつもりで、伊藤も音楽活動をもっと部活内に留まらず本格化させて同じくファンを増やしてやろうかと思ったが、そんな余裕はなかった。

 部活内で一緒に組んでいる水谷知里は卒業後は大学で音楽はもちろん、芸術という分野全般を学ぶらしい。やはり親が音楽をやっていれば子もその道に進む場合は多い。

 水谷とは馬が合い楽しくできている。その水谷から卒業後も一緒に音楽活動をできないかと何度か言われていている。一時は良いかもしれないと思った。それも目の前に立ちはだかる現実を見ると徐々に萎んでいく、やはり家庭の事情から難しいかもしれないと最近では前向きな回答はできないでいた。

 まだ趣味としてならどこかの休日にできなくもなさそうだが、水谷はおそらく音楽を仕事にするつもりである。そんな人の波長に合わせられる自信はない。

「(でも)」

 それは伊藤が音楽を気分転換にやる娯楽の一つとして捉えるならである。もしも自分も本気で向き合えばあるいは……。

 そんな事は母親が許してはくれないだろう。ただでさえ生活がギリギリの状況。早くほしいのは安定した収入だ。博打をする暇はない。

 磯村も、水谷も羨ましい——こんな事を根底で思っている事に気がついた。周りはみんなやりたい事をやっている。それなのに私は。今、これから観に行く永井も俳優という夢に向かって励んでいる。

 私はそっち側の人間ではない、そういう事になるわけだがすなわち世の中は平等ではないと知る事になる。それも努力ではどうしようもないもの、生まれた時から、色んな巡り合わせで決まっている環境というやつである。


 電車の中から今日の劇場に着くまでこんな考えを巡らせてしまっていたら表情は暗くなってしまっていた。今日も楽しい想いをさせてくれるはず、そんな日にネガティヴな感情で支配されたくはなかった。

 1年生の修了公演は学校内にあるホールで行われたが今回は違った。キャパシティが約150人程度の劇場。演劇をする劇場の中では決して小さくはないが都心からやや外れた場所に位置し交通の便も、外観の華やかさという面では劣るものがあると正直、思う。

 劇場内に入るとロビーがあり受付窓口が設置されていた。そこでチケット料金を払う。おそらくこの学校の1年生であろうあどけない女性二人が応対をしていた。

「出演者の永井祐太郎さんから予約しました」

 とは言うもののその永井は伊藤とは面識はない。磯村を介して、知り合いに行きたいって言う人がいるという事で予約してもらった。おそらく観に来ているのが磯村の彼女という事も知らないだろう。

 さすがに二度も舞台を観に来ているのなら挨拶くらいはした方が良いと思ったが、今日は磯村はいない。全く知らない人が話しかけてきたらどう思うだろう、そんな事が頭を過ぎると話しかけるのに勇気がいる。こんな事なら去年、磯村と一緒に挨拶をしておけばと今更ながら後悔した。

 席に座ると中の雰囲気が下北沢に行った時の劇場と近いものがあった。少し窮屈に感じる狭さで薄暗い。そうか、やはりあの学校内にあったホールが良すぎたのだと気がつく。天井も高く、通路を歩いて移動するにも苦労しない広さ。

 そんな所で無名で若いうちからできるのは、高い学費を払った学生という身分が故の特権なのかもしれない。外に出れば、本来であれば多くは設備や楽屋も充分とは言えない劇場で先ずはやる事になる。それに慣れさせるため敢えてこのような劇場を学校側が選んだ可能性もある。

 卒業公演の演目は芥川龍之介作の『杜子春』

 一般的に知られているのはもちろん小説であり戯曲は存在しないはずであるが、どうやら舞台で上演するために再構成、脚色したらしい。小説には出てこないオリジナル登場人物もいるとのこと。伊藤も予習で原作を読んでみて、これがどう舞台上で表現されるのか楽しみではあったが不安もある。それは原作を弄ってドラマ、映画化したものの残念ながら、案の定とも言うかもしれない、駄作に成り下がってしまったというイメージが少なからずあるからである。果たしてどうなることやら。開演を待った。


 

 出演者一同が頭を下げる。その瞬間に一際、大きい拍手が鳴り響いた。伊藤もその拍手を惜しまなかった。

 よかった、そして驚いた、単純に言えばそんな感想である。始まる前の不安は何処へやら。

 驚いたというのは1年前に観た時と明らかに成長していたということだ。まだどこか学生気分、そんな緩みも見られた去年の公演であったがそんなものは微塵も感じられなかった。役に徹していた、余計な考え、目立ちたいとか、芝居をしている自分カッコイイなどという邪念はなく、その決意に言葉も出ないと思う自分がいた。

 どうすれば1年間でこんなにも変われる事ができるのか? そこに驚いたのだ。

 永井に注目するなら先ず登場してきた時、かつらと付け髭を身に付けていたというのもあるが、それよりも何か役のオーラというものを身に纏っているようであれが永井だと認識できなかった。声にも深みが増しているような気がする。仙人という人外の存在をまだ二十歳になったばかりの永井が演じるのは容易な事ではない。だがそこから発せられた言葉はしっかりと地に足が着き、貫禄あるものであった。そう思うとあの時の永井の声はかぼそいと言えてしまう。

 気がつけば一粒、涙を流していた。ラスト、杜子春がお母さんと泣き叫ぶシーンは誰もが、それこそ人の心さえあれば涙なしでは見られないだろう。あんな演じるのが過酷そうな場面をよくやり切ったものである。杜子春を演じた彼もなかなか素質あると初めてみた時から感じていたが、その驕りもなく凄まじい集中力であった。

 いくら演技の専門学校がつくった舞台とはいえ、この与えてくれた感動はプロの舞台にも匹敵するだろう。少なくとも伊藤はあの下北沢で観た舞台よりも感動したと断言できる。チケット代はこちらの方が安いのに不思議なものである。

 

 この感動を貰い伊藤の胸に渦巻くもの、それは居ても立っても居られない気持ちであるのは間違いない。ウズウズして抑えるのが難しそうだと認識する。

 その時であった。客席を立ちロビーに出た時、急に声をかけられた。

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