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 磯村の言っていた通り家に着いて間もなく雨が降り始めた。どちらかと言えばしとしと、という雨は久しぶりかもしれない。先月まで台風で、局地的豪雨で傘も役に立たないような雨の記憶が新しいと尚更。

 自室の窓からこの雨を見てあの最初に見かけた磯村の姿を重ねてしまった。彼はベンチに座って身を屈め両手で顔を覆っていた。

「もしかして泣いていたのかな……?」

 磯村は暑さで少し休んでいたと言っていたかもしれない。その後に何が起きたかを考えればそんなちょっと前の記憶さえ曖昧になっていると分かった。今一度、こうして振り返った時、そしてこの雨の音を聞いて何を思い浮かべたか。伊藤は居ても立ってもいられなくなる。電話してみる事にした。

 30秒ほど呼出音が鳴るが『ただいま電話に出る事ができません……』という機械音声が流れた。切ボタンを押して携帯画面を不安そうに見つめた。


「あっ、待って!」

「うん、なに?」

「そういえば連絡先、まだ知らないでしょう? 交換しよう」

「あぁ、そうか」

「LINEはしている?」

「あぁ、あれか。いやしてない」

「そうなんだ。これからはLINEの時代だよ」

「そうなの? まぁ、とりあえず番号とアドレスを教えておくよ」

「直ぐに登録してね。LINEの方が絶対に楽だから」


 あれはただのうっかりのはず。付き合う事になったのに連絡先も交換しないまま別れるなんて事はあるのだろうか。伊藤は何かの拍子で連絡先を交換する事になったとならないものかずっと思っていた。磯村もきっと同じ気持ちであったと信じたかった。

 たまらず伊藤からそれを告げる。本当だったら真っ先にそうなってもいいはずなのにその流れにはならなかった事には焦ってしまった。

 あの時、磯村は普通の状態ではなかった。それはなんであったのか、それさえ分かればきっとやもを得ない事情があったのだと理解できる気がした。

 しかしそれはあまり気軽には聞けない事ではないのか、そんな壁が立ちはだかったがそれを今後、取り払い共有していく関係になっていくのが私達だと信じて疑わなかった。

 伊藤は真剣だった。せっかく僅かしかない高校生活、恋をしたいという軽い気持ちで付き合ったのではない。既に将来、末長く共にする契りを交わす相手だと認識していた。この気持ちは途切れる事はない、そう固く結んだ。


 電話をしてから2時間後、磯村の方から折り返し電話がかかってきた。お風呂に入る前に話しておきたいと思っていた伊藤はちょうど良いタイミングだと思う。

「あっ、もしもし」

「うん、なに? さっきはまだバスの中だったから出られなかったよ、ごめん」

「ううん、こちらこそごめん。そういえば駅から走るバスに乗って帰ること忘れてた。さっきは私のこと送ってくれたんだよね。ありがとう」

「実はあの後、最近運動してないから歩いて帰るかって思って歩く事にしたんだけど、家に着く前に雨が降ってきたから急いで駅まで戻ったんだ」

「えっ、そうなの?」

「うん。おかげでけっこう濡れたよ」

「風邪ひかないようにね」

「多分、大丈夫だと思う。それで何か用あって電話したんだよね?」

「うん、大した事じゃないかもしれないんだけど、その、あの時、なんかすごい恭一が悲しそうにしながらベンチに座っていたのが気になっちゃって。何かあったのかなって思って」

 この質問は答えには困るものだった。やはり言葉にしなくても伝わっていた。

「いつも通りに声をかけたけど内心、大丈夫かなって心配してたんだよ」

 正直に言う事はできない。確かあの時は暑さに参って休んでいたと答えたはずだったが伊藤は納得していなかったのだろうと察した。それもそのはずだ。あの時の心情はとてもそんな体調不良なんかという言葉では到底、片付けられない。何か上手い返事はないかと早急に思案してこれしかないと思った。まさかこの事実をこんなにも早く伊藤に話す時が来るとは思ってもみなかった。いや、そもそも今後どれだけ仲を深めようとも話す時は来るのだろうかと首を傾げもする。あるとすれば……が、もうこれしかない。それよりも隠しておきたい事がある以上は仕方がない。

