1-1
鮮やかな転身だった。自分に救いの手を差し伸べてくれたというには些か恐怖を抱く。誰かがこの展開にもっていくように監視しているのではないかと疑いが持たれるほど仕組まれたようなタイミングと言って良かった。ここまでくるとあれは夢だったのかさえ思う。あの日々は幻だったのだと。この目の前の現実にそう言いくるめられているようだ。が、ここまでしてくれたら踏ん切りもつくというもの。これが偶発で、自然発生的であったとしても、それすなわち離れゆく
唇を離すと伊藤は飛び跳ねながら、はしゃぐように抱きしめてきた。
「これ、夢じゃないですよね?」
こちらもまだ夢ごごちのような気がしていた。まだ地に足が付いていない状態ながらもこの感覚は夢ではない。
「うん、違うと思うよ」
「やったー」
細かく足踏みしながら歓喜の声を上げる。この喜びようはまさか伊藤の胸の中に幾度もこの瞬間が来ないものかと以前から描き望んでいたと思わせる。その答え合わせは直ぐにしてくれた。
「私も磯村さんの事、初めて見た時から何かビビっとくるものがあって、ずっと見ていました。何度も考えて、あぁこれがきっと好きってことなんだろうなと分かってからは、どうしようか迷っていて、まさか磯村さんの方から……」
伊藤は涙の粒をいつの間にか流していた。私も、という言葉に胸がチクっと痛くなる。
「そんな泣かなくても。伊藤さんだったら今まで何人も男が寄ってきて、慣れているかと思ってたよ」
「そんな事ないです。私、話かけづらいのかここまで男の人から話しかけられた事もあまりなくて」
「へぇ〜。伊藤さん、高校生のわりに大人っぽいから仲良くなるのが難易度高いと思われているのかな」
「磯村さんが初めてかもしれません」
「えっ、何が?」
「なんというか自然体で、身構えずに話しかけてくれたの」
「そりゃあ、学校と違って働く場所だし。一緒に働く以上はある程度、話しかけやすい関係の方が良いと思ったからだよ」
それもあるし、伊藤が言うようにできたのは恋愛対象として見てなかった、見る事が出来なかったというのもあるかもしれない。だがそんな事は言えるはずはない。
伊藤は少し望んでいないような答えが返ってきて爆発させた喜びに早くも陰りが出始めた。
「……どうして、いつから、私と付き合いたいって思うようになったのですか?」
持ち直すように別の質問をぶつけた。そう。ならいつ、どのような理由で一緒にバイト先で働いている子から、別の眼で見るようになったのか、知りたくもなる。
「う〜ん、そもそも人を好きになるのに具体的な理由なんてないんじゃないかな? 伊藤さんがさっき言ったように、俺も初めて見た時からその、胸にくるものはあったよ」
「そうなんですね」
ここから磯村はもっとらしい言葉を羅列した、どちらかと言えば心の底からは思っていない言葉だ。
「でも、伊藤さんすごい綺麗だし、こんな綺麗な人だったらもう彼氏がいてもおかしくないなとか、ちょっと俺には釣り合わないとか思っていたんだけど、今日、今さっき、あんなに近くに寄られてきたら理性よりも本能が勝っちゃって……まさか拒否されなかった事には驚いたかもしれない」
それを聞いて伊藤は笑い声を上げる。
「そんな、あまり自分の事を下に見ないでください。磯村さんだったら大抵の女の子は惚れちゃいますよ」
「それで、調子に乗ったらろくな目に合わなさそうだから、謙虚な気持ちは忘れないようにするよ」
「それもそうですね」
駅前の広場から離れる事にした。付き合っている証、手を繋いで歩く二人。伊藤は学校帰りで制服姿だ。私服の磯村はこの並びに違和感を感じた。歳は3つしか離れていないので変な目で見られる事はないだろうが、まさか現役高校生とまた付き合える日が来るとは思ってもみなかった。
「あっ、そうだ。敬語とかさん付けは止めにしない? 付き合うんだし、いつまでもそれは変でしょう?」
「あっ、そうですね。となるとやっぱり下の名前がいいんでしょうか?」
「だから敬語は」
「あっ」
ごく自然に笑い合った。このような瞬間をこれから幾つも積み重ねていくのだろう、それが付き合うという事だ。そんな予感をこの時、確かめ合った。
「これからは、あおいって呼んでね」
「うん。俺は、きょういちって呼んでくれたら。みんな面倒臭がって略すんだよね」
「きょうちゃんは?」
またいつもの発作、いや、これから薄れゆくとしても一生付き合っていかなければいけない症状が初めて出た。心臓に衝撃が走る。
「それは、恥ずかしいから駄目かな」
「えぇ〜なんで? かわいいじゃん」
「かわいいとかそういい問題じゃない。あまり彼氏が嫌がる事はしない方がいいぞ」
警戒が解かれたようにおどけた態度を見せた伊藤はたまらなく可愛かった。これは上手くやれそうな気がした。今までの敬うような態度からの差に最初は戸惑うかもしれないがじきに慣れるだろう。
「あっ、でもバイト中は今まで通りの方がいいかもな」
「わざわざ言う事でもないけど、隠す必要もある?」
「流石に仕事中にそれ出すと周りから嫌われるだろう」
「それもそうか。ねっ、私の家に寄ってく?」
伊藤の自宅は駅から歩いて10分ほどと聞いていた。それは容易な事だった。
「えっ、家に誰もいないの?」
「うん、今だったら。いつもお母さんとお父さんが帰ってくるの早くても夜8時過ぎだし」
付き合い始めたばかりの男女が家の中で二人っきりになったらやる事はそんな多くない。まさか付き合って初日でもう手を出してしまうのか。健全な男子であれば沸騰するように湧き上がるものがあって然るべきだが。
「今日はいいかな。確かこれから雨降るって言うし。俺、傘持ってないから」
「傘なんて貸してあげるよ」
「いや傘って返すタイミングが難しいからいいよ。また今度。これからいつでもそんな機会はあるだろうし」
「うん、わかった」
これから、そうこれから私達は楽しい思い出をたくさん作って、笑い合ったり、励まし合ったり、時に喧嘩もするかもしれない。間違いなく体も重ね合う、そうじゃないと嫌だ。そんな日々が待ち受けている、それに想いを馳せても今この瞬間、あっさり断られた事にはどうも釈然としなかった。「私の事、嫌いなの?」ここまでのやり取りの手前、そんな訳あるはずはなかった。それでも不安になってしまうのはなぜなのか。誰かと付き合うという事はそんな不安との闘いでもある。伊藤は今日、二つの事を学んだ。
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