「……実は、すごい重い話になっちゃうけどいい?」

 やはり何かあるのだ、それを聞く覚悟はあるかと磯村が問うている。一瞬の間はあっても伊藤は頷き、「うん、聞かせて」


 磯村には姉がいた。そう、『いた』のだ。

 その姉、磯村あゆみが先月、亡くなったと聞かされた。それも原因は自殺だった。電車のホームから飛び降りての自殺。

「元々、高校時代に部活内でいじめられたのをきっかけに学校を退学してたんだよね。それが引き金で精神病になって、あっ、正確には統合失調症って言うんだけど。それで、それ以降はほとんど家の中で、薬を飲みながら生活してたんだ。その通院の帰りになぜか飛び降りた。ほんと何が原因かは分からない、今までは普通に通っていたのに」

 あの漂うオーラは只事ではない、その予感は当たっていた。伊藤はまだなんと言葉をかけていいのか分からなかった。

「もう直ぐ亡くなって一ヶ月が経つんだけど、落ち着いたかなと思ったら急にがくっときて。それであそこで休んでいたんだ」

「私も……」

「えっ、なに?」

「私も、実はあの時、嘘を言っていたの。お父さんとお母さんはまだ家に居ないって言ったけど、本当は私のお父さんもういないんだ。中学2年の時、交通事故で亡くなったの」

「そうなの!?」

 伊藤は話す決心をした。咄嗟についた嘘をこんなにも早く訂正するとは思ってもみなかったが話すなら今だと思った。

「うん。さすがに私もこんな事をいきなり言うのは重すぎるって思って控えていたんだけど恭一が、お姉さんが亡くなったっていう辛い事を打ち明けてくれたんだし、私も言わなきゃと思った」

「そうか。お互い辛いんだな。そっちは父親だからもっと大変だろう」

「でも、恭一と巡り会えたからこれからやっていけると思う」

「そんな大袈裟な」

「ううん。私のお父さんね、自分で言うのもあれだけど凄い良いお父さんだったの。一貫した曲げない信念を持っていて、バイクに乗るのが趣味だったんだけど、たまに乗せてもらった時の背中はカッコイイって思ってた」

「なんかそれを聞くだけでも、本当に格好良かったんだろうなって伝わってくるよ」

「そんな男性が目の前にいると、私がもしも付き合うならお父さんと同じくらい魅力的な人じゃないと嫌だって思っていてそんな人、見つかるかなって思ってたんだけど案外、早く見つかったなって思っている」

 伊藤には理想とする男性像があった。それに選ばれたと言われた。磯村はとんでもない重荷を背負ってしまったとこの時は思ってしまう。嬉しいという感情は残念ながらなかった。そんな強度のある、純粋な想いに応えられるのか、今の自分に自信などない。

「俺にそんな魅力あるかな」

 戸惑いから出た笑いを含めこう漏らす。

「だからもっと自信持って。恭一にもあるでしょう。自分はこう生きていくんだっていうような信念が。それがある人って大人でもそういないから、それがあるだけでこの人は違うなって気づくもんなんだよ」

 あるようなないような、ただまだ具体的にこうだと言えるものはない。やはり過大に評価しすぎだと念を押したくなる。

「恭一って高校時代、絶対にモテたでしょう? 付き合っている人はいなかったの?」

 また痛い所を突いてきた。だがこれに関しては正直に答えて良い気がした。嘘を言う必要はないが、ただ別れた理由は脚色した。

「いたけど別れた。ほら、俺って高校卒業しても進学しなくて今、フリーターじゃん。それで幻滅したんだよ。やっぱりそう思うのが普通だよね。碧も今はいいけど、いずれはこんな将来不安な男と付き合うのはやめろよ」

「なに、それ。それって私達いつか別れるって意味?」

 明らかに声が不機嫌になった。慌てて首を横に振りながら否定する磯村。嫌でたまらない記憶が蘇ってきてしまう。

「そんな私、学歴とかどんな職に就いているとか、上っ面が良いだけで付き合おうと思わないから。私から言わせてもらえればその人こそ見る目なかったねって言ってあげたい気分。恭一にはそんなものでは推し量れない魅力が絶対にあるから。でもおかげで私が恭一と付き合う事ができて感謝しているけどね」

 磯村にはまだ理解できなかったが伊藤にはその自分さえ気づいていない光るものが見えているらしい。それは何なのか、その期待にそえられるのかやはり自信はない。それよりも、自らついた嘘とはいえ彼女が悪く言われている事には心中、穏やかではいられなかった。それは間違っていると訂正できないから余計に。

「大丈夫。恭一は自分の進むべき道に突き進んで行けばその内、未来は明るくなるよ。私が保証する」

 今はこの言葉に懐疑的にならざるを得ないが良い人と付き合う事ができた、それには感謝した。これで少しずつでも前を向いて生きていけそうだ。この天の配剤を思うと世の中というのは必要な時に助けが差し伸べられると実感する。今は伊藤こそ癒しの女神だった。

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